拾伍
多少の面倒は有ったが影鬼図書館からの仕事を完了して翌日に帰宅した翠を待っていたのは朱夏の生温い視線だった。
何事かと思った翠だが、隣の玲奈の様子を見てからの反応だったので直ぐに予想が付いた。
「昨夜はお楽しみでしたね」
「世代じゃないでしょうが」
お堅い家系の朱夏がネットミームを言うとは思っていなかった翠は驚きつつ無視した。
溜息を吐いて特に否定もせず翠は事務所でキャリーケースを開いて自分の分の荷物を持って奥の自室に向かう。
玲奈も着替えと荷物の整理の為にキャリーケースに残った自分の荷物を持って自室に向かった。
女同士、片付けのサポートも出来るだろうと朱夏も玲奈に続いた。
玲奈の部屋には時々入るがいつ来ても桃を思わせる爽やかな臭いがして朱夏は好きだ。翠から玲奈が妖魔と人間のハーフの先祖返りの可能性が高いとは聞いており、この匂いが化粧品等の人工物ではなく玲奈の体臭だとも知っている。
だがそんな事は別にどうでも良い。
そもそも朱夏だって四鬼を飛び出して娼婦の様な世界に入り掛けていたところで翠に拾われた。玲奈の出自が通常の人間と違うからと言って文句を言う権利が有るとは思っていない。
単純に玲奈の身内と認めた相手には甘い部分が気に入っており、不安なだけだ。
もし翠が仕事の為に玲奈を切り捨てると成った時、彼女は一体どうなるのだろう。
実際に朱夏は翠から仕事中に守って貰った事は無い。だから実体験として翠は必要と有れば人を切り捨てられる人物だと知っている。
「翠と寝たんだ?」
「あはは、分かっちゃいますか?」
「玲奈さん、分かり易いもん」
「一生、男性経験の無いままかと思ってたんですけどね」
「逆に今まで処女だった事に驚きよ」
本気で呆れた様子の朱夏に玲奈は苦笑するしかない。
ドレスは綺麗に畳まれていたが元々、畳んで納めておく物でもない。
玲奈が下着やインナーを洗濯機に入れる為に分けている間に朱夏はドレスを黒い羽織とまとめてハンガーに掛けた。
「ありがとうございます」
「良いよ。家政婦の先輩なのにもう玲奈さんの方が事務所の事分かってるくらいだし」
「そうかな?」
「そうそう。今回だって私は仕事を手伝えなかったし」
「……朱夏ちゃんは、ここに居たいんでしょう?」
「……そうなのかな?」
「自分の事、自分でも分からない?」
「そうかも」
「大丈夫、私もですよ」
「え?」
驚いてハンガーから振り返った朱夏は玲奈が思いの外、深刻な表情をしていた。
何かを諦めた様に顔の筋肉には何の力も入っておらず一種の無表情に見える。視線は服に合わせて床に向けられているが、服に焦点は有っておらず遠くを見ていた。
「今回、仕事に同行させて貰って翠さんに認めて貰えた様で嬉しいんです。でも、だからって彼に甘えている自分を認める事も出来ない」
「翠は普段から仕事は1人でやりたそうだもんね」
「パーティという形だから大人の女性の付き添いが必要だった。今回の私も役割はそれだけです」
「私と会った時も豪華客船に1人で乗り込んでたわ」
「そうです。他の来場者の中でも男性1人で来ていた人は居ました。別に私は居なくても良かった」
玲奈の中で感情の昂りが有った様だが、今まで翠に対して感じていた高揚感では無く、自分は必要無いかもしれないという緊張状態だ。
その感情の昂りに合わせてか、玲奈の髪が薄く緑色に発光し小さな同色に発光する鱗粉の様な物を放出し始める。
「玲奈さん、落ち着いて」
事前に翠から聞いていた朱夏は驚きも無く目を細めて玲奈を見つめた。
刺激しない様にゆっくりと歩み寄り、横に屈んだ。
「お互い、生きるのが苦しいね」
肩に置かれた手に朱夏の優しさを感じて玲奈は少しだけ落ち着きを取り戻した。
自分の周囲を舞う鱗粉を見て、それが霧散して消えていく様を見て、玲奈は呟いた。
「私、多分、普通の人間じゃないんでしょうね」
「……」
「だから翠さんは守ってくれてるんでしょう?」
