正義も善も俺は認めない

 パトカーのサイレンは少なからず人の意識をひきつける。どんなつもりで警察を呼んだのかは知らないが、大方刃物を持って暴れている男が居るとでも通報したのだろう。数の暴力に抗う為なら何だってしよう。

「俺に近づくなあああああ!」

 白い糸と青い糸とを乱暴に切り続ける。正確に切っているつもりだが俺以外には見えない光景だ。振り回しているようにしか見えないし、近くに居る人々が動けないのは怖がっているからだと思うだろう。実際はこちらから事前に行動をキャンセルさせて止めている。青い方は効果こそ分からないが切って俺に不利益を被るとは思えないので、確認ついでに切っている。

 とにかく警官に姿を視認されない事が大事だ。この様子では、俺が波園こゆる誘拐の実行犯という事にでもなるのだろうか。するとクラスメイトの九割か十割を敵に回した事になる。彼等は死に物狂いで俺を探すだろう。推しが消えては困るから。

「アイツの家……いや、無理か…………」

 糸を視れば全てが分かる。上空へ伸びた赤い糸の動きから察するに、目撃情報が拡散されているのだろう。少しでも立ち止まればどんどん人が集まってくる筈だ。ほら、ここの家の糸が不自然に動き出した。

「こっちだ…………!」

 誰の力も借りられないなら、一先ず夜を明かそう。どうしても普段通りの生活を送らなければいけない時間帯になれば追手も少しは減る筈だ。俺達が飛び込んだのはすっかり寂れてしまった小さな公園。雑草もちらほらと窺えるくらい捨て置かれた場所で、一応公共の場所なのだろうがここにあるトイレは一度も掃除された事がないと噂されるくらいには汚い場所だ。

 なので誰も使わない。使うくらいなら野外で大なり小なりを済ませるだろう。軽犯罪がどうとか、そういったモラルはトイレの汚さの前にあっけなく砕け散っている。

 そもそも犯罪なんて免罪符を使えば簡単にやり過ごせるし。

「こ、こんな所に入るん……ですか?」

「文句言うな入らなきゃ捕まるぞッ。ほら入れ。女子トイレにしてやるから」

 約一名の男が女子トイレに入る問題は目を瞑って欲しい。彼女を奥の個室トイレに押し込むと、俺は手洗い器を椅子代わりに束の間の休息を取った。警察の介入があれば厄介と思って携帯の電源も切った。これで万が一にも探知される事はないだろう。近づいてきたら……いや、やめだ。考えたくない。疲れた。

「……自分の意思じゃどうしようもないってのは本当みたいだな」

 腕に巻き付いた白い糸を引きちぎって、何かを無力化する。最後の防波堤として扉を閉めさせたのに、彼女は鍵を開けて暗闇からまじまじと俺の顔を見つめていた。



 果たして、本当に高校生なのかと疑ってしまう。



 ネットの情報によれば同い年の十七歳。そうとは思えないくらいのプロポーションを誇っているのは流石アイドルというべきか。中学生の頃に重度の追っかけが居て、そいつは『こゆるたん以外は有象無象』とまで言ってのけたが、確かにこのトップアイドルと比べたらクラスメイトは貧相な体つきであろう。

 白を基調としたセーラー服のような装いは、恐らく制服ではない。居なくなった経緯が経緯なので単独ライブの専用衣装だろう。特別何処かを強調するデザイン性の意図は見えない、そればかりか胸についたピンクのリボンがある程度体型をカバーしているような気もする。

 しかしそれを差し引いてもリボン自体を浮き上がらせる胸の膨らみや、それのせいで持ち上がった裾がお腹の辺りで隙間を作っているので、やはり隠せていない。一方で袖が破れているのは逃げる際にひと悶着あった証拠か。

 波園こゆるは腰まで伸びた深淵のような黒髪を触りながら、青みがかった瞳を隙間から俺に覗かせていた(ネットによるとカラーコンタクトではないし、海外の血が混じっている訳でもないようだ)。

「……式宮有珠希だ。同い年らしいから畏まらなくていい。適当に有珠希って呼んでくれ」

「―――有珠希、さん? 波園こゆるで、です…………私の事を知らないっていうのは」

「名前と顔は知ってるよ流石に。実物は今見たけどな。その話をするって事は妹との会話を聞いてたか。何を隠そう俺はテレビが嫌いなもんで、詳しくないんだよ。でも俺のクラスメイトは大体君の事が好きみたいだ」


