第32話

この時から、十五六年ほど前。そう・・・時間を・・・この事件のはじまりに戻さなければならい。この時、朝美はもう十歳になっていた。


             

その男・・・は生きていた。

名を、亀屋秀雄。

「俺は死ななかった。絶対に死ぬものか・・・死ななかったのだ。まだ、死ねない」

秀雄は両手で顔を恐る恐るゆっくりと撫でた。ゴツゴツとしていて、不快だった。撫でた手を見ると、真っ赤な血が、ぬるっ、と粘り付いていた。

「ああ・・・」

痛い。もはや、快感に近い痛みだった。

彼は鏡の前に立った。彼は自分の顔を、ここ何年見たことがなかった。

その瞬間

秀雄は、奇声を上げた。言葉にならない悲鳴だった。裂けた肉片の中に真っ白いものが光って見える。骨・・・か。

「ふ、ふっ!」

彼は苦笑した。骨が、こんなにも白くて、美しい輝きを呈するものなのか。

だが、その後、彼は意外と冷静に次の行動を練り始めた。

「何とかしなくてはいけない。でないと、俺は道を歩けない。それは・・・いやだ。こんな嫌われ者だが、いやだ。だが・・・」

秀雄はすぐに現実を認識するしかなかった。このような体になってしまった現実を。

「この顔中の深い傷は消えるのか・・・」

彼は言葉に詰まった。

「直るのか、この傷・・・」

「誰なら直せる・・・」

「誰だ?」

「い・・・医者しかない」

この結論に達するのに、そんなに時間は掛からなかった。

しかし、何処の医者に行ったらいいのか・・・秀雄は必死に考えた。一刻も早く医者に行かなければ、出血が酷く・・・場合によっては本当に死んでしまう可能性があった。

秀雄は自分の家に帰って来ていて、押し入れの中でひっそりと横たわった。

血はまだ止まらない。

(ああ・・・)

時間の経過が分からない。

「医者・・・か」

どうすればいい。

その前に・・・やっておかなければならないことがある。秀雄の眼光が鋭く光った。

ここは、彼の家だが、このままずっとここに隠れているわけにはいかない。

「俺の身代わりを見つけなければならない。でないと、俺は医者を探しに行けない。このままでは俺は死んでしまう。何処へも行けない」

それは・・・いやだ。ここの奴らに復讐してやる,俺を馬鹿にした奴らに、俺が味わった苦しみ以上の屈辱を与えてやる。

「そうだ。あいつがいい。あいつを呼び出し、俺の身代わりにしてやる。俺は死なない。死んでたまるか!よし、すぐに来い、と連絡してやる。来い、来い、早く来い」

秀雄は痛みをこらえ、

「すぐに来てくれ。すぐにだ。頼みたいことがある。よし、よし・・・」

(これでいい)

秀雄はニンヤリと笑った。

しかし、もう一つの問題がある。秀雄は口を歪めた。顔中の傷がヒリヒリ痛む。

「医者は・・・そうだ。あの医者がいい。俺とは相性が悪いが、俺はあいつの弱点を握っている。そうだ、あいつがいい。すぐに、行かなくては。だが、その前に。この顔では外を歩けない」

どうしたらいい・・・考えた。町内にある栃川神社で、毎年夏まつりがあり、その時に秀雄は大きなウサギのぬいぐるみとウサギの面を買ったことを思い出した。

「これでいい」

顔の出血はもう止まっていた。暖かくない程度の湯を沸かし、タオルでゆっくりと拭いた。

(夜・・・それでは遅い。もう少し暗くなってから、このウサギの面をつけて行けばいい。そうだ、ぬいぐるみも着た方がいいだろう)

「慌てなくていい、こうなったら、じっくり作戦を練るとしよう」

秀雄は笑おうとしたが、思うように顔の肉が動かなかった。

「お前たち、少しの辛抱だ。多めの餌を入れておいてやる。いいか、ゆっくり食べろ。いいな」

庭には板木で作った縦二メートル、横三メートルほどの建屋が造ってあった。その中には、四羽の白いウサギがいた。互いに寄り添い、大きなぬいぐるみを着た主人を見つめている。

「大丈夫だ。また、来る」

大きなぬいぐるみを着たウサギたちの主人は涙を流している。

男の涙は止まらなかった、次からつぎへと彼の清らかな眼から流れ出ていた。

「これは、俺の血だ。ああ、あの子はウサギが好きだった。だから、俺はこのぬいぐるみを着て、あの子の前で踊った。あの子は、とても楽しそうに見えた。だから、俺は調子に乗って、踊った。これは、二人の秘密だよ、と約束した。だから、あの叔父も由紀子さんも、大きなウサギは知らない。それなのに・・・あの叔父は・・・」

男の涙はまた流れ出した。



その一か月後、本里の入り口にある寄合橋の下で、一人の男の遺体が見つかった。すぐに警察に通報された。

大台北署は慌てふためいた。

よりにもよって、こんな田舎で・・・栃川町本里のような田舎で、無残な惨殺体が見つかったのである。身元不明の遺体が発見されることは、過去にも何度かあった。台風などで宮川の水かさが増し、次の日、その宮川に人が浮かんでいたこと何度かあった。だが、宮川の派川に架かる寄合橋で、今度のような惨殺遺体が発見されたのは初めてだった。

