貴方にも鬼灯を

夜辺

第1話

ねえ、おにいさま。 わたくしずっと地獄におりましたの。

吉崎の御家は、優しい場所ではなかったわ。

確かにはじめから望まぬ結婚でしたけど、わたくしあの御家に嫁いだ女として、妻として、頑張ろうと思っていましたわ。

でも吉崎の方々はわたくしに冷たくあたりました。

……いま思えば、わたくしにも問題はあったのかもしれないわ。

だって夫を愛してはいなかったのですもの。

お義母様に倣おうとは思わなかったのですもの。

お義父様を敬ってはいなかったのですもの。

けれどわたくし、心の底が冷えていれど、そうと振る舞いはしましたのよ。

夫を愛し、義母に倣い、義父を敬う。

そういうふうに見えるよう、努力してはおりました。 それが女の務めだと。

でも吉崎の御家は、そもそもはじめから、わたくしがあの家の人間になったその日から、この身が気に入らぬようでした。

それはもう驚きました。 ひどく困惑しましたし、わたくしが何かしてしまったかしらと、門戸を潜ってからの言動を百遍は振り返りました。

そもおにいさまもご存知の通り、結婚は吉崎の方が……旦那様がわたくしに惚れたと、そう強く望んだから、家格の違いにも目を瞑って決まりましたのに。

……一年以上、名を呼ばれさえしなかったのです。

家の敷居を跨がせど、お前はまだ家族ではない。間借りしてるだけの他人なのだと、初めの日にそう言われました。

料理や掃除をするよう求められることさえありませんでした。

妻として、いずれ女主人になる者としての役割からは意図して遠ざけられ、わたくしに望まれることといえば、旦那様と同衾することのみでした。

そうしてお義母様もお義父様もひどく私を叱るのです。

厨に立ってはいけない、掃除をしてはいけない、使用人をまとめあげてはいけない。

そう言いながらも、わたくしが妻としての役割を果たせていないと怒鳴っては、何度も手を振り上げました。

けれど、あちこち殴りながらも、あの方たちは決してわたくしの腹を殴ることはしませんでした。

ですから、鈍いわたくしもそのうち気が付きました。 彼らがわたくしに望んでいる、妻の役割というものを。


おにいさま、わたくし、一度この腹に赤ちゃんを宿しましたの。

……ふふ。その顔。 ええ、勿論、知らなかったでしょうね。

当たり前だわ。 赤子は早いうちに流れましたの。

このお腹の中は十月を待たず、空っぽに戻りました。

……可哀想に、ですって?

ああ。 その痛ましげな御顔。おにいさまだけだわ。 おにいさまだけよ。

そんなことを言ってくださるのは。 今もわたくしを愛してくださるのは……。

でも、可哀想ではありませんのよ。 赤子に関してはわたくし、全く可哀想な女ではありませんの。

だって、自分で堕ろしました。

……ええ、ええ! わたくしが殺したのです。

自分の腹を殴ったり、鬼灯を食べたり、色々としましたわ。 どれが決定打となったのかは、わたくしにももうわかりません。

可哀想なのはあの子。 姿形もはっきりしないまま、靄のような存在のまま、母に殺された哀れなあの子。

声も出ませんか。 軽蔑するかすら惑うていらっしゃるでしょうね。

どうしてそんなことをしたのか、疑問にお思いでしょう。

でも単純なことなのです。

許せなかったのです。

それまでわたくしを酷く扱ったあの方々が赤子が出来てから優しく暖かくわたくしに接したのが、どうしても許せなかった。

つわりに苦しむわたくしをお義父様は労りました。

ようやく吉崎の女になったねとお義母様が仰って、初めてわたくしの名前を呼びました。

愛しているよと囁いて、旦那様がわたくしを抱きしめました。

……ああ、そのおぞましさ!