「……私の事、好きじゃないんです、か?」


 知りもしない他人にまず好き嫌いが生じるかどうかという話はさておき。どんな美人だとしてもこの視界に映るのは傀儡のように天に繋がれた存在だ。因果の流れを捉えるこの瞳は、望んでもないのにその存在の全てを把握させようとしてくる。折り合いをつける事さえ時間が掛かった。視点を曖昧にしてぼかす事でこれまで負担を軽くしてきたのに、最近はマキナのせいで使い分けが難しい。アイツの事だけはちゃんと見ていたいと思うのが悪いのだけど。

 そんなだから、俺にとっての好き嫌いは第一印象の見た目よりも何よりも、糸があるかないかで決まる。こゆるさんが美人なのは分かるが、仮に俺が究極の面食いであったとしても結果は同じだ。マキナには遠く及ばない。

 初めて出会った時からその美貌が離れない。自覚するという事さえ遅いくらい自然にこびりついて、離れなかった。手遅れになって初めてようやく認められたとも言える。俺は随分前から心を奪われていたのだと。

「……ああ、もう何だよコイツ」

 白い糸が鬱陶しいので、腕にぐるぐる巻きつけてこれ以上動き回らないように縛り付ける。敢えて即答はせずに外の様子を音で窺う―――近くを歩いているが、誰もここに隠れたとは思っていないらしい。遠くの方ではまだサイレンが聞こえていた。

「好きじゃない。そもそもよく知らないのに好き嫌いとかつけようがない。波園さんが素敵な人だってのは知ってるよ。妹の受け売りだけどな」

「…………助けてくれて、ありがとうございます。その…………家に来た理由とか、聞かないんですか? 私、何の接点もないお家にお邪魔したんですけど」




「一ミリも気にならないし、どうせ話せないんだろ。なら話さなくていいよ。興味ないから」




 誰しも人に言えない事情の一つや二つあるだろう。さして興味もないアイドルに野次馬根性をむき出しにする勇気はない。それで嫌われたらどうするつもりだ。

「じゃあ、どうして助けてくれたんですか? 何の興味もないなら、私を助けるなんて……!」

「こっちにも助けなきゃいけないだけの理由があるってだけだよ。本当にそれだけ」

 そう。俺はどうしてもこのアイドルから信用を勝ち取らなければならない。その為に嫌われるのは著しく効率が悪い。ある程度信じてもらって交渉はそこからだ。一番効率的で最善手なのはマキナの家に運んで殺してもらう事だが、何度も言ったようにそれは嫌で、しかも妹がファンを公言するアイドルだ。猶更穏便な着地点を探りたい。

 せっかく健全な視界を取り戻しても最初に見る景色が妹の泣き顔はあまりにやるせない。

 偽善者だとか恩着せがましいだとか、好きに言えばいい。俺は部品を回収したいだけだし、その見返りとしてこのイカれた景色を治してもらいたいだけだ。何一つとして嘘は吐いていない。見ず知らずのアイドルを助けてしまうくらい俺にとってこの景色は邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で。壊したくて苦しくて辛くて消えたくて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛い!

 人間の因果なんて、一人分でも碌なモンじゃない。早めに焦点をぼかす技術を手に入れたのは生存本能だ。その気になれば全て分かったとしても、それをすれば自分がどうなるか分からないから。

「アイドルには悪いけど、夜明けまではここで隠れるつもりだ。難しいと思うが寝てほしい」

「い、いつまで居ればいいんですか……? 直ぐに逃がしてくれるんですよね? 誰にも見つからない場所に案内してくれるんですよねッ?」

「どうかな……波園さんのファンならどんな場所に居ても見つけられるかもしれない」

「嫌…………! いやぁ……いや……もう、いや。いや……好きなのは、イヤ!」

 泣き出すまではいかなかったが、波園さんは両手で顔を覆って蹲るようにうめき声をあげる様になってしまった。どうも妙な刺激をしてしまったらしい。現実的な分析を言ったつもりが、とんだ失敗だ。

 フォローのつもりで、一息置いてから付け加える。

「大丈夫だ。どんな手段を使ってでも君は逃がす。因みに捕まったら……やっぱり連れ戻されるのか?」

 啜り泣き一歩手前の声に「はい」の二文字が漏れた。そう言われると狙われる理由も少しは気になってきたが、信用を得られなさそうなので見逃しておく。トイレの周辺からはもう完全に足音が遠ざかっていた。

