楽園を探して ~五胡乱華放浪記~
水城洋臣
第一章 燕篇
第一集 小娘と胡娘
「あぁー……、やっぱりこうなっちゃうかぁ……」
顔を引きつらせ、どこか気の抜けたように呟いた若い娘。この年に十六歳になる
彼女の目の前には今、刃こぼれした刀を振り回している
中世の中華王朝は、各地の門閥貴族が強い力を持っていた。家名の世襲は権力の世襲とほぼ同義である。
これを打破するには、男であれば低い身分からでも仕官して功績をあげ、生家の家名を上げていく事を目指すわけである。
一方、中華王朝に根差した儒教倫理において、政治や軍事に関わる事を忌避されていた女の身で生家の家名を上げる方法は、より高い身分の家に嫁ぐ事であった。
小恬は鳴かず飛ばずな地方の貧乏貴族の家に生まれた。家長であった彼女の祖父が期待をかけた三人の息子は戦地への出兵で全員が早くに亡くなってしまった。そんな耿家に唯一残った子孫は、戦死する前に長男が残した一人娘。それがまだ赤子であった小恬である。
物心つく前に母親も失くした彼女は、家長である祖父と二人暮らしとなった。
こうなればこの孫娘を都に送り出して名門貴族に、あわよくば後宮に入れて后妃にと、幼い頃より五経から歌舞音曲まで様々な知識を小恬に授けた祖父もまた数年前に亡くなった。
耿家を継ぐ者が誰もいない今の状態では、小恬が婿を取るか、あるいは他家に嫁いだ後、嫡子以外の子に自分の生家を継がせるしか道は無い。
いずれにしろ、祖父の遺志を守り、必ずや家を残して見せると決意した……、まではいいが、ふと考えてみれば今の世は戦乱の只中であった。
中華の中心であった
都から遠く離れ、戦乱によって断絶された辺境では、もはや地方の統治は朝廷の手から離れており、役人だった者がそのまま支配者顔で自分の領地だとばかりに振る舞っているか、あるいはそうした者たちが異民族に潰されて事実上の無法地帯となっているかのどちらかである。
今となっては、
さて、小恬の故郷であり、今現在いる場所はと言えば、そんな華北の更に北の果てである
見上げるほどの宮殿が建つ華やかな都! 煌びやかな服を着た王侯貴族! 田舎娘と馬鹿にされぬよう必死に頑張っちゃう自分! そして後宮で展開されるドロドロの女の戦い!
これまで小恬の想像していた、そんな未来予想図は、今や手の届かない遥か彼方へと去ってしまっていた。具体的には南へ二千里(約九百キロ)ほど。
ここは既に中央政府から切り離された辺境。しかも幽州は数年前に異民族の手に落ちており、もはや漢人による統治は行われていないのである。
家族のいなくなった屋敷に籠っていた所で、備蓄の食料が尽きれば餓死を待つばかり。
こうなれば運を天に任せて南へと向かうしかない。そう思い立って荷物をまとめて屋敷を飛び出したは良い物の、初日からこうして野盗に囲まれているというのが現在の状況である。
二千里どころか一里で運が尽きたようだ……。
もとからそこまで豪華な服を持っていたわけではないが、目立たないように
しかし背中に背負った巨大な
山賊やら馬賊やらが各地に出没し、それを取り締まる役人がいないという今のご時世では、気を付けて歩いていたつもりであっても、完全に避ける事は不可能と言う物だった。
初日からこの
祖父から様々な知識を叩き込まれた小恬であったが、結局はほとんどが座学の知識ばかり。こんな事ならば武術のひとつでも習っておくべきであったかと今更ながらに後悔した。
せめて命さえ助かればという感情、それでも体を汚されれば名家への嫁入りなどはもう出来なくなるという感情、それならばこんなご時世で生きるより、いっその事ここで死ぬのも仕方ないかもという感情。
様々な思いが頭の中を駆け巡りつつ、驚くほど冷静でいる自分に対し、思わず笑みを浮かべる小恬。普通の若い娘ならば、こういう時は泣きわめいたりするのだろうか。
「何だこの小娘、笑ってやがるぜ?」
「誘ってんじゃねぇの?」
などと、彼女の浮かべた笑みに見当違いの意見を言い合いつつ下品な笑い声を響かせる野盗たち。
「それじゃお望み通り、楽しませてやるぜ!」
そういって正面にいる野盗が泥まみれの手を伸ばしてくる。もう終わりかと、思わず目を瞑った小恬であったが、その刹那、一陣の突風が吹き抜けた。
