第20話


アーサーはふらつく足を引きずるようにして部屋を出ると、自室に戻るため王宮内の廊下を歩き始めた。

 窓の外はすでに暗くなり、夕刻の時間を迎えている。

 うつむくようにゆっくりとした歩調で歩き、不意に目線を上げるとその先に王太子である兄アリスターの姿が見える。

 ゆっくりとこちらに向かって歩き近づいてくるアリスターの姿を見ながら、何故か足が動かなくなってしまったことに気が付く。体が気持ちに追いつかないのだ。

 気持ちが逸るばかりで、焦れば焦るほど体が動かなくなってしまう。



「アーサー、先ほどバルジット侯爵夫妻を見かけた。話しは済んだのか?」

「兄、うえ……」


「アーサー。もう、あきらめろ。バルジット侯爵令嬢のことは忘れるんだ」

「っ!! な、なにを?!」


「お前が何やら動いているのはわかっていた。わかっていて、見逃していたんだ。お前が国の為、私の為に働くつもりでいることはよくわかっている。だからこそ見て見ないふりもしてきた。だが、これ以上はもう私でも抑えきれるものではない。もう難しい。

 アーサー。彼女を、白百合の君を忘れるんだ。今ならまだお前を守ってやれる。頼む、執着を捨ててくれ」



 息がかかるほどの近い距離で、視線を反らさずに語りかけるアリスターの声が、言葉が、アーサーには遠くに聞こえてくるようだった。

 重かった足は鉛のように沈み込み、立っているのさえやっとだ。倒れそうになる体を咄嗟に壁に手をついて支えた。

 


「兄上は、兄上たちは幼少の頃から婚約者を決められ、自由がなかったから。

王太子として、この先の国王として人を好きになることを許されぬまま、国のために婚姻を結び、人を愛することを知らないからそんなことが言えるのです。

 人を、アリシアを愛してしまった俺はもう、アリシア無しでは生きられない!

 本気で人を愛したことのない兄上にはわからないんだ!!」



 王宮の廊下に響き渡るアーサーの声。視線を反らさぬままに向かい合う兄弟。アリスターは寂しく、悲しい瞳を揺らしアーサーに問いかける。


「私やフィオーナが恋を知らないとでも思っているのか? 幼い頃から婚約を結ばされ、互いしか知らぬから、焦がれる想いを感じたことすらないと本気で思っているのか?」

「だって、そうではないのですか?いくら仲が良くても、それは兄妹のような、家族のようなものでしょう? そんな風にしか見えない!」


「お前の目にはそう映ったんだな。いや、そうだな、間違ってはいない。そう見えるように私たちも心掛けていたから。お前は正しいよ。

 だがな、私もフィオーナも人間だ。何も思わず、何も感じないわけじゃない。

 与えられた相手に満足いかず、心を違ったこともある。

 別の人を愛し、叶わぬ想いと知りながら、求めてはならないと思いながら、それでも諦めきれずに、いっそ心など壊れてしまえば良いとこの生まれを呪ったこともある。

 それは、私だけではない。フィオーナだって同じことだ。

 だが、私たちはこの生まれの為に自分を、その想いを捨てたんだ。国の為、民の為に生きる定めから逃れることはできない。苦しくても、辛くてもそれを受け入れた。

 だからこそ、互いを慈しむように大事に想う事ができる。同じ思いを、志を持った者同士だから理解し、許すこともできる。

 激情だけが愛の形ではない。今のお前には理解できないかもしれないが、私はフィオーナを愛している。そして、彼女もまた私を愛してくれていると信じている」


「そんなの、そんなのは愛なんかじゃない。私の愛は違う。私はアリシアを、アリシアだけを想っている。他の者などいらない。私が望むのはアリシアだけ……」



 壁に手をつき支えていたアーサーの体が、沈むように足元から崩れ落ちた。

 目の前のアリスターの足にしがみつき、すがるような眼差しで訴える。



「兄上。私は兄上の足元を脅かすつもりはないのです。兄上の為にこの身を使う覚悟はできています。何も望んでなどいない。私が望むものは、ただ、ただ、アリシアだけなのです。アリシアがそばにいてくれさえすれば、私は生涯、兄上に忠誠を誓いこの身を捧げます。だから、だから、どうか……アリシアを、アリシアを私の手に」



 アーサーの掴んだ両手はあまりにも力強く、アリスターは足を取られそうになる。

 自分の足に、腰に伸ばした手の思いが分からないわけではない。出来ることなら叶えてやりたいと願った日もあった。しかし、もうそれも難しい。



「お前が私のために、自分の手を汚してくれていたことも知っている。本当に感謝している。兄として、弟の願いを叶えてやりたかった。だが、もう戻ることはないと知れ。

 お前は間違ったんだよ。たとえどんなに歪んだ愛情でも、周りの目を気にし、もっと上手くやるべきだったんだ。

 バルジット侯爵令嬢が病気療養中に貴族籍を抜き、修道院に入ったことはすでに話が漏れ始めている。

 そこまで追い詰めたのはお前だ。それは誰の目にも明らかだろう。

 もう、どうすることもできない。頼むから大人しくしていてくれ。

兄として、最後の願いだ」


 アリスターを掴んでいた手の力が抜け、その両手が床に滑り落ちた。

 体を支えるのがやっとの状態で、頭を垂れ肩で息をするアーサーは何も答えることができない。否定も肯定もできない。彼の中の答えは一つだけ。


『アリシアは、もう手に入らない』その事実だけ。



 兄は弟に背を向けると、一度も振り返らないままその場を後にした。



 

 兄の足音が聞こえなくなると、弟は吸い込まれるように冷たい床にその身を横たえた。


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