「……アイツには悪い事したな。風呂入ってたら俺が居なくなってたとか、ヤバイだろ」

「…………戻らないんですか?」

「まだ逃がしてないだろ。さっきも言った様に、こっちも助けなきゃいけないだけの理由があるんだ。それまではどんな事があっても戻らない」

「指名手配されても、ですか?」

「あん?」

「……有珠希さんは知らないかもしれませんが、私、これまで全国的に捜索されてたんです。その間、色々な人に頼んで匿ってもらいました。でも……その……うッ……うッ…………!」

 こゆるさんが堰を切った様に泣き出してしまった。俺には何をしていいやらさっぱり分からない。目線が対等な人間が一人でも味方に居てくれれば良かったが、そんな都合の良い人は居ない。

 そして男として、好きでも何でもない人に抱擁するのはどうしても生理的に受け付けない。手洗い器の上から離れて扉を壁にするように座る。これが限界だ。

 誰かが悲しくて泣く声は聴いているだけでもストレスが溜まりそうだが、このふざけた景色に比べたら大した物ではない。慰める手段なんて俺は知らないが、二日でも三日でもこの泣き声を聞き続けられる自信があった。

 マキナならどうしただろうか。

 でもアイツは、ニンゲンの事なんて興味ないから考えるだけ無駄か?

「…………追われてる理由、聞いてくれませんか?」

「それで少しでも泣き止むなら」

 暴力も、正義という名の理不尽も、部品集めから始まった非日常も。俺は受け入れた。



 受け入れるのは、得意だ。


 























 話はアイドルを志した瞬間まで遡る。

 波園こゆるの才能は本物で、現在に至るまでの地位は本人の努力で勝ち得たものだ。そこには何のインチキも働いていない。芸能界で噂されるような闇の手段にも手は出していないとの事。

「昔から、誰かを笑顔にするのが好きだったんです。それで、手が届く範囲だけじゃなくて、手の届かない人も笑顔にしたいって思ったのが、アイドルを目指すきっかけで」

「笑顔はいいな。日常の象徴、その人に余裕がある証拠だ」

 だからマキナはいつも笑顔たっぷりなのだろう。

「でもそれは……嘘じゃないんですけど、他にも理由があって。私、誰かに自分を好きになってもらいたかったんです」

「というと?」

「両親が離婚して、母親に引き取られたんです。その時はアイドルじゃなくて、だから事あるごと母の引き立て役みたいな感じで……装飾品みたいな扱いをされて。自分が好きじゃなくなっちゃったんです…………………………もしもアイドルになれたら、可愛くなる為に努力しないといけないし、好かれる為に献身的な活動もしないといけないしで。その内自分も好きになれるかなって思ってて」

 狂人の真似とて大路を走らば、みたいな話か。アイドルは好印象と好ルックスが命の職業。極端な話、便所のような臭いがして服がボロボロで髪はボサボサ、スタイルは餓死寸前で身長は中学生にも負ける癖に性格も悪いような奴はアイドルになれない。人は見た目じゃないというのはある種真理かもしれないが、アイドルは取り敢えず見た目が重要視される。これは男女共にだ。

 それだけじゃないのは流石に俺も知っているが、最初の入り口は見た目になる。見た目はともかく歌唱力や踊りは抜群なアイドルと、見た目は良いが歌唱力や踊りは下手と言われるアイドルが生まれるのはこれが原因だ。何においても入り口は見た目。華やかさこそ肝要な訳だ。

「結果、どうだった?」

「最初はなれたと思ってました。でも心の中で自分なんかって気持ちはやっぱりあって、皆がもっともっと好きになってくれたら私だって不安に思わなくなるのに! ……って思っちゃって」

「それで? もっともっと頑張ったとか?」

「色んな仕事、やりました。歌だけじゃなくて女優としての仕事とかも……そしたらある日の収録で、占いの番組だったような……占い師の人が、もっともっと成功するようになるようにおまじないをかけてくれたんです」


 ―――占い師が、おまじない?


