第10話 責任の所在
雨が頬をつたう。秋の雨は冷たい。冬にとって代われるのが嫌で泣いているみたいだ。
鉛をつけられたように足が重い。進みたくないが、進まないわけにはいかない。
赤色灯を回すパトカーに近づくと自分の車が見えた。中古で買ったカローラのステーションワゴンが見るも無残な形に変わっている。バンパーは右側だけが不安定にくっつき、左側は地面に埋まりそうにずり落ちている。
サイドミラーはもちろん、フロントガラスにもひびが入り、タイヤは明後日の方向を向き、もう走るは嫌だと駄々をこねているように思えた。
警察官が6人ほどおり、みな雨合羽を身にまとい、忙しそうに無線連絡を取り合っている。救急車の姿がないのは、もう怪我人を運搬してしまったからだろう。
俺は一人の警察官に近づき、「すいません、電話を頂いた吉田です」と頭を下げた。
「ああ、吉田さんですか。お待ちしていました」おそらく電話をくれた年配の警察官だろう。声に聞き覚えがあった。
「わたくしは、東越西署の大石と申します」
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。それで、どういった状況なんでしょうか?」
「簡単にご説明します」大石さんは簡潔に事故の経緯を教えてくれた
どうやら俺の車は左折禁止の標識があるのにも関わらず、その道路を左折しようとして直進車と衝突したとのことだった。
「おい!」
野太い声が聞こえる。俺を呼んでいるようだ。
「あれはお前の車だよな?ああ!」威嚇にも恫喝にも聞こえる声質で俺を罵っているのは事故の相手のようだ。歳はそんなに離れていないように見えたが、よれよれのスーツを着ていることから社会人であることだけはわかった。見たところ血は出ていないし、包帯も巻いていない。まだわからないが、大怪我を負っていないことに安堵した。
「本当に申し訳ありませんでした」俺は深々と頭を下げた
「誤って済む問題かよ!来るのがおせーんだよ、てめーの車だろ!ああ?」
「まあまあ、ちょっと落ち着いてください。吉田さんが運転していたわけじゃないんですから」興奮する相手を見兼ねて警官が2人がかりで止めにはいってくれた。
「だけど、こいつが無責任に車なんか貸すから、俺は巻き込まれたんですよ!俺は被害者なんですよ?」
「本当に申し訳ありませんでした」俺はただ頭を下げることしかできなかった。
「吉田さん、保険には加入していますよね?」
「はい。もちろん任意保険に加入しています」いつ頭をあげていいのかわからない。
「とりあえず頭をあげてください。こういうときは互いの保険会社同士で話しあってもらったほうが良いです。当事者同士で話すと揉め事が更に大きくなってしまいますから」
警察官の職に就いているのだから、こういった状況には慣れているのだろう、大石さんは相手にも俺と同じことを伝えた。
その間に新進気鋭の芸術家が「これが芸術だ」とでも言いだしそうに凹凸だらけで、もはやドアを閉めることさえできず、無理に触ると自由きままに動きだしてしまいそうな自分の車の運転席に近づき、車体に比べれば形を保っているダッシュボードを乱暴にこじ開けた。保険証券など、車の保険関係などは忘れないように一纏めにしていた。
記載されている番号に電話をかけて状況を説明する。ただ、説明している自分自身が事故の全容を把握できていない。とりあえず事故のあらましを説明して、一度大石さんに代わってもらうことにした。
「おい、お前!ちゃんと弁償しろよ!10メートルほど先から相手の怒りに満ちた声が聞こえる。無理もない、悪いのこちらだ。何も言い返せないし何も言えない。
あの人は本当に被害者で、こちらは加害者だ。相手側の怪我が軽く済んだことを素直に喜び、あとは日を改めてきちんと謝罪するしかない。
「すいません、それでなんですが・・・俺の車、いや私の車の搭乗者がどうなっているのかご存じですか?」
「ええ、お二人ですよね。同じ病院に搬送しました」メモを取り出し、一度無線を切ってから「東越総合病院をご存じですか?」と聞いてきた。
「ええ、知っています。二人ともその病院に搬送されたんですか?」
