最後の夜
いちいお
最後の夜
家に着くなり、ジャケットを脱いでネクタイを外して…と、まるで我が家のように帰宅後の作業をする彼を、キッチンからぼうっと眺めていた。
もし私が奥さんだったら、お疲れ様、今日も遅かったね、なんか食べる?とか声をかけて、お風呂や布団の準備をするのだろうか。
水を出しながら小さくため息をつき、声をかけた。
「上村さん、コーヒーでいいですか」
「ん?ああ、ありがとう」
ワイシャツ姿でソファに腰掛け、慣れた手つきでTVの電源を入れる。たった1年半の関係だったけれど、よく家にも来ていたし、当然の慣れはあるものの、これが最後だと思うと彼の仕草から色々なことに気付かされる。
電気ケトルでお湯を沸かしながらマグの準備をしていると、「ごめんね、押しかけちゃって」という声が聞こえて彼の方を振り返った。
目が合う。
BGMはニュース番組。AIについての特集が流れていたのを今でも覚えている。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫なの?本当に」
「え?」
どういう意味ですか、と返そうとしたとき、電気ケトルのお湯が沸けたので、一度言葉を飲み込んでキッチンへ向かった。
「いや、これから別れようとしている男を、部屋に入れていいのかってこと」
「…信頼してるので」
それはどうも、と少し戯けながら付け足した彼から視線を逸らし、インスタントのコーヒーを準備する。
時刻は23時半を回ったところだった。
コーヒーを彼に手渡し、「シャワー浴びますか?」と尋ねると、彼はそうだね、と返してカップに手を伸ばした。
「コーヒー飲み終わってからにしようかな。すずも一緒に飲まないの?」
ナチュラルに名前を呼ばれ、先ほど終止符を打ったはずの関係が、まだ続いているような錯覚に陥ってしまう。
「…飲みます」
「うん。話したいこともあるし、隣おいでよ」
腰掛けているソファの横を、微笑みながらポンポン、と叩く彼。コーヒーを一口啜ると、うまい、と感想をくれた。インスタントだけどね。
自分のコーヒーをそそくさと準備して、誘われた通り隣に腰掛け…はせず、なんとなくソファを背もたれにし、下に腰掛けた。
「あれ、隣来ないの」
「テーブル近いし、ここでいいです」
軽く首を回して彼を見上げると、「そ」とだけ声が返ってきて、カップでその表情は伺えなかった。
私も一口啜り、ソーサーにカップを戻したとき、彼が唐突に切り出した。
「実はさ、来期から常駐オフィスが変わることになったんだよね」
「え?それは、部署ごと?それとも上村さんだけ?」
彼も腕を伸ばしてカップをソーサーの上に置くと、咳払いをした後に「部署ごと」と、こちらを見て微笑んだ。
「これはオフレコだけど、最近本社から程遠くないビルのワンフロアの賃貸契約をしたようで、そこを有効活用しろという社長のお達しでさ。来期から、ではあるけど、今期からぼちぼち引越しすることになると思う」
来期まであと3ヶ月しかない。
「…これまでのオフィスには?」
「もうあまり入らないと思う。行くとしても本社くらいかな。」
もう一口、とまたカップに手を伸ばしながら考える。
彼と、離れてしまう。
今までは毎日のように顔を合わせて、話もできて。ただ、明日からは今の関係が無くなることに加え、物理的な距離も徐々に出来てしまう。
彼が全く自分の日常から居なくなることを想像出来ない。その姿を見ない日々が当たり前になるということ。
それを、自ら望んで、別れを決めたはずなのに。むしろ、好都合のはずなのに。
「寂しい…ですね」
ふと溢れた心の声。
彼は少しだけ明るい声で「別れようって言ったのはそっちのはずだけど?」と、覗き込んできた。
そのまま目を逸らさずにいると、心臓がぎゅうっと音を立てた。知ってる、この顔。仕事からプライベートに切り替わった時の、優しい顔だ。
