第35話

再び、物語は、朝美が大学に入学して、三年八が月が過ぎようとしていた。            


八並修は確かに疲れていた。

「修さん、修さん、残業は?」

と聞かれると、修は必ず頷いた。一瞬体が重く感じふらつくが、足を踏ん張った。鋳造されたモーターの外形の部品に穴を空けるだけの仕事だった。工場内での移動はあったが、何年もやっていることだった。

修は自分でも疲れていると実感していた。今の彼に自分に望みというものはなかった。しかし、もしあるとすれば、それは朝美を早くこっちに呼び戻すことだった。仕送りを中断しさえすれば、生活が厳しくなるから自然とこっちに帰ってくるしかないだろう。

修は仕事の手を止めた。昨日やってきた二人の刑事の顔が修の目に飛び込んで来た。彼は目をこすった。ここには来ないはず。来るわけがない。窓の外は真っ暗で、良く見るとそこに映っていたのは自分の顔と後ろで仕事をしている中島さんだった。

中島さんと目が合う。その場にいられないような嫌な気分になり、修のほうから目を逸らした。

朝美に自分の力で大学生活を続けて行く力はない。修はそう思っていた。出来るわけがない。まだ子供だ。だから、いつでもこっちに帰って来させることは出来た。だが、修はそれをしなかった。

《あいつを東京で苦労させる気はない》

二時間の残業が朝美の一日の生活費になる。このことは口には出さなかったが絶えず意識していた。

修の体は急に震え出した。

「またか!」

と思う。しかし、仕方ないことだ。彼はこう観念するしかなかった。またあの刑事たちのしつこい質問が、修の脳に飛び込んでくる。

「もう一度あの日の朝のことを思い出して下さい」

修は何度も思い出し、話した。彼は思う。刑事たちが俺の言うことを信じていないと。分かっている、俺には分かっている。俺は本当のことを話していないのだから。おれはこの先あの日の朝あったことを絶対に話すことはない。

「修さん。時間だよ。もう終わろうか」

中島さんが声を掛けてきた。

「えっ、ああ、そうしましょうか」

中島さんは修の近くまで来て、声を掛けてきた。

「また、考え事をしていたんですか。その内怪我をしますよ」

修は何も答えなかった。

伊勢市まではここ二十年近く通い慣れた道だった。通過する在所の家並みや道端の雑草の形やいろいろな樹木の四季の変化の様相はすっかり覚えてしまった。本里から宮川に架かる渡会橋までに五つの在所がある。

本里の自宅から田畑の間をくねくねと走り、次の在所まで十五分ほど走らなければならないが、二番目の在所までに一軒ぽつりと建っている家があった。毎朝八十くらいお婆さんが玄関の横に小さな椅子を置き、座っていた。朝その老婆を見かけると、いつの間にかほっとした気分になるようになった。お爺さんは一度も見かけたことはなかった。もう亡くなってしまっていたのだろうか?由紀子の二十数年後の姿を想像したことがあった。自分はどうしているのだろうか?それとも、由紀子とは別の所で住んでいるのか。修は、そうかもしれないと思った。

そのお婆さんがいることに気付いてから四、五年経った時、仕事の帰り、その家の前に車がたくさん止まっていた。気のなり車をゆっくり走らせて見ると、忌中の紙が貼ってあった。もちろん、次の日から老婆の姿を見ることはなくなった。ただ、その数日後、三つくらいの女の子が家の前の庭を嬉しそうに走り回っているのを見た。それまでにも見たことはあるが、それほど意識して見るようなことはなかった。何かが変わったような気がした。朝美が東京に行く二年前の出来事だった。

宮川沿いの道を家に向かって、修はゆっくり車を走らせていた。家で待っているのは由紀子だけである。急いで帰る必要はなかった。渡会橋を西に曲がると、しばらく堤防沿い道を走らなければならない。堤防の道は普通車がかろうじてすれ違うことの出来る道幅だった。

そして、ほぼ直線だった。時々百キロ近いスピードで走っている車とすれちがうことがある。

その時、修はどんな人が運転していのかより、助手席に乗っている人物に目が行く。ほんの一瞬である。十分世の中の道理をわきまえてもいい歳の青年であることもあるし、未熟さがはっきりと残る少女であることもあった。

修は前からやって来る車に気付き、相当スピードを出しているなと思った。いつものように車を止め、すれ違うのを待つことにした。これまで事故はなかった。気の弱い運転者なのかもしれないが、これでいいと修はおもっている。

「あっ!」

修は声には出さなかったが、まさか、と驚いて振り向いてすれ違った車をもう一度確認した。

《まさか。まさか・・・朝美であるはずがない》

修は体から自分のエネルギーの七十パーセントが抜けてしまったような気怠さを感じた。一分ばかり、川の水の緩やかな流れを見ながら、朝美の今の姿を想像してみた。

三年と九か月が過ぎていた。また新しい正月が十五日後にやって来る。もう少しの辛抱だった。あの子、朝美は帰って来る。

これまで朝美は一度も帰って来ていないけど、

「どうしてなんだ?」

修は口にはださなかったが、何度も自問し由紀子を睨んだりしている。そんな修を見て、

「朝美は、お父さんに悪いからってアルバイトしょうかなと言っていますよ」

と由紀子が行っていた。嘘だろうと思った。時々由紀子が朝美に電話をしているのは知っている。必ず帰っておいでと言っている。

修は何も言わなかった。しかし、朝美の声がききたかった。三年以上最後に残った娘の声を聞いていないのである。忘れてしまいそうである。居間に出て行って、由紀子から受話器を奪い取るのが恥ずかしかった。そんな修の性格を知っているのか、朝美に電話を掛ける前に、

「あなたからも帰ってくるようにいってくださいよ」

と声を掛けた。その時、どうしてか分からないが、修はいつも自分でも理解しがたい動きをする。手でいいと合図するのだった。自分の娘である。それに恥ずかしがる歳ではない。

修は、

(またか!)

と自分の周りを見回した。誰もいないのはいつもの通りだった。修は両手で耳を強く押さえた。

(・・・)

悲鳴である。もう午後八時を回っている。日は短くなっていて、修が仕事を終えた時にはすっかり暗くなっていた。車の量も少ない。定時で仕事を終える人たちの帰宅時間はとっくに過ぎていた。暗くぶっそうな所だが、こんな時間に人が一人で歩くようなことはない。

修には今まで何度も悩まされてきた少女の悲鳴だった。

「朝美」

修は呟いた。開けた窓からは風が入り込んで来た。冷たいというより冬の寒い風だった。でも、今の修には体の中を冷やしてくれて気持ち良かった。

(・・・)

前の方からこっちに向かってくる二つの灯りに、修は気付いた。また車か、と思った。今度もスピードを出している。修はもう一度十分対向できるかを確認した。別に顔を窓から出す気はなかったのだが、そのような仕種をしたようだった。彼はその後どうなったのか全く記憶にはなかった。

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