第7話

 アキの話を聞いてからは益々、教師とは一体なんなのだろうと疑問を抱く様になった。

 高校は出て当たり前、という時代にはなっているが、それでも高等学校は義務教育ではない。高校に通って学びたい、意欲のある者が来るための場所である。厳密に言えば。

 そして真面目に授業やテストを受けて、単位を取れれば良し、取れなければ留年。それらが嫌なら辞めれば良い。来る者は拒まず、去る者は追わず。システムだけで言えばそういうことだ。

 だからいちいち、一人の生徒の家庭問題には余計な口は出すものでもなかろうし、それこそそんなことをしていたら、特定の生徒に肩入れしているではないかと、また、小言をもらうであろう。

 実際、一介の教師にできることは限られている。せいぜい児童相談所の様な機関に問い合わせ、児童福祉の法の下で動く人達と、今回で言えばアキを繋ぐ様なことしかできないのだろう。おれがアキの家へ乗り込んで行って、拳骨を振りかざしながら親御さんに講釈を垂れるよりも、きちんと法の下で処置する方が望ましい。

 でも、果たしてそれだけで良いのだろうか。「生きる力を育む」、「自分らしく、主体的な子どもを育てる」ためには、もっと一人の人間の心にも踏み込んだ教育というものが必要なのではないのだろうか。そこが見えないから、学生の頃に何度も読まされた指導要領には、まるで血が通っていないと感じたのかもしれない。

 かといってそこまでの情熱がおれにあるのかと問われれば、そこも疑わしいものではある。

 なんにせよだ。金八先生はこの世にはいないし、生徒のためにと河川敷を駆けずり回る熱血教師は、今の時代には求められていないのかもしれない。教師が対応するのはあくまで学校で起きてしまった問題だけで、敷地を一歩でれば、それは自己責任、家庭の問題である、という対応を取ることが現実的なものなのかもしれない。


 アキの方はと言うと、これがまた不自然な程いつも通りであった。あんな背景を聞いたからかもしれないが、その姿がおれにはいたたましく見えてしまう。

「ハルさん、今日どしたん?お腹でも痛いん?」

 腹は痛まないが、お前のその無駄に明るい姿を見ていると、腹よりもっと上の方がズキズキしてくる。

 でもそれは、本当はアキに限った話ではない。ここにいる奴ら全員、そりゃあ毎日こうして飯を食って学校に来てと、生きているのだから、大なり小なり何かしらは抱えているのだろう。

 だが、クラス三十人。全員のそんな心の荷を、いっぺんに背負ってやることなんか、とてもじゃないができやしない。だからこそ、個人に対して、中途半端に首を突っ込むことは良くないのだろう。「教師は教師、生徒は生徒」やはり適当な距離で、眺めているしかないのかもしれない。下手に関われば、お互いに苦しい思いをしなければならなくなってしまうのだから。


 それっきり、アキとは話をしなくなった。なんてことにはならない。こちらは仕事で、向こうは生徒で、お互い毎日学校へ通い、教室でも顔を合わせるのだから、避けようがない。それに、変に避けていたら、それはそれでアキにも周りにも、何やら違和感を与えてしまうだろう。

 だからおれは毎日、仮面を被って家の玄関を出ることにした。教師という名の仮面さえ被っていれば、何も面倒なことはない。相手はただの生徒で、おれは大人達の言う、教師という役割を演じれば良いだけのこと。いつの間にか、おれも校長の言いつけ通りの人間へと変貌していってしまっていた。

「最近、なんかハルさん変やで!ウチに何か隠しとるやろ?」

 隠し事をしている訳ではない。おれの、お前達への見方が変わっただけだ。

 ただ、こんなことしていたら、おれ自身がおかしくなってしまいそうだ。自分を偽り、自分の気持ちを心のどこかにグッとしまい込んで生きていくなど、とてもじゃないが耐えられない。こんなこと何十年も続けていたら、本当におかしくなってしまう。そうなる前に、次の春、任期が来たらすっぱり辞めよう。教師なんて仕事はもう懲り懲りだ。どうせ元々、本気で教師を目指していた訳でもないのだから。



 いつしか年が明け、冬が来た。四国山脈が白くなり、その色が少しずつ少しずつ山を染めながらこちらへ近づいてくる。おれの地元は山に近いから雪が降る。二月やそこらが積雪のピークで、ガキの頃には毎年の様に雪遊びをしたものだ。

