第6話
あれからもたまに、アキから電話が掛かってくる様になった。正直言って電話の内容に中身は無い。最近学校でこんなことがあっただの、あの先生の授業はつまらないから今日も寝てしまっただの、最近太ってきただの。まぁどうでも良い話を楽しそうに喋る。
「そろそろ髪切ろうか迷っとんやけど、どう思う?」
どうもこうも無い。それに女の、特に、「前髪切った」なんてのは、男の大半は気付かない。おれもその大半の中の一人だ。
「ハルさん!ウチ、昨日と違うとこあるんやけど分かる?」
だからこそ、こんな問いかけも困る。そんな間違い探しを急に出題されても、こっちはそこまでお前一人を、隅々まで観察している訳ではないのだ。
「正解はー……髪留めでしたー!」
左右の二つ結びの根っこを持ちパタパタさせている。言ってることもその動きも、馬鹿丸出しだこいつは。
「そんなもん、誰が分かるんや」
「友達らは気付いてくれたで!それいつものと違うやん、って!ハルさんはまだまだやな!」
まだまだで結構。正解したいとも思わない。そんな不毛なやり取りが、日常的に行われていた。
アキの方も相変わらずだったが、おれの仕事の方も相変わらずだ。博士に軽く釘を刺されはしたが、今更生徒に、「ちゃんと先生って呼べ」などと言えやしないし、言おうとも思わなかった。
吹っ切れた訳ではないが、もうあれこれ大人の小言に耳を傾けるのをやめた。おれみたいな奴を雇った校長をはじめ、さらには県の教育委員会の奴らが悪い。おれが気に入らないならとっととクビにでも何にでもすれば良いのだ。半ば開き直った心持ちで仕事に務めた。
そんな調子で一学期を終え、夏休みを迎えた。夏休みと言っても、教師にとっては休みではなかった。生徒も登校して来ない、授業も無い、何をする訳でも無いのに、定刻を守って毎朝出勤しなければならないと言うのだ。
厳密には進学に向けた補習や部活等はあるため、本当に一人も生徒が登校してこない訳ではないのだが、おれの様なやる事の無い人間にとっては、全くもって無駄な出勤とその拘束時間である。
最初の三日程は、向かいの四浪の真似をして、教科書を開けたり何やら難しそうな顔をしたりと勉強や仕事をしている素振りを周りに見せていたが、馬鹿馬鹿しくなってきたので、それもすぐに止めてしまった。
あっちの花柄は相変わらず読書をしていることが多かったのでおれも本を読んで時間をやり過ごそうと試みたが、すぐにウトウトしてしまうので、活字を追うことすらもやめ、ただ本を開いているだけになった。
立襟シャツの野郎は部活の顧問を受け持っている様で、夏休みになってからはとんと見かけなくなった。
こうもやる事が無いと退屈で仕方がない。部活生や補習組の生徒達が多少なり登校しているとはいえ、いつもの喧騒というのか、生徒の賑わいの無い学校は眠っている様に静かだ。この校舎もおれと同じく、暇で暇で、うたた寝でもしているのだろう。
夏休みに入ってからも、週に一度か二度はアキからの電話が鳴った。おれも毎日時間を持て余しているが、アキも退屈している様子だった。
せっかくの夏休みだから友達と遊べば良いではないかと言うと、この夏から親の許しが出てバイトを始めた子、彼氏ができたために遊ぶ機会が減ってしまった子、周りを見ると毎日暇なのは自分だけなのだと漏らす。
お前も早く彼氏の一人でも作れと言ったら、同年代の男は子どもっぽくて嫌だと返してきた。お前も十分過ぎるほど子どもっぽいと言うと、また受話器越しにプンプン言っていた。
たまの電話に加えて、ラインを毎日送ってくる様になった。電話番号を登録したばっかりに、知り合いかも?の欄にいるおれを見つけられてしまった。
毎日やり取りをすると言っても、ダラダラと何通もメッセージを送り合うことはしない。アキが朝、今日の天気や気分、その日の予定や、夏休みの課題の滞り具合を、勝手に送りつけてくるので、おれが適当に返すだけだ。
「今日の予報は一日雨やけんお出掛けする気にならな〜い!ハルさんがどっかに連れ出してくれー!」
「そんな気分の日だからこそ、家にこもって宿題をやってしまいなさい」
最初送られてきた時には面倒に感じたが、夏休みも後半になってくると、もう日課の様なものになっていた。
身支度を終えて出発をし、出勤中の電車の中でアキにラインを返す。たまに届いていない時はそのまま放っておき、帰りの電車で携帯を見て、昼前くらいに送られてきていたアキのラインに返す。休みである土日は、おれが昼過ぎに返事をする。
日に一回、無駄なやり取りをしていくことは、言わばお互いの生存を確認している様なものであった。今日も今日とて、とりあえずは布団から起きて生活をしていますよ、と。この一日一通のやり取りは、夏休み中ずっと続いた。
「明日から二学期やね!学校行くの楽しみ!」
「もうこの生活に慣れきってしまったけん、おれはずっと夏休みであって欲しい」
新学期初日、おれの気分とは正反対に、アキに限らずほとんどの生徒達はウキウキで登校してきた。クラスメイトでも、久々に会う友人の方が多いだろうし、この連休での土産話をあれこれと引っ提げてくるからだ。「結局どっこも行けんかったしー」などと口にしながらも、どいつもこいつも機嫌良さそうに話している。こういう所は、おれがガキの頃と変わらないのだな。時代が変わっていっても子どもは子どもだということだ。
すっかり日に焼けた奴、化粧が少し濃くなった奴、昨夜に慌てて黒染めし直したであろう髪が真っ黒な奴。成る程。新学期初日というのは、またある意味新鮮で、これはこれでこいつらを見ているのも面白いのかもしれない。一人だけ変わらない奴もいるが。