わたくしは吉崎の人間にならぬために、家族になどなりたくがないために、あの方々の大事な後継を生かしてはおけなかったのです。



子を流してしまってからは、嫁いできた当初より酷い仕打ちを受けました。

食事もろくに与えられず、手慰みに嬲られ、わたくしはそのうち寝床から起き上がれず朦朧と毎日を過ごすようになりました。

けれど時折ね、おにいさまがわたくしのお部屋に訪れてくれるようになったのです。

おにいさまがわたくしを抱きしめて、お前には僕がいるよ、大丈夫だよと。

僕はお前を愛しているよ、お前の代わりに僕が苦しめたのならどんなに良いだろうと、甘く甘く囁くのです。

ある日などはひどくお怒りになったご様子で、こんな家すぐに燃やして逃げてしまおうと猛るので、わたくし宥めるのにとても苦労しましたわ。 ……ふふ。ええ、でも、嬉しくて堪らなくて、ウンと頷く寸前だったのも、事実です。

いまはあれが本当のおにいさまでなかったことはわかっております。

だけどあのおにいさまが、幻想のおにいさまが、絶望の淵にいる私に綺羅綺羅と光る糸を垂らしてくれたのです。

掴んでもすぐに千切れてしまう蜘蛛の糸。 わたくしを救えないただのゆめまぼろし。

それでもその綺羅綺羅を瞼に焼き付けて、どうにか息を繋げたのです。

しばらくは、それで地獄の日々も耐えられておりました……けれど、やはり幻想は幻想。 永遠に救ってくれはしませんでした。

その日はお義父様に辱められ、それを見ていた旦那様に殴られて、お義母様に冷水をかけられた、特に悲しく寒くさみしい一日でした。

早くおにいさまに来てほしい、手を握ってほしい、待ち遠しく襖を見つめながらも、わたくしは疲労からすとんと眠りに落ちてしまいました。

そうしたら。 ……そうしたら、わたくし、おにいさまが天国にゆく夢を見たのです。

わたくしが地獄にがらがら落ちていくなか、微笑む天使がおにいさまを連れて行ってしまって、わたくしが手を伸ばしても届かない。 そんな夢だったのです。

目が覚めたわたくしは気づいてしまいました。

おにいさまは蜘蛛の糸を垂らしてくださるけれど、わたくしに希望を授けてくださるけれど、地の底にはいないのだと。

息を引き取る日が来たならば、罪人たるわたくしだけが、地獄でひとりぼっち泣くばかりで、現実も幻想もおにいさまはそこにいないのだと。

ただ、ひとりぼっちになるのだと。

皮肉なことに、ほんとうの絶望こそが、幻想に溺れるわたくしの目を覚まし、現実に向き合う覚悟を呼び覚ましたのです。


あとはご存知の通り。

吉崎のお家は厨番の不始末で燃えてしまって、わたくしの衰弱を初めて知ったお母様たちが憐れみながらこの家に帰してくださったのです。

たくさんひどいことをされましたけど、みんな燃え死んでしまうなんて、吉崎の方々もまったくお可哀想なことでした。

でもきっと、あの方たちなら、地獄でだって仲良く暮らせていらっしゃるだろうから、心配はいらないでしょうね。


この家に戻って、本当のおにいさまが看病してくださって、優しくしてくださって、どれだけ救われたか。

おかげで痩せ細った身体も少しずつ元に戻り、穏やかに過ごせる日々も増えました。

幻想のおにいさまが訪ねてこなくなったことだけは残念ですけれど、本当のおにいさまがいらっしゃるから、もうさみしくはありません。


……だけど、わかってくださいますか?

わたくしはやっぱり、おにいさまがいないとさみしいのです。 誰が隣にいたって、ひとりぼっちなのです。

罪悪を抱えて地獄に堕ちる我が身のさみしさに、耐えられるわけもないのです。


……だから、これは仕方のないことだったのです。

おにいさま、近親相姦って、けものの行為なのですって。 人としてあり得ざる、理性ある生き物ならみな目を逸らすほど罪深い、許されないことなのですって。

……ねえ。 ですからわたくしたち、これでおんなじ地獄に行けますのよ……。

これは、愛し合う家族が永遠に一緒にいるために絶対必要なことなのです。 こうしなくては、わたくしは幸せになれないのです。

わたくし、ひとりぼっちは嫌。 地獄の業火も血の池地獄も怖くはないけれど、ひとりぼっちだけは、嫌……。

優しいおにいさまなら、きっと、きっと、わかってくださいますよね……?

ああ……ひどいことをしてごめんなさい。 でもこうしないと離れ離れになるかもしれなかったのよ。 これで大丈夫。 もうひどいことはしないから、安心してくださいましね……。

さあ、おにいさまもそろそろ目が醒めたでしょう。 お洋服を着てくださいまし。

お父様とお母様が見たら誤解を……。

ふふ。 いいえ、誤解をしては、くださりませんもの……。

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