金魚/覆水盆に返らず

 生物に責任を持てる人と、持てない人がいる。

 私は後者だろう。愛しく思って迎え入れても、やがて自分の”やりたいこと”に熱中して忘れてしまう。ただ、一度だけ金魚が長生きした。春の縁日ですくった、3匹の内1匹、赤い体に、切子細工のようにのびやかで薄い尾が続いていた、

 朝、出かける前にエサをひとつまみ。私のやったことといえばそれだけで、褒められたことではないけれど、掃除も水替えも一か月に一度やれば多い方だった。


 金魚は強く生きた。


 仲間の2匹が死んでも、1年、2年と大きくなった。

 金魚の長さが私の親指を超えるほどになった頃、ルアーを調節しながら父が言った。


「そろそろ、水槽大きくしたら?」


 真っ先に考えたのは、小遣いのことだった。

 欲しいゲームがあり、解かなければならない問題集ドリルがあり、受験を考える時期だった。アルバイトもできないから父母から渡される月3000円の小遣いでやりくりしないといけない。

 以前『水槽が狭いかも』と覗いたホームセンターで、水槽は2000円を超えていた。飼っている金魚に2000円以上を出す優しさも、命を預かる責任感も、私にはなかった。


 3年生きて、金魚は浮かんだ。

 以来、私は10年、生き物を飼わなかった。


 今、多肉植物とレモングラスに水やりをしながら私は考える。

 多肉植物は植え替えを機に一つ枯れた。寄せ植えだったハーブは虫と干天にやられて、今はレモングラスしか残っていない。哀れに思って対策を考えなければ―――と、思う一方、頭の片隅で『枯れてしまえ』『早く』と喚く自分を自覚する。自分に面倒責任を手渡すなと、幼稚園の、小学生の、中学生の、高校生の自分が叫んでいる。

 他方で、やはり無責任に、こんなことも考える。


『種を残せる所へ、つれていったらどうなるだろう』

『もし、あの金魚に番ができるよう図らっていれば、どうしただろう』


 責任をとれない子どもの戯言で、考える。

 私がかつて飼った生き物たちの幸せは、どこならあっただろう。私の所へ来なければ、あるいは等身大の幸せを―――少なくとも私に飼われる以上の幸せを―――得ていただろうか。


 並木の桜や、アスファルトの蓬を見る度、そんなことを考える。

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