003.大空
お風呂――――
それは身体はもとより心の汚れをも洗い流すという。
フワフワでモコモコの泡はこれまでの汚れや汗を一気に洗い流し、湯船に張られたお湯によって身体を芯から温め、ささくれ立った心すら全て癒やしてしまうだろう。
もちろん自分もお風呂は大好きだ。
つい先日まで打ち込んでいた受験勉強。その数少ない気分転換の1つでもある。
まだまだ勉強中である身、お風呂の真髄はわからない。特にサウナとなれば暑いだけで何が良いのかさっぱりだった。
しかしそれでも、寒い冬空から帰って来た時のお風呂なんか格別というのは理解できる。
そんな心の洗濯ともいえるあるお風呂。
俺は先程牢から連れ出した少女を伴って、脱衣所まで足を運んでいた。
右手に繋がれているのは小さな手。伸びる腕はかなり細く、肉が無いといっていい細腕だ。
その上顔は長い前髪によって隠れて全く見えず、まさに身体全体が髪に覆われた姿はまるで
俺とそう変わらないほどの年齢。何年放置してきたかわからない。もしかしたら生まれてこの方髪を切ったことがないのかもしれない。
……それにしても、ここに来るまでも随分と苦労した。
まず彼女が裸足だったから怪我しないようかなりゆっくり歩いたし、牢を出てからもお風呂の場所がわからずどれだけ聞き回ったことか。
先導してくれているメイドと会った時にはかなり驚かれたし、案内を頼んだらかなりビクビクされた。
「この体、今まで一体何をやらかしてきたんだ……?」
「…………?」
「あぁ、いや。なんでもない」
脱衣所に着いてポツリと呟くと、引っ張っていた彼女の視線がこちらに向いて小さく髪が揺れ動く。
きっと首をかしげたのだろう。なんでもないと告げると向けられていた視線が霧散する。
正直、悠長にお風呂はいる前にしなきゃいけないことはたくさんある。
目が覚めたら突然謎の場所にやってきていて、そこにいる知らない人々。そして謎の自分。
調べなきゃならないことでいっぱいだ。しかし、それらを後回しにしてでもお風呂に入る理由もあるのだ。
彼女の髪はボロボロで、清潔感の欠片もない。肌は汚れ、くすみ、しばらく水浴びすらしていないことは明白だった。
綺麗好きの自分にはまずコレがマストである。あと自分も汗かいてるから洗い流したい。
更に言うなら神山家に伝わる『弱みを見せてはならない』。だ。
わからないことだらけで混乱してしまえば誰とも知らぬ者に浸け込まれる可能性だってある。
だからまずは落ち着いて、冷静に物事を見なければならない。緊急時だからこそだ。
「さて、まずは…………その服脱ごうか」
「――――!?」
「何故逃げる!? 脱がないとお風呂入れない…………でしょっ!!」
視線を彼女に向けた瞬間、少女はまるで散歩と思っていた犬が注射だと判明し逃げ出すように、踵を返して逃げようとした。しかしこの手は少女の手と繋がっており、腕を引っ張ってそれを阻止する。
そしてすかさず髪のバリアを突破するよう手を突っ込んでいき、その身に着ている服を思い切り引き下ろした。
彼女の服についてはさっき牢で見たからどうやって脱がすかは抜かりない。
茶色の麻布でできたワンピース。それも随分と質の悪い。着ているだけでチクチクと肌に触れるだろう。
後で着替えを用意してもらおうと心に決めながら肩の両側から引き抜くように服を下ろすと、少女は生まれたままの姿に変貌する。
「~~~~!~~~~!」
「はいはい、後で返すからね。 まずはお風呂行くよ~」
下着があれば面倒だとも思っていたが、幸いながら着ていなかったようだ。
脱がしたワンピースは籠に突っ込み、俺も彼女を押しながら服を脱いで放り投げる。
別に自分の半分ほど年下の身体に思うことなんてありはしない。
ただただ当時妹と一緒に入ったときのように浴室の椅子に座らせ、お湯を浴びさせていく。
お湯によって四方八方に散乱していた髪が纏まっていき、その身体があらわになる。
マトモな物なんて食べてこなかったのだろう。やはり手も足もガリガリで、腹部に膨らみが見られる。
それは栄養失調、飢餓状態で起こる腹水が溜まっている証左。どうやって食いつないできたのだろうか。
「次は泡流すよ~。目を瞑って~」
「~~~~!」
バシャアッ!
