第30話 隠し事


俺の病気のことまで知っているのか、参ったな。そこまで知っているとは思わなかった。夕陽は完全に沈み、雲の隙間から薄い黄色の月がうっすらと見える。

「亜由未は、なんでそんなことまで知っているの?」

「うーん」と亜由未は少しだけ考えると「なんでだろう、わかっちゃうんだよね」と申し訳なさそうに答えた。

「ただ、全部が全部わかるわけじゃないんだ。ただ、病気を患っている。しかも、それがきちんと通院しないといけない病気だということかな」

「うん、そうだね。否定はしない」

「だったら、どうしてちゃんと治療を受けないの」亜由未の言うことは至極全うで当たり前のことだった。

「俺は腎臓に難があってね。ただ、治療しても、その先のことを考えるとね」

隠しても仕方がない。俺は順を追って亜由未に説明することにした。



俺が25か26歳のときだ。正確には覚えていない。

営業の仕事で胃に穴が空いているしまったような痛みを覚え、近所の病院で胃カメラと超音波検査、いわゆるエコー検査をしてもらった。

胃潰瘍ではなかったが、その代わりに別の病気が発見された。

エコーで腹部を調べていた医師は不思議そうに「あれ?おかしいな?」と何度も繰り返していた。

「ちょっと君の腎臓でわからないことがあって、紹介状を書くから一度大きな病院で検査を受けたほうがいい」と言われ、俺は不安を解消し、正体を突き止めるためにも医師の指示に従い、紹介された病院へ向かった。

「皮肉なことに、その病院が亜由未と千葉が入院した病院なんだ」

「そうなんだ」

「ごめん、煙草を吸いながらでもいい?」

「いいよ」亜由未は珍しく喫煙に寛容な態度を示した。



「もの凄く簡単に説明すると、人間には腎臓が左右に1つずつあるんだ」

「腎臓って2つあるの?」

「そう思うよね。俺も知らなかった」ふうと煙を吐く。

「それで俺の場合は右の腎臓がなかった」

「なかったっていうのは、無くなっちゃったってこと?」

「いや、そもそもなかったんだ。最初から。聞いたときは耳を疑ったよ」

生暖かい夜風が吹き、煙草の火が小さな塊になって飛びそうになり、俺は慌てて手を伸ばしたがいつの間にか消えていた。

「ただ、1つしかないって別段珍しいことではないみたい」

「そうなんだ。だったら」

「俺もそう思った。でも少し違っていたんだ」



2つあるなら1つで補うだけ。それで何の問題もない。

俺の場合も例外に漏れず、右の腎臓がないので左の腎臓でそれを補っていた。

ところが、左の腎臓に負担がかかりすぎたのと、形が異常に変形し、動脈の繋がりも本来よりも大きくズレていたせいで、左の腎臓は風船が膨らむように肥大していった。



「でも、治療法はあるんでしょう?」

「うーん、俺が言われたのは決して明るいものではなかったな」

もう一本煙草を取り出す。

「俺は人工透析の可能性や移植の可能性を示唆された。かなりの確率のでそうなると」

亜由未は黙り込んだ。

「あとはも疲労感が歳をとるにつれて酷くなって、本当に体が怠くて疲れがとれないんだ」

俺は手に持っていた煙草に火を点けず、改めて亜由未を見た。

「なんだろう、そこまでして生きる意味があるのかな?って考えるようになった。仮にだよ?人工透析してまで生きる意味があるのかな?それで俺は希望のもてない未来に歩いていく自信がなくなった。まともに働くのが嫌になったんだ」

「それはあまりにも寂しすぎるよ」

「俺が言いたいのは、元気な人でもある日、突然、病気や事故で死んでしまうかもしれない。それはわかるんだ。でもね、それにしても生きることに前向きになれないというのが物凄くきつくてね。結局、俺は何も変わらなかった。今だって逃げようとしている」



「その気持ちはわかる気がする。でもね・・・」

「うん、亜由未の言いたいこともわかる。俺はさ、5年くらい前に新井の家にお線香をあげに行ったんだけど、新井の両親から息子の分まで生きて欲しいって言われて・・・でも新井の遺影を見たときに俺は新井に会えるかな、って思っちゃったんだ」

「まさか、死ぬ気じゃないよね?」亜由未は心配そうに俺の瞳を覗き見た。

「今はそこまで考えていないけど」

「いないけど?」

「何年か前、『あの子を残して死ねない、博司のの未来が気掛かりって親父とお袋が話しているのを聞いちゃって、ああ、俺は長生きできない。長く生きれば生きるほど両親を心配させる。そう思うようになって」俺は更に続けた。

「だから、いつ終わってもいいって思っている。迷惑をかけてまで生きたくないなあって。長生きすることで心配をかけ続けるなら、親不孝だとしても早く消えたほうがいいと思った」

