宝を手放す王が如く

 気付いたら眠っていた。

 夢を見た様な気もするし、見ていない様な気もする。覚えていない。風呂に入った記憶もないし歯磨きもまずしていないが、『清浄と汚染』の規定が働いたのか、朝目覚めた時特有の口内の気持ち悪さは消えて、いつもの感覚が最初から続いている。


 ―――糸が視えないだけで、こんなに負担が軽いんだよな。


 目の保養として実用的に使える時点で気づいていたが、視界全体でマキナしか捉えていないと俺は最早普通の人間だ。眠る最後まで彼女と向き合っていた。今は近くに居ないが、向こうからキカイの鼻唄が聞こえてくる。

「~♪ ~♪」

「…………マキナ、おはよう」

 ベッドから降りて台所に顔を出すと、もう声を出したかどうかという時点で振り向いていたのだろう。ばっちり目が合って、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「おはよう、有珠希! 朝ごはんもうすぐ出来るから、少しだけ待っててくれる?」

「え? あ、ああ。なあマキナ。それなんだけど、もう顔が治ったから今日は学校に行かないと……後、家にも帰らないと駄目だな」

 流れで携帯を覗いたら、妹の牧寧から心配のメッセージが届いていた。『俺は大丈夫』と返しておいたが、家では外泊なんて言語道断だと両親が怒って、もう一人の妹こと那由香は両親の機嫌が悪い事に関して俺を逆恨みしているそうだ。

 それはそれで帰りにくいが。


『私、兄さんが何処で何をしているかは気にしませんから。顔を見せてください。門限で玄関が閉じているなら、窓を叩いてください』


 牧寧の事は糸込みで、そこまで嫌いじゃない。こんなどうしようもない兄貴を気にかけてくれる妹をどう嫌えと言うのか。それに、アイツは泣き虫だ。俺が帰らなかったらずっと泣いている様な気がするし、それで両親に怒られるネタが増えるのは嫌だ。

 何より俺がその顔を見たくない。

「ええ、分かってる。ニンゲンの生活に干渉する気はないわ。貴方にも生活があるものね! でもでも、貴方達ニンゲンの燃費は最悪だから、ちゃんとご飯を食べなきゃ元気が出ないでしょ? 体調崩されても困るし、今日は頑張っちゃうッ」

「お…………でもあんまり時間はないから、数多いのは困るぞ。幾ら美味しくても食べきれない」

「んー。無理やり食べて?」

「無理だろ!」

 料理中に料理人の動きを遮る様な真似は危ないからやめろという話を聞いた事がある。俺もそのくらいの弁えはある(そもそも糸のある人間に触ったりしないが)が、朝食を作っているのがキカイとなると話は別だ。

 その後ろ姿があんまり綺麗だから、つい抱きついてしまった。

「…………うわ、ごめん!」

「どうしたの?」

「いや…………つい」

「昨日の私、そんなに気持ちよかった? 別に邪魔じゃないからそのままでもいいわよ」 

 衝動的な行動だったので、堪らずリビングに撤退。寝覚めは良かったつもりだが、寝ぼけているのだろうと正当化を図る。


 ――――――学校、嫌だな。


 或いはそれが非日常マキナの味を知った代償なのか。

 学校に行けば、クソみたいな善人が傷のなめ合いならぬ救世主の気取りあいが蔓延している。ああ、これは病気だ。間違いなく頭の病気。全員頭がおかしくなったとしか言いようがない。窓から外を見ていると、また誰かが飛び降り自殺をした、正にその瞬間だった。

 道路で弾ける死体を間近で見ても、通行人は気にも留めない。血が降りかかっても臓物が命中しても、首を傾げて歩みを続けようとする。この世界のどこが正常なのか教えて欲しい。

 そんな奴らには決まって赤い糸と白い糸が伸びていて、見るだけでも正体不明のストレスがかかって俺を無性に苛立たせる。そんな奴らが三十人だか四十人だかが一室に詰められて、七、八時間は一緒に居させられる。何の拷問だ。

 一人になって気晴らしをしようにも、外は御覧の有様。月も太陽も見えない程に糸の檻は分厚く、景色を細断してくれる。どんな見通しの良い場所も近くに人が居るなら俺にとっては見通しが悪い。

 都会の高層ビルの屋上なんてもってのほかだ。周囲百メートルも見えるか怪しい。



「お待たせっ。レシピ通りのシンプルな和食にしてみたわ!」



「お、待ってました」

 窓にカーテンを引いて、糸から視界を遮る。現実の事は忘れよう。目の前の非現実の方が余程、俺を痺れさせてくれる。満面の笑みで鮭の塩焼きやら御飯やら卵焼きやら。配膳する事がまず楽しいと言いそうなのは彼女くらいだ。

「お前の分は良いのか? 俺の身体を使ってるから食べないとだろ」

「勿論一緒に食べるわよ。そうじゃないと楽しくないものね!」

 キラキラと髪を靡かせてマキナが嬉しそうに首を傾げた。赤い糸も白い糸もその光輝の前には焼け落ちる。キカイという絶対的特異性の前で、俺は初めて普通の人間になれる。

 それが何よりも、嬉しかった。

「夜にはまた来るな」

「無理しなくてもいいのよ。もう『傷病』は回収したから、そうぽんぽん見つかるなんて思ってないしッ」

 マキナは心が読めるくせに、分かっていないようだ。今はオフにしているのか?