と、彼女が目をキュッと瞑った隙に勢いよくお湯を落とせば泡がどんどん落ちていく。
ふと、昔のことを思い出した。
妹ともこのくらいの年の頃同じことをした。アワアワまみれの身体をお湯で流す時キャッキャと笑っていたことが脳裏に浮かぶ。
ここはどこか、自分が何者かはわからないが元の場所に戻れるのだろうか。
「…………?」
「あ、何でもない。おわったから湯船行こうか」
少し思いに馳せ過ぎていたみたいだ。
桶を持ってジッとしている自分を不思議に思ったのだろう。少女の目がこちらに向けられていることに気づき、なんでもないと首を振るう。
小さく頷いた少女は視線で促された湯船へとテコテコ歩いていく。
歩くのにつられて左右に動く後ろ姿。まだまだ手入れが必要なものの、肌に関しては元々髪バリアーで守られていたのか綺麗で真っ白な肌へ変貌していた。
おずおずと、ゆっくり片足から水面に触れさせる少女がその暖かさに身体を震わせるのを見て苦笑しながら、自分は迷うことなく同じ湯船に身体を浸けさせる。
「…………ふぅ」
ようやく訪れた安堵の時間に思わずため息が出てしまう。
目が覚めておおよそ2時間。ほんの少ししか経っていないものの、あまりに濃密すぎて1日走り回ったかのような疲労を感じていた。
身体を委ねるように頭を縁に乗せながらふと辺りを見渡す。
しかし、神山家は最新鋭のジャグジー付きお風呂だったが、ここはまるきり銭湯だ。
何人も同時に洗えるシャワーも、籠がいくつもある脱衣所も、このただ広い湯船も。まさしく銭湯。異世界か他国かしらないが、日本の趣がこの家まで伝わっているようだ。
「…………」
「……うん?」
湯船に突っ込んだ彼女を放って一人天を仰ぎながらボーっとしていると、ふと肩を叩かれていることに気が付いた。
目を向ければ隣にいる彼女がまんまるな目を向けて口をパクパクとさせている。何か伝えたそうにしている。
「どうしたの? しばらくゆっくりしてていいよ」
「ぁっ………あっ…………」
「……?」
まるで緊張とパニックでいっぱいいっぱいになった人のように。
『あ』だけを繰り返す少女に疑問符が浮かぶ。
言葉を理解しているのはわかっていた。しかし今まで言葉を発しなかったことから喋る概念がないのかさえ思っていた。
たどたどしくも口を開けて何かを伝えようとする少女に身体を起こして向かい合う。
「あっ……あ……ありが……と……」
「――――!!」
――――ありがと
その確かな言葉に、だらけていた身体を起こして目を向ける。
彼女は確かにその口で、言った。お礼の言葉を。
「喋れるの……?」
「う……ん……。 慣れて……ない………けど」
確かに声はところどころ掠れており、言葉を発すること事態に慣れていなさそうだ。
それでもなんとか思いを伝えようと少女は更に言葉を続ける。
「ありが……と。助けて……くれて。 殺される……ところだった」
「殺されるなんて……そんな事あり得ないよ……」
「ううん……。 貴族様、傷つけた……。殺されるのが、普通」
「貴族……? ボクが?」
思わぬ言葉に問いかけると、彼女はゆっくりと頷いて見せる。
貴族……貴族か。大きな屋敷大きな庭。そして大勢のメイドときたからまさかと思っていたが、やはりか。
「本当に……雇ってくれる……?」
「雇うって、さっきのメイドの話?」
その問いに記憶を掘り返すと先程牢で言っていた事を思い出す。
半分勢いで言ってしまったが、確かに俺個人のメイドと言っていた。
「違う、の?」
少女の不安げな瞳が揺れている。
雇わなかった場合、少女はどうなるのだろう。
少なくともこの家にはいられない。少女の行っていることが真実なら、殺される可能性は十分考えられる。
「キミか良いならお願いしたいけど……どうしたい?」
「……!なりたい……! あなたに……仕えたい……!」
パシャリと手を床につけ、前のめりになってくる彼女に思わず目を丸くする。
大空を思わせるような蒼くて大きな瞳。そして無垢でもあるその目は、真っ直ぐこちらを射抜いてくる。
「わ、わかった……。 じゃあ、最後にキミの名前は……?」
戸惑いながら彼女に問うと、ゆっくりと姿勢を正しながら一礼し、お辞儀をする。
その笑顔はまさしく天使のようで――――
「――――シエル。 シエルです。ご主人さま」
彼女の笑みは、まさしく知らない場所に放り出されたこの不安の心を照らすよう、一筋の光として輝くのだった。
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