「…俺だって寂しいよ。やっぱり、お前の姿を見れた方がやる気がでるし。」
この顔が、大好きだった。
自然と手が彼の頬に伸びる。
「…そうだったんですか?」
「うん。まあ、好きな人にはいいとこ見せたいと思うじゃん?」
じゃん?って、と笑って彼を見上げると、「…今だけ、食い下がってみてもいい?」とその手が伸びて、彼の頬に触れていた私の手に重なった。
体が動かない。ただ彼を見つめ続けていると、優しい低音が沈黙を破った。
「…朝になったら、もちろん引き留めないし、関係は終わりにする。
ただ、今だけはワガママになってみようかと」
「…何のために?」
「そんなの、自分の為に決まってるだろ。
我慢せずに、本心を曝け出したいだけ」
それでお前が迷惑を被るとしても、と言いながら、彼はソファから降りて私の隣に座り込み、肩を寄せた。
TVはまだAI特集を流し続けている。
「…別れたいって言ったら、幸せになりなって言いましたよね?」
「うん、本当にそう思ってるよ」
TVを見ながら尋ねると、頭に回された手によって、強引に向かい合う形にされてしまった。
「…引き留めずに、終わりにするんですよね?」
「うん、そんな権利ないからね」
顔が近づく。
「でも、本心は違うってことですか?」
「うん、そう」
すでに唇が触れ合う距離で話す彼に、心臓は破裂寸前だった。
「…私、明日お見合いするんです」
「うん、本当は行かせたくない」
その台詞の後に、唇が重なった。
すぐに離れて、彼が続ける。
「…忘れる努力はするけど、しばらくは好きなままでいてもいい?」
私の答えを待たずに、更に強く引き寄せられ、唇が深く重なった。
彼に恋した後、前に付き合っていた彼氏のことを思い出すことなんてほとんどなくて、人の想いって、こんな簡単に矛先を変えられるんだと驚いたけれど、それはやはり新しい人への想いの強さで変わるんだろうな、と改めて感じた。
私は、上村さんが好きだ。
それは、これからも変わらない、変えられない。
だけど、これ以上悪いことはしたくない。
本当の泥沼にハマる前に、抜け出さないと。
「…今日で、本当に終わりなんですよね?」
耳元で聞こえる彼の息遣い。首筋にキスが降ってきて軽く体を震わせた。
「…別れたいって言ったのは、そっちだろ」
「本当は、やだ」
涙が溢れ出す。
こんなこと、言いたくないのに。ダメなのに。
「…そんなこと言われちゃ、決心が揺らぎそうなんだけど」と、目を覆う私の両手を掴みながら、彼が困ったように微笑んで言った。
この日、本当に久しぶりに体を重ねた。
何度も好きだと言われたし、何度も好きだと返した。
そして、ふわふわした頭のままで、朝まで2人、うとうとしながらも起きていた。
始発の時間が過ぎた頃、彼は大きくため息をつきながら起き上がり、「準備するかな」とベッドから出た。
布団の中に入ってきた、ひんやりとした空気を感じながら、彼の背中に向かって声をかける。
「私、来月には30歳になっちゃうんですよね」
「ん?どうした急に」
「いえ、なんだかんだ2年近く経ってるんだなぁと思って」
「ああ、そうだなぁ」
初めて彼に年齢を聞かれた時、私はまだ27歳だった。
「そういや、今まで誕生日しっかり祝えなくてごめん」
「ううん、平日だったし」
「来月か」
彼の視線を感じながらも、うん、と微笑み体を起こして下着をつけると、タバコを咥えながら「下着でも買ってやろうか」と冗談めいた声が返ってきた。
「いらないよ」と笑うと、彼はそのまま近づいてきて、本当に最後の優しいキスをした。
最後の夜 いちいお @ichiorin
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