not young anymore

静 寒寝具

第1話




【プロローグ】



 

 初夏。都会の風向きは変わりやすい。夕刻から吹く風は日中の蒸した空気を飛ばし、汗ばむ暑気と入れ替わったかのようだ。




 退勤の時刻を過ぎたのであろう。帰宅を急ぐ者や、喧騒に繰り出す者達は駅へと群がっていく。逆行する存在は常に目立つものだ。駅から流れに逆らうよう、ビル街へと駆けていく男がいた。右肩には紺のスーツの上着を担ぎ、左手にはビジネス鞄。緩められたネクタイと、そこから僅かに覗く首元。いくら急いでいようが、街中で陸上部のように走るわけにはいかない。世間体がある。彼は世間が許す限界の速度で会社へと急いだ。




 中規模オフィスの一角、その事務室。室内では3名の女性が、手持ち無沙汰にパソコンの画面を眺めている。仕事をしている素振そぶりだ。今、彼女達にはするべき仕事はない。ただ、ひたすらに待っていた。それならば、スマートフォンでも見て暇を潰していたほうが良いと思われるかもしれない。しかし、その行為は……この部屋の主、おつぼね様の機嫌を損ねること間違いない。そもそも定時は過ぎていた。にも関わらず、先に帰れば……何を言われるかわかったものではない。このようにして、お局以外の女性達はするべきことのないまま、帰ることすら出来ず……待っていた。何をかというと……領収書をである。




 その時、事務室のドアが大きな音を立てて開いた。先程の男である。彼は息を切らしながら……


「す、すいません。まだ……間に合います?」


 そう言うと、しわくちゃな領収書を取り出す。彼は少し前まで長期の出張に出ており、その経費申請は一括で行えば良いと勘違いしていた。しかし……社内規則には、領収書記載の日付から一定期間内に行うよう規定されている。彼は期日ギリギリの今日、それを伺い聞くと……自宅に放置していた領収書を取りに往復することとなった。その道程に全力を尽くしたであろうことは、彼の荒い息遣いに見て取ることが出来る。


 急に男性が駆け込んできた。一瞬、事務室内の女性陣は驚きの表情を見せた。しかし、入室した者が男性だとわかると……お局を除いた彼女達は顔を余所行きの顔へと整える。男性の眼がある場所では、そうあるべきだ。そうでないと損をするかもしれない。身に染み付いているのだろう。だが、その部屋の主のお局は……表情を整えることはなかった。


「間に合いません。ですが、こういう事は大目に見るよう……上より、そう言われておりますので」


 極めて事務的に領収書を受け取る女性。細い銀縁フレームのメガネの奥、その切れ長の眼で領収書を確認している。


「この金額ですと……口座振込になります」


「は、はい。お……お願いします」


 険しそうな顔つきで領収書を確認すると、パソコンに向かい手続きを行っているお局に向け、男は深く頭を下げた。


 室内、残りの女性達は……たかだか時間外の領収書の為だけに、定時を越えて残っていたのかと呆れ顔を見せる。何も全員が残るほどの仕事量ではないのだ。お局一人を残して帰れば良かったとも思う。しかし、結局はお局の機嫌を伺って帰れない。そんな事務室の内情には……ほとほと嫌気が差していた。


「貴方達、もう帰っていいわ。後は私がやっておきます」


 彼女達に一瞥いちべつをくれることすらせず、打鍵を行いながらお局は言う。これこそが真に待っていたものだ。彼女達は我先にと扉へ向かう。そして更衣室へ向かい、帰宅しよう……そう考えた、その時。


「本当にすいませんでした。あの……今度の日曜、よろしければ食事でもどうです? 最近、近所に新しくカフェが出来たみたいですし、行ってみませんか?」


 帰宅を急いで扉に向かっていた2名は思わず足を止めた。そして、何か忘れたものをしたかも……と自分のデスクへと戻る。その足取りは、ゆったりしていた。時間稼ぎであろう。彼女達は男性の誘いにお局がどう返答するのか……それを盗み聞きいてやるつもりであった。