いつまで経っても伸ばした野盗の手は小恬の体に触れようとはしなかった。気が付けば周囲の声が消えていた。
恐る恐る目を開けてみれば、手を伸ばしてきていた野盗は目の前の地面に倒れ伏し、その脳天を矢が貫いている。慌てて見回してみれば周囲にいる他の者たちも全く同様だ。
だが助かったと判断するのは早い。獲物を横取りしようとした他の盗賊が矢を射かけた可能性とて充分にあるのだ。
そして間もなく、弓を片手に馬で近づいてくる人影が見えた。どうやら人数は一人だけらしい。となれば、一瞬で六人の野盗を射抜く弓術の腕は名人級と言っていい。
だが一人とは言えそんな相手が、助けるのが目的か、奪うのが目的か、その違いが重要である。後者であるならば野盗に囲まれている状況と何も変わらない。
徐々に近づいてくる相手の服装はどうやら毛皮や
そんな体の線が分かりやすい革製の服によって、相手が女だという事に気づいた。体格は小恬よりも一回り大きいが、年齢はさほど変わらないと思われた。これで少なくとも助けた見返りに体を求められる事はほぼない。
しかし金品を求められる可能性は変わっておらず、また胡人の賊が漢人の村を襲って略奪を働くのは古くから多く聞く以上、油断はできない。
そんな胡人の娘が馬上から小恬に声をかける。
「無事か?」
「……あ、いえ、見ての通り乱暴はされてません。本当にありがとうございました」
これで略奪も無い。相手の一言でようやく安全が確認され、密かに拳を握って喜んだ後、満面の笑みで応えた小恬。
相手もまた小恬に怪我がない事を確認すると微笑みかけて再び馬を歩ませた。
「ではな。気をつけて行け」
「はい! ……じゃない! ちょっと待った待った!!」
思わず元気に応えて別れようとしたのだが、このまま一人旅を続ければ、恐らくは似たような状況に遠からず巻き込まれるであろう。そうなった時に今回のように運よく助けられる可能性は高くはなく、このまま避け続ける事も不可能だ。
ならばこの胡人の娘に同行して、あわよくば南へと向かう事が出来れば、あるいは当初の予定通りの人生へと軌道修正できるやもしれない。
そこに一瞬で思い至って、思わず声を荒げて止めてしまったというわけだ。
困惑して馬を止めた胡人の娘に、必死に状況を説明する小恬。しかし相手の反応は鈍い。
「しかし私は、これからもっと危険な所へ向かわないとならない……」
そう言って断ろうとして来るが、先ほど見た弓の腕、そして背中に背負った二本の剣からすると剣の腕も立つのだろう。小恬としては無法地帯で一人旅を続けるより、例え行く先が戦地であろうとこの護衛がいてくれた方が安心だったわけである。そこでとにかく口から出まかせに同道する理由を並べ立てた。
「いい? ここで私を置いていって、また別な盗賊に襲われたら、もう私は絶対に死ぬし、そうなったらさっき助けた事も無駄になるでしょう? それどころか、そうなると分かっていて置いていったら、あなた私を見殺しにした事になるわけ。それって実質人殺しじゃない?」
かなりの無理筋だと自分でも思い、思わず苦笑しそうになる小恬であったが、相手の方は「人殺し」という言葉にピクリと眉を動かして反応し、しばらく考えた後に溜息を吐いて同道を許したのであった。
剣や弓を扱えて、このご時世に一人で流れている以上、人を殺した事が無いわけはない。実際に先ほども野盗とは言え一瞬で六人の命を奪っている。それなのに「人殺し」という言葉に過剰に反応していた。
その点を小恬も疑問に思ったが、何やら思う所があるのだろうと思い至る。差し当たっては、野盗は人間に数えない主義なのかもしれないと結論付け自分を納得させた。
経緯がどうあれ、とにかく話は付いたとして、小恬は共に馬の背に乗り、胡人の娘にしがみ付いた。
「私は
「
「待って、長い長い。もっとこう、短くて呼びやすいの無い? 本名じゃなくていいから」
胡人の娘はしばし考えた後に、改めて名乗った。
「
「暁鹿ね、よろしく!」
笑顔で挨拶をする小恬に対し、暁鹿と名乗った娘もまた笑みを浮かべた。
「それで、これからどこへ向かうわけ? 危ない所って言ってたけど」
「
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