第三集 渦中の城

 小恬しょうてん暁鹿ぎょうかが、平州へいしゅう昌黎しょうれい郡に入ったのは、既に日が傾き、西からの夕陽が地面に長い影を形作っている頃であった。

 目的地である棘城きょくじょうに着くのは、恐らくすっかりと夜が更けた頃になるだろう。


 平州の州府、つまり州の政治経済の中心であり、平州刺史・崔毖さいひの居城がある襄平じょうへい県は、更に先の開けた盆地、遼東りょうとう郡にある。

 一方で中間地点である昌黎郡には漢人の集落がほとんどない。遼東湾に面した海岸沿い以外は深い山地になっており、平地が少ないというのが理由であった。

 そうした立地ゆえに遼東は古くから中央と切り離されており、かつて遼東を拠点とした公孫こうそん氏が、後漢末の群雄割拠や、そこから続く三国争乱に巻き込まれなかった大きな理由となっている。

 そんな遼東公孫氏も、三国時代の公孫淵こうそんえんの代になると燕王えんおうを僭称し、に対して二股外交をするという行為に出た事で、しん朝の祖であり、魏の太尉たいい(軍務大臣)であった司馬懿しばいによって滅ぼされたのであるが。


 暁鹿の背中にしがみ付いたまま、そんな昌黎の山々の景色を眺めていた小恬であったが、周囲がすっかりと暗くなった頃、突然馬の脚が止まる。

 何事かと暁鹿の肩越しに前方を覗いてみれば、状況に思わず固まってしまう小恬。そこには松明たいまつと武器を手にした胡人こじんの兵がズラリと並んでいた。

 しかし暁鹿は焦る事もなく彼らに話しかけていた。恐らくは鮮卑せんぴ語であり、小恬には会話の内容は理解できなかったが、怒鳴り声を上げて武器を構える敵兵の集団と、鼻で笑いながら余裕を見せている暁鹿の様子に嫌な予感しかしない。


「あの……、暁鹿さん?」

「つかまっていろ」


 恐る恐る声をかけた小恬に対し、暁鹿はその一言で返すと、いきなり馬を走らせたと思えば背中の双剣を抜き放って敵部隊に斬り込んでいく。

 小恬としては顔前で刃が振り抜かれ、いきなりの全力疾走である。絶叫を上げながらも、振り落とされぬ様に暁鹿にしがみ付く事しか出来なかった。


 冰霄ひょうしょう獄焔ごくえんと銘が彫られたその双剣は、その名の通り、刃がそれぞれ青と赤に薄く光るまさに宝剣であった。さらに暁鹿の剣捌きは目にも止まらぬもので、その刃の輝きと相まって赤と青の光の筋が、夜の闇を切り裂いている。

 小恬にしがみ付かれ、両手で剣を振るっている暁鹿は、疾走する馬の上にありながら足だけで体を固定して重心がまるで乱れない。凄まじい体幹と脚力だ。

 そうして道を塞いでいた敵の一隊を、ただ一騎で文字通り引き裂いたのであった。


 危なげなく敵中を突破し、しばらく駆けた後に馬の速度を落とした暁鹿は、手に持った双剣を、これまた凄まじい速度で背中の鞘に収める。顔前に再び刃が迫った事で、またも絶叫してしまう小恬。

 そんな様子に、暁鹿は肩越しに振り返って笑顔を見せた。


「うむ、ときの声だ」

「悲鳴だよ!?」


 小恬の文句に対し、分かっているのかいないのか、高らかに笑って流す暁鹿。そんなやりとりをしつつ山道を進んでいくと、周囲の森林が開け、前方に城壁が見えてきた。


「あれが棘城だな」


 そう呟いた暁鹿は、閉じられた城門に近づくと、城壁の上で警戒する兵士に対し、やはり鮮卑語で声をかけていた。

 二三言の会話の後、城壁の上が騒ついたかと思うと、間もなく城門が開かれ、中に入っていく事になる。


 言葉も事情も分からぬまま共に城内に入った小恬は馬を降りると、ただ暁鹿の後ろについていく事しか出来なかった。向かった先は城の中心にある政庁、今は役人ではなく首長のいる居城なので、宮殿とでも呼ぶべきか。とにかく内城の前に来た時点で当の暁鹿に「ここで待っていろ」と独りにされてしまった小恬。