悲しそうな表情は無く、ただ淡々と無感情に呟く玲奈に朱夏は答えられない。
翠の本心は朱夏も知らないが、最初は間違いなく玲奈が言い当てた通りの理由で彼女を預かったのだ。心変わりしているかもしれないが、それは翠に聞いてみないと分からない。
朱夏は人の感情を抑制する訓練を受けた四鬼の娘だ。例え家出した身でも訓練は途中まで受けている。
そんな朱夏に人情に訴えかける様な気の利いた慰めは言える筈も無く、淡々と事実を伝える事しか出来ない。
「確かに、玲奈さんを受け入れたのは仕事だったよ」
「私も、住み込みの職場として紹介されましたね」
「最初は怯えてたものね」
「今思うと、翠さんは温かかったなぁ」
「お得意様からの仕事で凄い警戒していたんだけどね」
「ふふ。初対面ならではの処世術ですね」
「あいつ、不真面目そうなのに仕事人間よね」
2人で苦笑して玲奈が落ち着いたと判断した朱夏が肩から手を離した。
「翠さんに抱かれてる時、思ったんです。私の事、警戒してるのに私を拒めてなかった。まるで食虫植物みたいじゃないですか、私」
玲奈は正しく自分を理解している。
100年前の妖魔は花と蜘蛛の特徴を持っていたそうだが、花の種類は分からない。蜘蛛は巣に捉えた獲物を絡め取って捕食する。
仮に花の種類がラフレシアやウツボカズラの様な食虫植物なら、確かに玲奈の言う通りだろう。
朱夏もそれは理解しているので静かに洗濯物を持って退出しようとする。
そんな時、玲奈の部屋の扉がノックされた。
「あ、玲奈さん? 間違ってインナーシャツ持ってきちゃったんだけど開けて良い?」
どんなタイミングだと2人で苦笑し、朱夏が扉を開けた。
「あれ、何してんの?」
「手伝い。女の着替えは扱いが大変なの」
「そんなもんか? あ、洗濯物に入れるならこのインナーも同じか?」
「そうね。持ってくわ」
「サンキュ」
玲奈の部屋を出て行く時に朱夏は翠に玲奈の方を顎を振って示して見せた。
普段は玄関に見立ててカーテンが閉じられて見えない室内は朱夏が閉じなかったので見渡せる。
朱夏の仕草に吊られて玲奈を見た翠は何か有ったと察し、朱夏にフォローを任されたのだと理解した。
入室しながらカーテンを閉め、朱夏が洗濯物を持っていた事でもう片付ける物は化粧品だけに成った玲奈の前に翠は屈んだ。
「大丈夫かい? 初めて仕事に付き合わせたし、疲れた?」
「いえ、疲れたなんて。翠さんみたいにずっと周りを見てた訳じゃありませんから」
「いやいや、慣れない環境や作業は誰だって疲れるでしょ。今回は着慣れないドレスにヒールも高かったし歩いただけで疲れるもんじゃない?」
「ふふ、確かに脚がパンパンです」
見慣れた静かな笑みだが、視線は翠を向いておらず先程まで自分の手元に有った洗濯物のへ落とされている。しかし、焦点は有っておらず床よりも遠くを見ている様だ。
「何か気に成る事でも有った?」
「……」
「話し辛いなら無理には聞かないよ」
「ごめんなさい」
「いやいや、誤らないでよ。家政婦として雇ったのに無理な仕事を振ったのは俺なんだし」
「違うんです」
「ん?」
「翠さんのお役に立てるのは嬉しいんです。でも、何だかご迷惑をお掛けした様にしか思えなくて」
「どうして?」
本当に何の事か分からない翠は素直に聞くしかない。
このまま玲奈がストレスを溜めればどうなるか分からない。既に妖魔の血筋なのに妖魔化するのかは分からないが、それは妖魔に成る以上の何かが起きる可能性も示している。
だから翠は可能な限り玲奈のストレスをケアするつもりでいる。
朱夏は魔装が無いので悪鬼の様な厄介な妖魔化はしないので最悪、討滅は可能だ。
そんな2人への割り切りが翠の中に有る。
「昨日、私を抱いた事、後悔していませんか?」
「は?」
想像していない質問に困惑する翠だが玲奈の顔は真剣だ。
先程の朱夏との会話が分かればこんな質問に至った経緯も想像が出来るが生憎と翠は聞いていない。