「大丈夫ですよ。ぁ…………そ、それでは…………とりあえず12時にそこで」


 彼女達は驚く。その後にニヤついた。まさか、あの底意地の悪いお局様が男性に誘われるとは……しかも、それを受諾するとは夢にも思わない。彼女達はその場に集い、ヒソヒソ話を開始するのだが……


「貴方達、まだいたの? 早く帰りなさい」


 お局の厳しく鋭どい視線に部屋を追い出された。逃げるように退室する2名。しかし、様々な意味で冷静さを失していた彼女達は気づけなかった。男性に対し、平然として見えるお局、しかし……その手元のタイピングは乱れに乱れていた事を。


 彼女達が退室すると、男性もお局にお礼を述べて事務室を去る。




 部屋に一人取り残されたお局。すると、彼女はタイピングを止め……両手で顔を覆った。


 ここで彼女の発言を見返そう。彼女の言う『大丈夫ですよ』。これは男の『本当にすいませんでした』への返答を意図していた。何故ならば、彼女は領収書の処理に気を取られており……男性の発言への注意が散漫になっていたことに起因する。そして、すぐに気がついた。自分が食事の誘いに即答で快諾してしまったと……。パニックになった頭では、その後の言葉は継げない。とりあえず時間だけを提示すると、ディスプレイに視線を向け……仕事に集中している素振りで場を凌ごうとする。少し離れた場所で、若い子達がうるさい。職権を利用して彼女達を追い出す。そして、その空気を読んでくれたのか男性も退室していったのであった。




 そして、今……覆われた両手で顔を見ることはできない。しかし彼女の耳は紅に染まっていた。





「どうしよう。私、男の人に誘われるなんて……初めて」


 彼女は両の手を押し付けたまま顔を左右に振る。そして……そう呟いた。その時の感情は彼女にしかわからない。




【A面 三上佳佑(34)】




 帰ってから気がついた。俺……ひょっとして、やっちゃいましたか。自分としては、同僚に仕事をミスした時の借りを返すような感覚。その延長で食事に誘ったつもりだった。しかし、よくよく考えてみれば……。いや、考えなくてもわかる。誘った相手は女性だ。同僚との距離感とは……当然、違うよな。

 

 どうしよう。ひょっとして……これはデートなのか? そんな疑問が頭を渦巻く。だが、その解を出すには……俺の恋愛経験は極めて浅い、浅すぎる。デートの定義をネットで調べたのだが、はっきりしない。それがはっきりしない事に俺は……はっきり言って、困っている。


 


【B面 椎奈沙百合(31)】



 

 私は帰りの電車、徒歩での帰宅中の記憶がありません。帰路の私はどんな感情だったのでしょう。嬉しい? 恥ずかしい? 怖い? 何が怖い? デートが怖い? それとも……デートで失敗して嫌われるのが怖い? 何もかも覚えていません。仕方のない事です。いつも踏ん切りが付かず、勉強が……仕事が……と、言い訳ばかりして逃げ続けた結果でしょう。これが……恥ずかしながら三十路を越えた私の人生、初デートです。


 感じるのはお酒を飲んだ後の、いい浮遊感。でも……この浮遊の魔法が解けたらと思うと、怖くて怖くてたまりません。逃げてしまいたい。でも……一度、浮遊してしまった気分は、それを拒むのです。浮いては沈む感覚は感情と同じく揺れ動きました。




【A面 三上佳佑(34)】




 約束の日は明日。まずは、明日の予定から考えるか。とりあえず、女性を待たせるのは失礼だよな。安全に30分、いや……1時間くらい前に着いておいた方がいいんだろう。すると……朝にシャワーを浴びていくとして、そこまで早起きしなくても大丈夫そうだな。


 服装は……下手に気張ってる感を出すのも何だな。普段使いのワイシャツに……そうだ、下をカラーシャツにする程度。うん、これくらいがいいよな。とは言っても、他に選択肢はない。だって、俺……ファッションとかには無知だから、流行りの服なんて持ってないんだよ。もしも俺の格好で恥をかかせてしまったら、ごめんなさい。その時は潔く頭を下げよう