 周囲を見回せば、道のあちこちに怪我人が横たわっている。既に城市まちを敵に囲まれ、断続的な攻撃にさらされている以上、こうした光景も当然と言えば当然だ。

 ふと数歩先の様子が目に留まった。傷の痛みに悲鳴を上げている兵士の横で、恐らくは漢人と思われる初老の男性が手当てをしている。

 思わず駆け寄った小恬が兵士の傷の具合を見ると、左腕に矢が貫通しており、手甲に引っかかった事で押す事も引く事もままならぬまま流血し、恐らくは神経を傷つけていると見え、激痛に悲鳴を上げている。

 そして初めは医者であろうかと思った初老の漢人男性は、どこかぎこちない手際や衣服の様子から、手当てを手伝っている高官と思われた。


「あ、ダメですそれじゃあ!」


 思わず声を上げて駆け寄ってしまった小恬に振り返った漢人男性は、司州ししゅう洛陽らくよう周辺)訛りの漢語で返す。


「そなたは医術の心得があるのか?」

「あ、少しは……」


 小恬は兵士の左肩付近を指でなぞると、ここという点を示して漢人男性に指示を出す。


「ここを指で押し込むように強く押さえてください」


 その言葉に黙って従う男性の後ろで、近くにある木桶に水が入っている事を確認すると、小恬は背包を下ろし、中にある小袋から薬を取り出す。予め乾燥させて粉末状にした物をいくつか取り出した。

 服の切れ端を割いて水につけた後、そうした粉末状の生薬をひとつまみずつ出していく。止血作用のある艾葉がいよう、鎮痛作用のある甘草かんぞうなどである。


 その間、ずっと悲鳴を上げていた兵士が徐々に落ち着きを取り戻していた。そんな様子に、小恬に言われた通り兵士の肩を押さえていた漢人男性は目を見張っていた。


「そこは腕に走っている経絡けいらくの入り口となる経穴けいけつです。そこを強く押さえている事で彼は今、左腕が痺れて感覚が無くなってきているはずです。もう少し落ち着いたら、この突き出ているやじりを折ってから矢を引き抜きましょう。その後で、傷にこれを当ててから腕を縛り、その後で煎じ薬も飲ませた方が良さそうですね」


 漢人男性は微笑みながら頷いた。


「若い女子おなごというに素晴らしい。どこぞで学んだのかな?」

「亡くなった祖父から色々と学びました。『傷寒雑病論しょうかんざつびょうろん』(後漢末に編纂された医学書)も、その中に」

きかな」


 そうしていると、内城の方から同じく漢人の文官と思われる若い男性が近づいてくる。


はい長史ちょうし! こんな所に! 単于ぜんうが探しておられましたよ?」

「すまぬ。この兵士の苦しみようを見ていられなくてな。すぐに行くと伝えておいてくれ」


 そのやりとりに、今度は小恬が目を見開いた。長史と言えば、君主に進言できる参謀や相談役に当たる役職である。単于とは匈奴きょうど語では大王、つまり部族を統べる者の呼称である。

 となればこの城においては慕容部ぼようぶの首長である慕容廆ぼようかいが探しているという事だ。


「あ、あなたは……?」


 あるいはかなりの偉い人にあれこれ指図していたのではと、引きつり顔で誰何すいかした小恬に、その初老の漢人男性は笑みを浮かべて応えた。


裴嶷はいぎょくあざな文冀ぶんき。恥ずかしながら、かつてはここ昌黎の太守たいしゅ(郡の長官)であった、過去の男よ」





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