拾壱

影鬼図書館からの暗殺依頼の日、翠は玲奈を伴ってパーティの舞台となるホテルにタクシーを訪れた。

時刻は19時10分。

フロントで部屋の鍵を受け取って1泊分の荷物を入れたキャリーケースを運び込み、早々に会場に向かった。

パーティ会場には19時から入れるが開催宣言は19時30分からとなる。

わざわざ開催式に間に合わせなくとも適当に終了間際に入れば良いのだが、そうすると余分に注目される可能性が高い。最初からパーティに出席して影鬼からの招待状とホテルの宿泊券を活用した方が目立たないとの判断だ。

会場はホテルの上層階に有るパーティ会場でワンフロア全てを使っている。廊下やキッチンも有るので正確には階全部がパーティ会場ではないが2階分の高さを持って解放感が有り、面積も広く収容人数は100人程度だろう。開催宣言前だが既に70人近く来場しており翠達は早くも遅くも無いタイミングの様だ。

ブティックで聞いた通りに遊びの強いパーティらしく影鬼に縁の有る者達の集まりだが翠も勧められたデニム生地のスーツを纏う者も数名居た。他にも仕立ての良いジャケットにデニムの者も居るので堅苦しいパーティではないのは確かな様だ。

それでも遊びの有る服装なのは全体の3割程度だろう。

翠も影鬼に所属する者だが蒲田周辺で仕事をする末端なので影鬼のパーティに出る様な者で翠と顔を合わせた事の有る者は少ない。

会場内を見渡しても見知った顔は無く逆に標的4人の内、3人を見つけた。残りの1人は見えない位置に居るかまだ来ていないのだろう。


「何だか緊張しますね」

「ま、適当に美味いもん食べて良い酒飲みましょう」


遊びの強いパーティとは聞いていたが流石に男女のペアで訪れている面々は腕を組んでいる。それに倣って玲奈は翠の左腕に自分の腕を絡ませている。

来場者の中でも一際目立つ容貌の玲奈に大半の男が目を奪われるが連れの女に腕を摘ままれたのか一瞬だけ痛みに驚く様な顔をしていた。

玲奈は注目を集めているが興味が無い様で視線に気付いてもいない。

翠達と出会ったばかりの玲奈なら男達の無遠慮な視線に怯えていただろうが2ヵ月も経たずに随分と変わったものだと翠は感心していた。

適当に会場内を歩いていれば立食パーティ形式らしく複数の机に様々な食事が並んでいる。洋食が多いが様々な好みに合わせてか中華や和食も有る。小皿と箸やスプーン、フォークも机に置かれており何も置かれていない机には使用済みの食器を置く場所らしく定期的に職員が歩いて回収している様だ。

飲物は会場の隅に設営された簡易的なバーで受け取れる様で数人のバーテンダーが常駐している。

何も持たないのは怪しまれると考え翠と玲奈は19時25分にバーに向かい適当なカクテルを受け取った。

グラスも複数用意されており女性客の化粧が崩れない様に底が薄く大きく傾けなくても飲み易い物が用意されている。

仕事で来ている上にアルコールの入った玲奈の変化が読めないので翠は事前に玲奈にはノンアルコールカクテルを頼む様に言い含めて有る。

玲奈は素直に従ってメニューからノンアルコールカクテルを頼んだが、翠が視線を外した振りをして若いバーテンダーを見ていると少量だがウィスキーらしい酒を使おうとしていた。直ぐにバーテンダーに向き直って睨み付けると諦めた様に下げたので鼻を鳴らして警告とし、正しいカクテルを受け取る。


「お客様、良いんですか、こんな美人なのに」

「良いんだよ。他の男の前で酔われたくない」

「失礼しました」


小声では有るが流石に直ぐ隣の玲奈には聞こえている。

翠の言葉が嬉しかったのか先程よりも密着しており少し歩き辛く成る程だ。

軽く身動ぎした翠が歩き辛いのを察した玲奈は元の距離に戻る。

その姿にバーテンダーが羨ましそうにしているが、隣にいた初老のバーテンダーが静かに脇腹を小突いた。

余計な気遣いについて注意を受けた様だ。


「ありがとうございます」

「いやいや、まさかあんな気の使われ方をするなんてね」

「ふふ、人の好意って怖いですね」


……それは最近、凄く思った。


このパーティ用に数日使って事務所内で腕を組んで歩いたりドレスの着方を練習していた。

つまり事務所内で頻繁に翠と玲奈は密着したのだが、その度にどんどん積極的に成っていくので翠も怖かった程だ。朱夏は面白がっていたが玲奈が発する体臭の濃さに冗談では済まなく成っている事は理解した様だった。