 だが、温暖化の影響で、年々その積雪量も減り、山ほど雪が積もるということはほとんど稀になってきた。それを寂しいと思わなくなってきたのも、大人になってきたからだろうか。何より寒いこと自体が苦手になりつつあり、冬場は外に出るのも億劫になることが多くなってきた。こんな中で、半袖で駆け回るガキの気が知れない。


 年が明けたということは、いよいよ年度末を迎える。アキを含めた三年生は、この春で高校を卒業していく。進学する者や就職する者、皆それぞれで、アキは就職組だそうだ。

 一刻も早く家を出て、経済的に自立をしたいのだろう。でも、そう焦って世の中に出る必要は無いと思う。今では奨学金を借りながら進学する者だって沢山いるし、何ならおれもそうして大学へと進んだ人間の一人だ。おれみたいに、大学へ行ってもやりたいことが見つからない奴がいるのは確かだが、もし自分の希望があるのなら、それを曲げてまで無理に働く必要は無いと思う。

 何か将来やりたいことや、なりたいものはないのかとアキに聞いたら、「お嫁さん!」と言う。それならもう、好きにしたら良い。人の嫁になるのに学歴は関係ないから。



 ある夜、電話が鳴った。アキからだ。夏休みの様に毎日ラインでのやり取りをするということは無くなったが、今でも再々電話は掛けてくるものだから、何の気なく電話に出た。しかし、いつもと様子が違う。「ハルさーん!今何しよん?」という、あいつの鈴鳴りの様な声が飛び込んで来ない。代わりに、鼻をすする音だけが聞こえてくる。

「お前泣きよんけ?」

 返事がない。どうしたものかと、とりあえずアキが落ち着くのを受話器越しに待つことにした。


 何時間にも思える様な時が過ぎた。まだ少し鼻をすすりながら、アキの涙声が聞こえた。

「ごめん」

 とりあえず喋れる様にはなったらしい。せっかく電話をしてきたのだから、その涙の理由を尋ねた。

「あんな、パパに殴られたんよ。ほんで家飛び出してきた」

 血液の温度がみるみる上がっていくのが自分でも分かった。親から拳骨を喰らうということについては、別にそう大した問題だとは思っていない。そんなの誰でも一度や二度は経験して大人になっていくものだし、悪さをすれば叱られるのは当然のことだ。

 おれもガキの頃、近所の人様の家の柿を友達数人で食い尽くした時には、親からめっぽう小突かれて、同じ様に顔を腫らした連中と、首を揃えて謝りに行ったことがある。それも親が与える教育で、一つの愛情の形ではあると思う。

 ただ、アキの家庭においては違う。話を聞く限りでは、あいつは普段から、子が親から当たり前に貰うはずの愛情すら与えられていない。教育は、抱きしめてやることと突き離すことだろう。単に突き離すだけでは、それはもう何の裏返しも無い、ただの虐待である。

「お前、今どこにおるんや?」

「家の近くのコンビニ」

「すぐ行くけんそこで待ちよけ!」

 おれは身支度もそぞろに、すぐさま家を出て車を飛ばした。おれが行ってどうする。そこに行って何ができる。そんな思いは頭にもよぎらなかった。

 言われたコンビニに着くと、すぐに分かった。着の身着のまま飛び出してきたであろうアキが、駐車場の縁石に腰掛け小さくなっている。学校でないから、髪も結んでいない。

「あ、ハルさん。ホンマに来てくれたんや」

 少し顔をあげたアキは、目を真っ赤に腫らしている。寒いし、こんな所で泣いてても何だからと、とりあえず車の助手席に乗せた。その時チラッとアキの顔を見たのだが、左の頬と一緒に唇も少し腫れていた。

 車で待たせておいて、コンビニでカフェオレを二本、冷たいものと暖かいものを買ってきた。冷たい方を差し出すと、この寒い中冷たいのはおかしいと言うので、その顔を冷やしておけと渡しておいた。それでも飲むのは暖かい方が良いと言うので、しょうがなく二本ともやる羽目になった。

 あれだけいつも気丈に振る舞っていたアキが泣きながら電話してきたくらいだから、只事で無かったのは分かる。ただ、飛び出して来てみたは良いが、いざアキを目の前にすると、何と言葉を掛けて良いのか分からない。向かって来る時は何とも思わなかったが、ここに来てもおれがこの子にしてあげれることは、実は一つも無いのだと気付いた。車の座席に並んで座ったまま、しばらく無言の時間が続いた。

「もうホンマに、あの家嫌やわ」

 目には涙を溜め、それを溢すまいと堪えながら、アキはか細い声を絞り出した。それは、アキの心の底からの叫びだった。その叫びを聞いて、何とかおれなりに応えようとハンドルを握った。

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