「そんなことを言わないでよ!」亜由未は泣きべそをかいていた。

「あなたの人生で私も、私っていう存在も簡単に忘れられるってそういうことなの?」

「違う、今の今まで生き続けてきて、亜由未は俺にとって特別で、亜由未と別れてから、俺は誰とも付き合っていないし。亜由未以上の人はいないと今でも思っている」



「私にとってもあなたは特別だった。思い出が詰まっていて絶対に忘れないし、忘れたくないって思っていた」

「だから、また会うことができたのかな?」

「私は会いたいと思っていた」

「本音を言えば、俺だって会いたかった。今、俺の目の前にいる亜由未と同じ歳のときからずっと会いたかった」

「じゃあ、どうして会いにきてくれなかったの?連絡をとろうとしてくれなかったの?」

「こういうことを言うと亜由未は怒ると思うけど」

「思うけど、なあに?」

「亜由未には幸せになって欲しかった。俺じゃ無理だったけど、亜由未なら素敵な旦那さんと幸せな家庭を築けるって、そうあって欲しいって」

「結局、人任せなんだ・・・」亜由未は両足を伸ばして、履いていたサンダルを左右に振った。

「ごめん」

「もう謝らまないで、私が惨めになる」

「違うんだ」

「何も違わないでしょ?私だってあなたと生きたいと思っていた。それなのに・・・」



亜由未は両手を首に回すとぶら下げていたネックレスを差し出した

「これって・・・俺がプレゼントしたネックレス?」驚いた。大学生のままの亜由未に会えただけでも驚愕に値するのに、これを持っているとは思わなかった。

「そう、これは返すんじゃなくて、博司君に預ける」

「預けるって?」

「今すぐは無理かもしれない。でもきつかったり、つらかったり、悲しかったりしたら、これを見て私のことを思い出して欲しいんだ。それは私の自惚れかもしれないけど・・・」

「とんでもない」俺は亜由未から差し出されたネックレスを丁寧に受け取った。

「正直にいうと、今すぐ気持ちを切り替えるのは難しいと思う。でも、また亜由未に会うことができた。過去を思い出すことができた。亜由未がいかに大切だったか思いだせた」



「だからさ、今更だけど頑張ってみようと思う。この体の電池が切れるまでは」

「だったら、私は38歳の博司君に会えた甲斐があったのかな?」

「あったよ」

「本当に?」

「本当に」俺は力強く頷いた。「それでね」

「気のせいではなく、君は亜由未なんだけど亜由未ではない気がしてね」

「哲学的だね」

「実際、大学生の姿のままの亜由未と会うこと自体、おかしな話しだよ。俺がそう思って不思議なことは何もないよ」

「そう言われるそうなのかもね」と亜由未は小さく呟いた。そして「私はあなたのことをよく知っているけど、あなたは私のことを知らないのかもしれない」意味深長なことを付け加えた。



亜由未が立ち上がった時、暗闇で亜由未の姿が薄れて見えた。

「もう会えないのかな?」俺は亜由未の後を追うように立ち上がった。

「どうだろう、こればっかりは私にもわからない。でもやりたいこと、やらなければいけないことはできたと思っているよ」

「そう」寂寥感に襲われる。でも会えるはずはなかった女性に会うことができて、彼女は昔のように俺のことを心配してくれていた。そのことが情けなくて、みっともなくて、恥ずかしくて、でも素直に嬉しかった。

「私はあなたに会えて本当に嬉しかった」亜由未は右手を差し出した。

「俺のほうこそ、本当にありがとう」俺は左手で亜由未の手をしっかりと握った。できることならば、この手を離したくない。そう思いながら握手を交わし、未練がこれ以上残らないように手を離した。

「じゃあね、バイバイ」亜由未はそう言うと背を向けて歩き出した。

「ねえ、また会えるかな?俺と同じ歳の亜由未でもなんでもいいから!」

俺は思わず大声をあげていた。

亜由未は一度振り返ると、「そればっかりはわからないなあ」と微笑んだ。



「そう・・・なんだ」下を向く。力を込めすぎたせいか、吸わなかった煙草を折れてしまっていた。

「でも」顔をあげると亜由未の姿が見当たらない。3秒ほど前までいた亜由未は夏の闇に紛れて完全にその姿を消していた。

いくら探しても無駄だろう。見つけることはできないはずだ。

帰ろう。亜由未から預かったネックレスを掴み大事に大事にポケットに仕舞いこむ。



約束は果たす。そう簡単には諦めない。

どこまでできるかわからないけど、君に再び会えたことを無駄にしない。

俺は駐車場に向かって歩き出す。雲に覆われていた月がやっと姿をあらわすことができてた。

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