完全に人間の体臭では無く熟れた桃を潰した様な濃厚な香りは化粧品に詳しい人間であれば人工物としても可笑しいと察してしまう程だ。

玲奈の体臭は気分の昂りに合わせて濃厚に成り広い範囲に拡散する特徴が有るらしく、基になった妖魔は食虫植物の様に獲物を香りで引き寄せていたと翠は予想している。

そんな訳で今の様に玲奈が翠の行動で喜ぶと香りが強く成る。

抱き着かれている翠には明らかに玲奈からの桃の様な香りが強くなった事が分かったが、まだ香水や化粧品と言い訳が効く程度だ。

あまり他の客に近付かない様に注意を払っていると19時30分に成り照明が薄暗く成って会場の奥に有る1段高い場所がライトアップされる。

開催の挨拶らしく恰幅の良い初老の男がマイクスタンドに向けて形式的な挨拶をまるで本心の様に話す。左右に若く美しい女を侍らせている辺り、男の権力に対する感覚が透けて見える。

檀上がライトアップされた事で薄暗い照明は塗り潰されている。

その暗闇に乗じてか他の客から適度に距離を取っていた翠達に近付く者が居る。

荒事に慣れた翠は聴覚や暗闇で周囲を見渡す方法に多少の心得が有り、玲奈を抱き寄せながら近付く者と玲奈の間に自分を挟ませた。

気付かれる前に玲奈に詰め寄る気だった相手は急に割り込んだ翠に驚き思わず数歩後退する。


「開催式の途中なんだ、連れに用が有るなら後にして貰えないかな?」


カクテルをいつでも接近者に掛けられるぞと脅す様に向けると相手は暗闇でも分かる程に狼狽えて両手を上げた。


「す、すまない、あまりにも綺麗な女性だったからお近付きに成りたくてね」

「そうか。でも残念、俺を通して貰わないと」

「悪かったよ。私は逆山文司(さかやま・もんじ)だ」

「影鬼翠だ」

「影鬼っ。これは失礼した」

「気にしないでくれ。ほら、主催者の挨拶もそろそろ大詰めだし、パーティを楽しもうじゃないか?」


翠に提案に激しく頷いて下がっていく文司を見送って、最後の1人を見つけた翠は唇を舐めた。

今回のパーティは影鬼に関わる有力な異端鬼も含めた親睦会だが、反社会組織の親睦会はただ料理を食べて終わりでは済まない。それこそ本家が年始に有力な幹部を招待する小規模な会食くらいだろう。

依頼人によればこのパーティでは参加者が自分の連れて来た女で取引をしたり、後で互いの部屋で子飼いにしている異端鬼の取引をしたりと様々な目的で使われるらしい。

先程の様子では文司は女の取引を持ち掛けたい様だが翠は玲奈をここで手放す気は無い。

胸に抱えていた玲奈を解放すると気分が昂ってしまったのか香りが強く成っているのでカクテルを飲んで少し落ち着く様に促した。


「ごめんなさい」

「いや、暗闇で油断した。壁際に居れば良かったかな」


周囲の客が動いていない事を確認しながら翠は玲奈の腰を抱いて静かに壁際に寄った。

暗いので玲奈では見えないかと思ったが夜目も利く様で普通に翠の歩みに合わせて来る。


「暗くても見えるんだ?」

「昔からなんですよ。翠さんは?」

「暗くなる前から右目をなるべく閉じててね、これくらいの暗さなら直ぐに見える様に慣れるんだ」

「あ、それ聞いた事有ります」

「スパイ映画とかで時々使われてるよね」


先程の文司とのやり取りは有る程度は見られていたのか玲奈に惹かれて寄って来る者は居ない様だ。

その間も主催者の話は続いている。


『我々は後ろ暗い部分も有るが商売人だ。今日、新たな出会いが有れば商売人としてその縁を大切にしようじゃないか。そして、今まで紡いだ縁が有れば、その縁をより大切にし、発展させようじゃないか』


そんな言葉で開催の宣言は締め括られ、檀上のライトアップが止み会場の照明が元に戻った。

翠は先程の文司のポケットに投げ入れたボタンサイズの追跡装置の反応が正常な事をスマートグラスで確認し、予備も含めた5つの追跡装置をポケットの中で確認した。

パーティの食事を楽しみつつ、擦れ違い様に他の3人にも同じ追跡装置を取り付ける。張り付く様な機能は無いのでポケットに入れる必要が有るのだが、影鬼に縁の有る者しか居ないという安心感が有るのか元々警戒心が薄いのか簡単に仕込む事が出来た。