 俺は、お前に会いたいから来るんだ。


 レシピ通りという言葉には、恐らく寸分の狂いもない。ちゃんと美味しい朝食を、今日も食べられている。

「そうだ、夜に会ったら教えてくれよ。昨日病院で会った人の……メサイアっての」

「知らなかったのね。ええ、別にいいわよ。今一番警戒した方がいいのはアイツだと思うから……有珠希、くれぐれも気をつけてね。今の私だと、ちょっと厳しいから」

「そりゃあ気をつけるよ。俺も命は惜しいからさ…………でも何でニヤニヤしてるんだ?」

 マキナは口を分かりやすく抑えて、それでも瞳孔の中を菱形に変えて隠し切れない感情を漏らしていた。


「……やっぱり、嬉しいなって! 有珠希が、私を選んでくれた事ッ! ええ、絶対損はさせない。ぜえったいその視界を治してあげるっ! うふふ♪」

















「じゃあ、行ってきます」

「ばいばい有珠希! また夜ね!」

 マンションの外からいつまでも手を振るマキナに見送られて、俺は学校への通学路を歩き出した。こんな遠くから見ても糸はないし、全身を使って送り出してくれているからか、胸が激しく揺れている。笑顔のマキナと併せて、立ち止まっていつまでも眺めていたい気分だったがそうもいかない。

 こんな素行不良でも俺は学生だ。学校には行かないといけない。

「よう有珠希! 何で学校休んだんだよ。体調悪かったか? 俺が助けてやろうか?」

「断る」

「俺を助けると思って、頼れって! なあ?」

「絶対に断る」


 ガンッ!


「死ねよ」

 木製バットの一撃が俺をコンクリートに叩きつけ、道を譲らせるような形になった。もろに骨を叩いた一撃は単純な骨折で済めば奇跡だったが、マキナが俺の身体に何かしたのか、骨に異常はない。

 ただし人間としての限界か、痛いものは痛かった。

「つ…………ぅぅ。ぐううううう!」

「だ、大丈夫ですか!?」

 たまたま近くを通りがかったサラリーマンが俺に声を掛けてくる。殆ど条件反射で突き飛ばした。

「かまうな! 俺を救うな! 救わせないぞ! 帰れ!」

「…………」


「ぐぶ!」

 

 追加で顔面を蹴られ、鼻血が噴き出した。致命傷にならない程度に『強度』がかかっているのだろうか。いや、これは十分致命傷だろう。ポケットのハンカチで鼻血を抑えながら通学路を歩く。隣で老人が車に撥ねられたが、俺も含めて気にしない。

 一回休んだだけでこれだ。こういう事があるから休みたくないし、やっぱり俺は誰にも救ってほしくない。可能な限りこういう事故を避ける為に通学時間ギリギリを狙ったが失敗したか。

 校門を通過して昇降口で靴を入れ替えていると、見慣れぬスカート姿が近くに姿を現した。

「おや、また随分なご様子で登校しましたね。大丈夫ですか、式宮君」

「だから俺は助けてほしくなんかねえよ! 帰れ! 偽善者!」

「おやおや。随分嫌っているんですね、皆さんを…………先輩は悲しいですよ」


  え、と不思議に思って顔を見る為に視線を横に回す。





「昨日ぶりですね。ああ、ご心配なく。顔を殴られましたが、そこは気にしていませんから。そして貴方にとって『救い』や『助け』は特大の禁句である事も把握しました」

 女性は結んだ髪を肩に流して、嫋やかな印象を与える。昨夜の威圧感もなく、別人みたいだが俺は忘れていない。あのニンゲンを見下しているマキナが警戒したのを。

「…………お前は」

「自己紹介、していませんでしたね。未礼紗那みらいしゃなと言います。お昼休みにまた声をかけさせてもらいますね。お互い知りたい事もあるでしょう。大丈夫、手は出しません。キカイに味方しているから貴方も同罪なんて考えは持ち合わせていませんから」

 糸から目を逸らすように下を向く。もしも昨夜の出来事が無ければ、糸を加味してももう少しまともな対応をしていたかもしれない。


 とにかく未礼紗那という女性には、白い糸からも敵意という物が感じられなかった。

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