「後悔してないけど、何で? いや、これ聞いて良いのか?」
「翠さん、ずっと私の事を警戒しているのに、昨日は私の事を拒めていなかったでしょう」
「あぁ、そういう感じか」
ここで翠は玲奈が自分の能力に多少の自覚を持った事を察した。
何が原因かは分からないが玲奈は自分に人外の能力が有る事を理解している様だ。
……まあホテルじゃ俺のシャツを爪で裂いてたけど、あれ無意識っぽかったもんなぁ。
やっと視線が合った玲奈だが、翠の気の抜けた表情を見て困惑した。
自分が人外の能力で迷惑を掛けたと思っているのに相手が気にしていない様子なのだ。攻めるでもなく緊張した表情でもなく、気の抜けた顔をされる覚えが無い。
「本心から後悔してないし、玲奈さんを警戒していたのは影鬼からの紹介だったから玲奈さん自身も知らない何かが有るかなって思ってたからだよ。パーティが終わった頃には大体の事は分かったし、もう玲奈さん自身の事は警戒してないって」
そう言って翠は玲奈の顔に右手を伸ばして頬を撫でる。左手で玲奈の右手を取り、視線を向けるように誘導した。
「昨日、俺の服を脱がす時に爪を使ったの覚えてる?」
「……ごめんなさい。ソファで翠さんが寝た事は覚えているんですけど」
「その後は何となく記憶が曖昧?」
「はい。その、何度もして貰ったのは覚えてるんですけど」
凄い会話をしているので翠は早く逃げ出したいが、玲奈との今後を考えると顔には出さずに押し切る必要が有る。
「自分の爪、伸びろって意識してみて」
「爪?」
疑問を覚えながらも翠に素直に従い玲奈は右手の人差し指の爪が伸びる姿を想像した。
少しだけ手の甲から指先に掛けて血管が揺れる様な違和感を覚えた瞬間、爪が目視で分かる程に伸びた。
「何、これ」
「あ、先がカッターみたいに鋭いから気を付けてね。意識すれば戻る筈だよ」
翠を疑わない玲奈は素直に元の長さを意識し、確かに爪が元に戻った事を確認した。
「……さっき、朱夏ちゃんの前で私の髪から鱗粉みたいな物が出て来たんです」
「見ちゃったか」
「知ってたんですか?」
「前に仕事終わりに合わせて軽食用意してくれた時にね。ボーっとしてて意識は無さそうだったから自覚は無いんだろうなって」
「そうでしたか」
自分の異常性を翠が前から知っていたと聞いて玲奈の表情が急速に穏やかに成る。
警戒されていたのも自分の事ではなく、自分を取り巻く状況に対してだった。
つまり翠は別に自分の事を嫌いな訳でも警戒している訳でも無い。
それが分かった瞬間に玲奈の気分が晴れた。同時に昨晩の曖昧な記憶が明確に成り急速に気恥ずかしさに襲われる。
玲奈の表情が急速に様々に変わっていくので翠はまたしても困惑するのだが、顔を真っ赤にした玲奈から強烈に甘い桃の匂いが噴き出した。
恥ずかしそうに顔を両手で覆っているが嬉しいのであれば翠は追及する気は無い。
ともかく昨日はあまり寝れていないのでまだ昼前だが寝ようと思い自室に戻る事にした。
「まあ、誤解は解けたみたいだし俺はちょっと仮眠を取るよ」
「あ、はい。ありがとうございました」
「ん? まあ、今後も玲奈さんに仕事を手伝って貰う時は宜しくね」
「はい!」
顔は赤いままだが元気を取り戻したらしい玲奈に安心しつつ翠は玲奈の部屋を出た。
廊下の壁に背を預けて待っていた朱夏が室内から噴き出す桃の香りを嗅いで嫌な笑みを向けて来る。
「何だよ」
「いいえぇ。モテる男は女性の扱いがお上手だなぁって」
「こっちは何が何だか分からなかったってのに。まあ良いや。俺はちょっと寝るよ」
「はいはい~、ごゆっくり~」
「含みは無いっての」
笑みを崩さないまま朱夏は玲奈と話が有るのか翠が扉を閉じる前に部屋に入って行った。
それを見送って溜息を吐き翠は自室に戻って使い慣れたベッドに倒れ込んだ。
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