「ハルさん、おはよう!久しぶりにウチに会えて嬉しいやろ!」
高校生活の夏を一山越えても、アキに関しては相も変わらずといった様子であった。
新学期になって、一つ様子が変わったことと言えば、毎日、帰りに駅でアキと会う様になった。
そして大抵アキは、ベンチに一人で座っているのだった。あまりにいつも一人でいるから、友達はどうしたと尋ねたら、夏休みから始めたバイトをそのまま続けていたり、恋人と遊ぶのに夢中だったりと、今まで暇でたむろしていた時間を、友達連中はそちらに充てる様になったとのことである。
女は時間と共に枯れていくのだから、こんな所で油を売っていないでお前も何かやれと言ったら、「女の子に枯れるとか言うたらアカンやろ!」の一言で一蹴された。
夏はすっかり終わり、少しずつ日も短くなってきた。まだ冬ではないとはいえ、太陽が沈み辺りも薄暗くなってきたら、肌寒さを感じる。
駅前は街のど真ん中だから、ビルの明かりや立ち並ぶネオンが辺りを煌々と照らしているし、これから一杯引っ掛けにと行き交う人だかりで、夜の暗さも静けさも感じることはない。
でも、その人通りの傍にポツンと置かれたベンチで、いつも一人で座っているアキを遠くに見つけると、何となくこいつが孤独に見えた。規則正しく並んで歩道をくまなく照らしているはずの街灯が、劇中のスポットライトの様に、どこか寂しく、アキの頭の上だけを照らしている様に感じた。
そんなアキを見ていると、段ボールに入れられた捨て猫を見つけ様な気持ちになったので、この日はアキに見つからない様に改札の前の自販機まで行き、あったかいカフェオレを二本買ってからアキの所へと向かった。
「あ!ハルさん!今日もお疲れ様!」
いつからここにいたのか、アキはすっかり寒そうに小さくなっている。おれは黙って、カフェオレをアキの膝元へポンと放り投げた。
「ありがとー!もう寒くて死にそうやった!」
アキは肩をすぼめて、両手で缶を握り込み暖を取っている。
「もう寒なってきたんやけん、いつまでもこんなとこおったら風邪ひくで」
せっかく自分の分も買ってきたので、おれもベンチに腰掛けた。
「ハルさんもカフェオレなん?お子ちゃまやね!」
「おれは苦いの飲まんのや」
「ウチも!ブラックとか無理!」
「お前それ飲んだら帰れよ。ホンマに風邪ひくで」
アキは缶を握り締めたまま目を伏せている。少しいつもよりテンションが低い。
「冷えてしもて腹でも痛いんか?やったら飲まんでええけん早よ便所行け」
「そんなんちゃうわ!」
言い終わるとまたアキは下を向き、少しの間沈黙が続いた。
「――ウチな、家に帰りたくないんよ」
普段からは想像もつかない弱々しい声で、アキがほろりと溢した。どうやらこれはいつもの様に茶化したり聞き流したりして良い雰囲気ではなさそうである。どうしたのか訳を聞いた。
アキは静かな落ち着いた口調で、自分の家庭環境のことを話しだした。
家族構成は、父、母、アキ、弟の四人家族。一見すると普通の家庭なのだが、父の方は義理の父親だという。血が繋がっているのは母とアキ。母が今の父親と再婚したのはアキが中学生の時で、弟は、母が再婚してからできた子であるという。これだけならまだどこにでもある様な、少し複雑な関係の家庭で済む。問題は、両親の愛情が全て幼い弟の方に向けられているため、アキは今、ネグレクトの様な扱いを受けながら日々を送っているということ。
食事の用意、衣服の始末、そういった、日常の最低限のことすら親から施されていないのだと言う。家にいる時は極力自分の部屋で過ごす。食事は当然の様に自分の分は準備されていないものだから、家族で共に団欒をすることもない。皆が食事を終えた頃、ソロソロと台所に立ち、余ったもので何とか作り合わせる。洗濯は皆の分が終わったのを見計らってから。「これで自分で生きていけ」と言わんばかりに、少ない小遣いと、携帯だけは何とか与えられている様であった。
一度だけ、バイトをしたいと勇気を出して母に相談したが、それなら小遣いは出さない、携帯代も自分で払え、何なら余った金は家に入れろと言い出したものだから、それではバイトをしようがしまいが同じ、むしろしない方がいくらかましだと考え、やらないことにしたらしい。
血の繋がっている母親でさえ、娘に手を差し伸べ様としてくれない。義理の父の方は尚のこと。もう自分は、家にいてもいなくても同じ存在として扱われる。だからあの家には帰りたくないのだと。
おれは面食らった。そんな重たい身の上話を、こんな所でカフェオレ片手に聞かされるとは思ってもいなかったし、何より、今まで見てきたアキの姿からは、そんな背景を想像もさせなかったから。
「今日も朝ご飯ちゃんと自分で作って、昼の弁当も準備してきたんやで。ウチ、偉いやろ?」
偉いとかそういう類の話ではない。おれはしばらく言葉を失っていた。
「慣れたらそんな暗い話でもないんやで。それにウチな、高校卒業したらすぐに家も出るけん、もうちょっとの辛抱なんよ」
確かに今がその調子なら、仕事さえ見つかれば生きていくのも訳はないだろうが。
「聞いてくれてありがとね!あ!今日の話は誰にも言わんとってよ!」
言い終わると同時に、アキは缶を握ったまま立ち上がり、「また明日ね」と小さく手を振り、そのまま人混みの中に消えていった。おれは立ち上がり、アキの背中を探そうとしたが、すぐにもうすっかり見えなくなった。
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