「はい、ただ先ほど説明した通り、左折禁止の道路を左折したわけですから、必然的に助手席に座っていた方のほうが怪我を負われています」
「そうでしょうね・・・」
事故の知らせを聞いてからずっと引っかかっていたことがあった。亜由未は何回もこの車と呼んでいいものか、機械の塊になってしまった俺の車を運転している。そのときは必ず俺が助手席に座っていた。
亜由未は車の運転が得意ではなかった。急ブレーキを何十回も踏んでは俺の頭が振り子のように揺れていたのを覚えている。
ただ、安全運転だった。自分でも運転が苦手だと自覚してもいた。だから慎重に慎重をきしてハンドルを握っていた。
「すいません、ちょっと確認したいことがあるんですけど」恐る恐る声を絞り出す。
「はい、なんでしょうか?」
「今更なんですけど、運転していたのは女性のほうですか?」
「いえ、男性の方です」
違和感の正体がわかり眩暈がする。こめかみを押さえ意識が遠のかないように何度も何度も瞬きを繰り返した。
おかしいと思っていた。何かがおかしいと。
ただ、その可能性に気づきながら、その結論まで辿りつけなかった。
わかっているつもりでいたのか、亜由未を信じていたからなのか、とにもかくにも、答えさえ見つけようとしなかった。
「それで、それで怪我の具合なんですが・・・」頭の中で整理がつかず、しどろもどろになる。
「大石さん、二人の怪我がどの程度だかわかりますか?」
「うーん」と大石さんが腕を組み、首を傾げる。
「確かなことまではわかりませんが、男性が腕で、女性は足に怪我を負っていたと思います。すいません、我々は事故の処理に追われていて」大石さんの目線を追う。事故現場では後処理が続いている。とりあえず、衝突した2台の車を路肩まで寄せて、片側を一方通行にして、他の警察官が慌ただしく走り回っている。やじ馬も多い。動画をとっている奴もいるようだ。
「吉田さん、病院に行かれても問題はありませんが、必ず連絡をください。あなたがやらなければいけないことはまだ沢山ありますから」
大石さんが周囲を見回す。部品が飛び散り、事故渋滞のせいでなかなか進めずクラクションを鳴らしている運転手もいる。
死人がでなかったことが不幸中の幸いだろう。いや、それさえも不謹慎に思えてしまう。
俺は大石さんの目線を追うように周囲を見回し「はい、必ず連絡します。二人の容態を確認しだい連絡します」ともう一度頭を下げた。
「待っていますので」大石さんに見送られ駈け出そうとすると、再び罵声が飛んできた。
「運転もろくにできない男に車なんか貸すなよ!お前はとんだお人好しだよな、デートのために自分の車を貸してやるんだからよ!」
✦
ザ、ザ、ザザー
突然、目に前に映っていたスクリーンが、壊れたテレビのように砂嵐に代わり、やがて何も映らなくなった。光っているのは逃げ出す人を描いた緑色の非常口だけだ。
出てもいいということか、今なら逃げてもいいっていうことか。
不思議なものだ。非常口から逃げ出せばこの夢は終わってくれる。自発的にこの悪夢を終わらせることができるようだ。
だが、俺は立ち上がらず、そのまま客席に留まることにした。おそらく今見ているものに意味がある。ここで逃げてしまうともう二度とこの空間には戻ってこれないだろう。確証はないが、確信に満ちた妙な感覚を覚えていた。。
言葉を発さなくても意図を汲み取ったのか、再びスクリーンにあかりが灯る。
フィルム映画でよくあるようなカウントダウンが始まる。
3・2・1
白壁の病院が映し出される。ドローンで空中撮影しているかのように病院の全景が映し出され、ドクターヘリーの姿も見える。見知っているどころではない、自分が通院していた病院を忘れるはずはないが、この病院がここまで大規模だとは思わなかった。
この夢がいつまで続くのかはわからない。ただ、いま目を覚ますわけにはいかない。見届けるまでは終われない。エンディングまでは続かないにしても、こんな中途半端に終わってしまうと後悔しか残らない。
俺は後悔していることを更に後悔を重ねたくない。奥歯に力をこめて歯ぎしりするように左右に擦り合わせ、深呼吸を何度も繰り返した。
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