 そろそろ……寝るか。寝すぎないように目覚ましだけは、二重に設定しておくかな。


 


【B面 椎奈沙百合(31)】



 

 明日は約束の日曜日。私は鏡を見つめていました。私は美人ではない。もういい年齢です。それくらいは、わかっています。


 。やっぱり美容院の予約をしておけばよかった。でも、普段の髪のケアを疎かにしていたせいか……美容院に行く勇気に欠けていました。普段の仕事で邪魔にならないように縛った髪は、その部分が癖になっています。よく見てみれば少し痛んでもいました。


 顔もそう。以前の少し疲れていた時期にこけてしまった頬は、今もこけたまま。若い子のような柔らかく赤みを帯びた頬にはもう戻りません。目元もいつしか険しくなったまま戻らないし、少し皺も出来ました。よく見れば鼻の形もかわいくない。会社の子達が私をお局様と呼ぶことは知っています。ですが、怒る気にもなりません。だって、今……鏡に映る私は、まさにお局様なのですから。


 ああ、どうしよう。少しだけ思考が脱線しましたが……すぐに明日のことしか考えられなくなってしまいます。そもそも、明日は……何時に着けばいいの? マンガでよくあるように、遅れて行っていいの? 私にはデートの経験がないので皆目検討も付きません。


『ごめーん。待った?』


 そんなシチュエーションを想像してみます。いや、ダメでしょう。だって、遅れてるのに失礼ですよね。じゃあ、時間通りに着けばいいの? でも、たまたま、その日に限って電車が遅れたりしたら……そうだ、もっと早く行かないと。じゃあ……30分? いや……1時間? それくらい早く行けば安心でしょうか? ひとまずは1時間前到着を目標にしておきましょう。


 で……何を着ていけばいいの? デート用の服装なんてわかりません。ヒラヒラした服なら可愛い? でも、そんなの持ってない。今から買いに行く? 何処に?


 気づけば日は暮れていました。今から買いに行けるようなお店は知りません。詰んだ。どうしよう。そうだ……逆に考えればいい。下手に可愛い服を着ていって……気合入れすぎだと思われるくらいなら、いっそ普段着。これしかない。むしろ……これが正解な気がしてきました。いや……実際には、他に選択肢はないんです。自分を騙すのはやめにしましょう。


 あ、そうだ。明日はお風呂に入ってから行くべきですね。そうすると……多少、早起きしないといけないかもしれません。お風呂に入るとして……脱毛とかはしたほうがいいの? わからない。 どうしよう。 最初のデートに……脱毛は必要なんでしょうか? でも、最低限はした方がいいかも。だとしたら……起きる時間は早くしなきゃ。え? これじゃ普段の仕事と同じくらいには起きないといけないの?


 あ、そうだ。天気予報を見て傘がいるか調べないと。それによってはお化粧だったり、靴だったりも変えたほうがいいですね。ああ、忙しい忙しい。


 そういえば、カフェに行くって言っていました。行く前に何か食べておいたほうがいいでしょう。大食いだと思われたくないです。カフェでは……サラダだけ頼むのが無難でしょう。だとしたら……行く前にコンビニでおにぎりを買って、食べていく時間も必要です。そうこう考えていると、明日の私の起床時間は、普段よりも早く起きないといけない時間だと割り出されました。世間の人はデートの度に、こんなに苦労しているの?


 あ……カフェにサラダが無かったらどうしよう。調べなきゃ……。え? 新しいお店だからか、そのお店のホームページがありません。それどころか……口コミもないです。


 それと一番肝心なのは……デートって何を話したらいいの? これも調べなきゃ……。【さしすせそ?】 これはメモしておかなきゃ。


 私がそうこうしている間にも、時間は残酷に過ぎていきます。気がつくと時計は頂点を回っていました。




 そろそろ寝ないと……。




 寝れない……。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る