 まじなうような職業だったか、占い師は。占い自体がまじないだろうというツッコミはさておき、誰かにかけるようなものではない筈だが。

「具体的に何をされた?」

「背中を擦られました。そうしたら次の日から、目に見えて私の事を好きになってくれたんです。凄く嬉しかった。みんなが私を見るだけでも好きになってくれるなら絶対に自分も好きになれるって!」

「…………うまくいかなかったのか」

「―――分かりません。ただ、好かれる事が嬉しくなくなりました。心が籠ってないとかそういうのじゃなくて、なんか…………それに、段々怖くなってきたんです。みんなが私を好きだとか愛してるからって、片時も休む事なく言ってくれて、だから行きも帰りも送迎だし、食事は付きっ切りで、買い物をするにも全部先に頼まれて! ライブをしたらこゆらーの人で満員。帰り道はさっきまで居た全員が握手、サインを求めてきて、最近は家に行こうとか食事に行こうとかそういうお誘いも多くなってきて…………! こんな筈じゃなかった! 誰かに好きになってもらうのがこんなに苦痛だって知らなかった! だから…………逃げたんです」

 腕に巻き付けた糸が身体を侵食しようとしてきたので引きちぎった。

 大体の理由は分かったし、犯人は間違いなくその占い師だ。何故規定を与えられたのかについてはマキナに聞くしかないだろう。そもそも今までを振り返っても、規定取得者には不自然な点があった。



 波園こゆるの拾得した規定は、恐らく『愛』の規定。



 正式名称までそうかは分からないが、とにかく人の好意の基準だろう。分かりやすく言えば好感度だ。何人においても個人個人に対する好感度は存在していて、魚心あれば水心。その対応によって形なき数値は変動していく。


 親切にされればその人に対する好感は増すだろうし。


 邪険にされればその人に対する好感は減るだろう。


 好感度がマックスなのを『大好き』な状態だとすれば、こゆるさんの規定は好感度が一割に満たなくても『大好き』にしていると考えられる。それで好感度を必要以上に背負った結果、好意そのものに対して嫌悪を抱くようになったのは生い立ちからしても皮肉というか何と言うか。これこそ物の因果。

「俺達の家に来た理由は?」

「理由なんてありません。逃げるまで、色々な人のお家に駆け込んで匿ってもらいました。でも十五分くらいしたらその人も私を好きになって襲い掛かってくるんです! そこから逃げて、また匿ってもらっての繰り返しで……もう、頼れるお家が少なくなってきちゃって」

「あー……」

 通りで足取りを追えない筈だ。世の善人は最強の免罪符を使えば一切の痕跡を絶つ事が可能である。警察が捜査しようにも『俺を助けると思って捜査はするな』と言えばそれきりだ。当たりをつけた親族が直接家に尋ねても『俺を助けると思って二度と探しに来るな』と言えばそれきりだ。幾度もそれを繰り返せば突然失踪したように見えてもおかしくはない。

 会話が無くなって、三時間ほど経過した。

 万が一があっては困るので、携帯は使えない。床に座っているとどんなにこの便所が汚いかという事実を再確認させられるが、気にならなくなってくるくらい、疲れている。主に眼が、出血しそうなくらい痛い。

「有珠希さんは本当に……私が好きじゃないんですか?」

「……しつこいな。その不思議な力に俺もやられるかもって不安があるのは分かるけど。トイレだし、逃げ場がない。俺が襲い掛かったら今度こそお終いだもんな」

 けれども、その可能性はない。根拠は示せないが、糸が視える内はどれもこれも嫌悪の対象だ。背後に回られたら気配が分かるくらい、それはもう心の底の底の底から嫌悪している。

「俺は学校じゃロクデナシって言われてるもんで。波園さんには悪いけど、何時間経っても好きになる事は無いと思う。何度でも言うけどそれとは関係なしに君を助けないといけない理由があるから。でもまあ、取り敢えず約束するよ」

 本人の意思に関係なく発動する規定なんて存在するとは思わなかったが、そういう事情なら、やはり手は貸すし最大限のケアはしよう。経緯こそ大きく違うが、俺も規定には散々な目に遭わされた。

 まじないがきっかけでおかしくなったなら、俺もまた『呪い』で対抗しなければ信用を勝ち取れなさそうだ。



「誰に何を言われても、守る。俺の傍に居る限り、波園さんは絶対に連れてかせない。それ以外は何も保証できないけど、それだけは絶対に約束する」



 こんな事を口走っておきながら、マキナ助けがあれば楽どころか終わっているだろうなとも考えている。

 言うだけタダだ。どうせ助けが来ないなら嫌でも必死にならないと。いざ部品を返却してもらう時に話が円満に纏まらなさそうだし。そう、俺は幾ら傷ついても構わない。


 この人がどう思おうと、こっちは部品カラダ目当てなのだから。



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