「何か、罠じゃないよね」

「そうは見えませんでしたよ? あ、このムニエルも美味しい」

「朱夏が後で不貞腐れそうだ」

「私達だけで頂いちゃってますからね」

「ま、今日は好きに食うんだって意気込んでたし大丈夫と信じよう」


時刻は20時30分、開催式から1時間程度で仕込みを終えてしまったので後は適当に流して標的が部屋に戻るのを待つだけだ。

名目上は商談や新しい商売の出会いが目的のパーティという事なので誰とも話さないと怪しまれる。しかし、翠には戦闘力や隠密性以外の商材は無い。

周囲から見れば玲奈という極上の商材は有るが翠は現状では玲奈をそういった方向で使う気は無い。

基本的に翠から声は掛けないが玲奈に惹かれて多くの男達が向こうからやって来る。標的に追跡装置を付けるのが簡単だったのも玲奈に惹かれて向こうから寄って来たからだ。

流石に1時間も玲奈を譲る気が無い様子を示し続けると遠巻きに見られるだけに成って来る。

そうなると今度は玲奈と異なるタイプの美人を連れた男等が寄って来る。流石に50代の男が10代前半にしか見えない少女を連れて来た時には翠も笑うしかなかった。

翠と玲奈に肉体関係は無いが有る前提で話を聞き、玲奈以外では満足出来ない様な事を言って撃退する。

日本でありながらも中華系、白人系、黒人系とまるで女をアクセサリーの様に扱っている男が多いが、ここはそういう世界なのだろうと翠は適当に流す。

最初に翠が影鬼と名乗っているので下手に追及したり食い下がる馬鹿は居らず2人は21時にはパーティ会場を後にした。

廊下に控えているスタッフにルームサービスの適当な食事とワインを頼み部屋に戻る。

部屋は影鬼図書館が奮発してくれた様でスウィートには届かないが非常に広くベッドもキングサイズだ。一般家庭であればベッドに成りそうな程のソファも有り、シャワールームは脱衣所との仕切りを内側から曇硝子にする事が可能に成っている。

翠が今回の仕事で最も懸念していたのは玲奈との同室での一夜だ。最近の彼女の様子を見るに翠への感情を募らせており、同室で寝ようものなら襲われそうだし翠も仕事で興奮した後に彼女の誘惑を断れるとは思えない。


「緊張しました」


そう言って小さく溜息を吐きながらソファの端にゆっくりと腰を下ろした玲奈はドレスも相まって上級階級の奥様にしか見えない。

翠も緊張したのは同意なのでネクタイを緩めながら備え付けの冷蔵庫を開けてミネラルウォーターと炭酸水のペットボトルを取り出した。


「玲奈さん、要る?」

「ありがとうございます」


玲奈はミネラルウォーターを、翠は炭酸水を開けて口に含む。


「あと2時間は有るそうですが、抜けて来て大丈夫だったのでしょうか?」

「大丈夫大丈夫。どうせ2人で夜景楽しんでると思われてるよ」

「成程」

「このパーティがそんな連中の集まりみたいだしね。奥さんを連れてる男なんて誰も居なかったんじゃないかな」

「そうだったんですか?」

「ああ。さっき影鬼鋼牙を見かけたけど連れてたのは20代くらいのチャイナ服の女性だったし、半分以上の来場者は同行者と歳が離れてたよ」

「あら、奥様に知られたら大変でしょうに」

「男の浮気は直ぐにバレるって言うしね。ま、知ったこっちゃないさ」


そんな話をしていると部屋のチャイムが鳴りルームサービスが来た。

念の為に玲奈に玄関部分から見えない位置に行く様に指示した。翠は扉のドアスコープから来訪者を見るが、その範囲では特に警戒する相手には見えない。

念には念を入れて左手に召喚手袋を嵌め、身体で隠しながら扉を開いた。

若いボーイがカートでサンドウィッチとチーズの乗った皿と冷やしたワインを運んで来た。

室内にボーイが入る事を嫌った翠は器用に右手で皿もワインも受け取り、グラスは室内に備え付けの物を使うと言ってボーイが気を遣って室内に運ぶのを柔らかく拒否する。

教育が行き届いているのか、そういう客が多いのかボーイは食い下がる事も無く離れていく。

肩で押し開いていた扉から肩を離して閉じ、開いた左手で鍵を閉めて室内に戻る。ソファの前に置かれた机に皿を置くと玲奈はワイン用に冷蔵庫近くの食器棚からグラスを持ってきてソファに腰を下ろした。


「ありがと」

「いつも助けて貰っているのは私ですから」

「最近は家事を任せっきりだしお互い様だと思うけどね」


そう言ってワインを開けた翠が玲奈のグラスにワインを注ぐと嬉しそうな玲奈がワインを少し強引に翠から受け取り翠のグラスに注ぐ。

タイミングを逃さない為にも翠はスマートグラスを装着し追跡装置の反応を表示したままだ。標的は4人とも会場に居る様なのだが特に追跡装置が見つかった様子は無い。

翠は改めて気を抜いてネクタイを取り外して玲奈の隣に座り、差し出されたグラスを受け取り打ち合う事はせずに仕草だけで乾杯した。


「ま、仕事は完了してないから軽めにね」

「はい。あ、さっきは話も多くて食べれませんでしたから、お腹空いてませんか?」

「ありがと」


言いながら玲奈が差し出したサンドウィットを受け取ろうとして、玲奈の手の高さが違う事に気付いた。

翠の口に直接運びたい様だ。


……この歳でそれやる!?


誰も見ていないとはいえ流石に恥ずかしいが、玲奈にそんな感覚は無いらしい。

出会った頃にこんな積極性は想像も出来なかったが、この後の本業に集中する為にも翠は玲奈のやりたい様にやらせることにした。

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