3,神集警備

「……あの、ここはどこですか?」礼は上体を起こして辺りを見回した。病院かとも思ったが、こちらを見ている二人の格好はおよそ医療従事者には見えない。片や婦警のようなスーツ姿、もう一方は絵本から抜け出た魔女そのものの黒いローブと大きなとんがり帽子。

「警備会社。神集かすみ警備っていう会社のビルだよ、ここは」礼の質問におろおろし始めた魔女風の女とは対照的に、スーツの女は眉一つ動かさず答えた。「表向きは、だけど」

「表向き、とは? というか、何故私はここにいるんでしょう?」

「最初の質問は話すと長くなり過ぎるから夜が明けてからにしよう。君がここにいる理由は簡単、我々が保護したから」

 疑問符が指数関数的に礼の脳内を埋めていく。

「……一応こちらからも訊いておくけど、君は意識を失う直前まで何をしていたか、覚えてる?」

 礼はゆっくりと記憶を辿る。蛇姫が飛び込んだ沼に行こうという話、月夜、大したものは何もなくて帰ろうとして――、それからどうしたんだっけ?

「あの沼に幽霊が出るという部分は本当。でも特に危害を加えるわけでもないから、我々は定点観測リストに載せて時々様子を見てた。実体化して人間に襲い掛かったのは今夜、いやもう昨夜きのうか、とにかくあれが初めての事だった。今までと何が違ったのか検証を」

「あっ、都留さんは? 凍堂さんは!? 二人はどうなったんですか!?」礼の思考回路が、抜けていたパズルのピースが嵌め込まれたように覚醒し始めた。

「ああ、それなら……」話を遮られた事で僅かに目を丸くした女は、魔女に目配せした。魔女はそれを見て頷く。

「もう一人の民間人の方は、偽記憶を構築して帰らせ、ました」如何にも気弱そうなおどおどした語調だが、はっきりと断言した。

「凍堂空に関しては、これも朝になったら本人から説明させよう」女はもどかしげにスーツのポケットをまさぐりながら言った。「説明不足で悪いけど、もそろそろ休みたいんだ。お互いひと眠りして、しゃっきりした頭で今後の事を考えよう。それじゃあ烏丸さん、あとはよろしく」女はそう言って背を向けた。

「お、お休み、なさい」烏丸と呼ばれた魔女が頭を下げた。

「あ、名前……」礼の小さな呟きは、しかし相手の耳に届いたようだ。引き戸の取っ手に手をかけたまま、女が振り返る。

「そういえば名乗ってなかったね。私は穂灯ほあかり留美絵るみえ神集警備の社長だ。そっちは烏丸綾羽、ウチの社員。ああ、君の名前はからいいよ。んじゃ、今度こそおやすみ」それまでより幾分か砕けた調子で彼女はそれだけ言い残し、部屋から出て行った。

 礼の視線は自然と烏丸綾羽なる魔女に向けられる。まじまじと見ると、どうも礼より年上らしい。

「あの、えっと、ね、寝付けないなら入眠術式、じゃなくて、えと、おおおお手伝いしまふ、しますけど、どう、しますか……?」追加情報、コミュニケーションが苦手と推測される。

「いえ、大丈夫です。電気だけ消してもらえますか?」

 分からない事ばかりだが、他の二人もどうやら無事らしい。ほっとしたら急に眠くなってきた。あの女の人の言う通り、他の事は明日考えよう。

 心配いらないよ。ワタシ達がいたんだもの。

 夢うつつで「うん、そうだね」と答えた――ような気がした。





 穂灯留美絵は自分の部屋でポケットから煙草のボックスとライターを取り出すとスーツを脱ぎ捨てた。慣れた手つきで点火、紙巻き煙草の先端を炙り、もう一方の端を咥えると大きく吸い込む。血管が収縮し手足が冷たくなる感覚。ベッドに腰を下ろし、枕元にある灰皿に煙草を置き、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを出して画面ロックを解除する。新しい通知は何もない。

 駄目元で通話アプリを起動し、履歴の一番上のアドレスにかける。コール音が五回以内に出なければ諦めよう、そう決めた時に限って五コール目の半ばで相手が通話を選択する。

「ご機嫌よう、隊長。こんな時間にお電話とは、そんなに寂しいのですか?」歌うような男の声が、ややひび割れた音質で流れ出す。

「寂しくない、忙しいんだよ。散々電話したのに何故出なかった」

「親愛なる隊長の為ならば一万回でもご説明致しますとも。人は二十四時間三百六十五日常に労働の事を考えているようには出来ていないのです。最良のパフォーマンスの為にはどうしてもプライベートな時間を設け自分自身を癒さねばなりません。特に私のような過酷な任務に従事する者は――」

「御託はもういい。異常事態イレギュラーだ。明日は絶対に戻って来るように」

「ほう、が見つかりましたか?」

「別件だ。二十八号が突如実体化して民間人に襲いかかった。原因を究明して報告しなければならない」

「そんな仕事は私でなくとも出来るでしょう」

「人手はいくらあっても足りないんだよ。参考人として保護した女の子への説明と聴取もしなきゃならないし」

「それは――」何かを言いかけた相手が突然沈黙した。彼にはよくある事だ。本人曰く『啓示プロヴィデンス』なる電波めいたものを受信しているらしい。「その女の子は、もしや五代礼という名前ではありませんか?」

「まあ、そうだけど。知り合いか何か?」

 電話の向こうで男が息を呑むのが聞こえた。「――申し訳ありません、隊長。やはり明日には帰れません。代わりと言ってはなんですが、五代礼についての情報を余すところなく集めて参ります」その声に、先程までの軽薄さはなくなっていた。留美絵はいつになく真剣な語調にやや面食らった。

「恐らく五代礼の身辺調査において私以上の適任はいないでしょう。その理由も戻り次第お話し出来るでしょうが、特殊事案対策係長として一つだけ提案をさせてください。

 余りに唐突な話題の転調に戸惑っている内に電話は切れた。

 無機質なツー、ツーという電子音だけが彼女の脳内に反響する。

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