すぐに問題になったのは、惨殺遺体の身元である。すぐに本里の住人に確認を求めることになった。もしこの男が本里の人物であれば、であるが・・・人に見せられるような状態ではなかった。顔が鋭利な何かで切り刻まれ、目が完全につぶされていた。

「どうする?」

三重県警の警部補の桜井裕二が腕を組んだ。何が致命傷になり、詳しい殺害の状況は遺体の解剖でわかるだろう。

「おい、熊田さん、一応全住民の所在を確認した方がいいですね」

桜井警部補と言った。

「そうだな、しかし・・・」

熊田の方は浮かぬ顔をしている。

「何か・・・気になることでも・・・」

熊田の方が年上で、桜井は、そういう面では一応一目置いている。熊田の煮え切らぬ態度は、この地区の慣習などを知り尽くしているから、そう簡単に協力を得られない、と覚悟している。

「いや、なんでもありません。そんなに広い地区ではないので、すぐに終わります」

と言い、歩き始めると、すぐに足を止めた。

「どうです、一緒しますか?」

と県警の警部補を誘って来た。

「行きます、行きます。案内してください」

桜井警部補は応諾した。

「でも、もう少しお待ちください。地域課の河合巡査が来ます。その人に本里を案内させます。その方がいいと思います」

桜井警部補は承諾した。はっきりとした殺害時間は分からないが、顔の血糊はべとべとしていて、まだ完全に時間が経っていないことを示していた。

「あっ、来ました。あの人です」

自転車に乗って、こっちに向かって来る顔のまん丸い四十五、六歳くらいかの制服姿の警官が見えた。

「あっ、すいません。お待たせしました」

河合巡査は息を切らしている。

「すいません、それでは、行きますか」

河合巡査は自転者を引っ張りながら、先頭に立ち、本里の中を歩き始めた。

「それ程大きくない在所です。名前は町ですけれど、まあ、村ですね」

本里の中を一本の道が東西に突っ切っている。国道四十二号からはじまり、一旦宮川は山林の中を走るが、また宮川沿いの堤防に出て、伊勢市に辿り着く。宮川から逸れた派川は本里の入り口を通り、最後にはまた宮川に合流するだが、派川に架かる大井橋は、この本里から出て行くことの出来る橋だった。栃川本里への入り口には寄合橋という小さな橋があるが、その橋の下で、今回惨殺遺体が発見されたのである。そして、この本里には、大体五六十軒の家がある。

「それが・・・ですね・・・」

と、河合巡査が苦虫を噛み殺した顔でいう。

「何ですか?」

「本里に住む者・・・みんな連携して助け合っているように見えますが、どうして、どうして心の内では激しい憎しみや恨みなどが錯綜していて、実にやりきれない気持ちになることがあるんです。厄介なことが起こらなければ何てことはないんですが、いざ起こると、みんな何も話してくれません」

熊田巡査部長と桜井裕二警部補が顔を見合わせた。桜井警部補は黙っているが、熊田巡査部長は苦笑している。

「こういう土地は・・・困ったものです」

熊田巡査部長は河合巡査を見て、苦笑している。

「つまり、誰も本心を話さないんです。話しても、こっちとしても、どこからどこまで真実なのか計り知ることが出来ないのですよ。まあ・・・仕方がありませんけど・・・こっちも・・・」

と言い掛けて、慌てた素振りをして黙ってしまった。熊田は河合巡査ほどではないが、この地区の情勢を知っている。

「河合君、いいから、いいから」

と言い、我々を早く案内するように促した。河合巡査は熊田を睨み付け、先に歩き始めた。

本里の家々は四五軒連なっている所もあれば、田畑によって間隔が空いている場所もあった。脇道に入り、また家が何軒か連なっている。そして、概ね家々の土地は広い。

「ここです」

と言い、河合巡査は橋のたもとに来ると、自転車を止めた。

「ここが、本里の溜まり場で、女たちのほとんどが本里の噂話をしています。それが・・・今は、みなさん共通の話題があり、この話題でもちっきりなのです。ええ、熊田さんもご存じの事件です」

桜井が怪訝な表情をし、

「何か、あったんですか?」

「あっ、あれか・・・あれは、まだ全然わかっていないな」

「事件ですね?」

桜井警部補の刑事としての勘なのだ。

「実は・・・この辺りで、五歳の女の子が行方不明になっている事件が起こっているんです」

「ほおっ・・・」

「弱っているんです。人手を集め、探し回っているんですが、今の所、全く手掛かりさえつかめていません。この辺は山が多いのですが、おおきい川も二つあり、おまけに派川があり、大掛かりな捜査をしたいのですが、こんな場所ですから。今日は一旦捜索を休んでいます。それに・・・」

「それに・・・何ですか?」

言いよどんだ河合巡査に、桜井警部補が嫌な顔を・・・気に入らないらしい。

「はい、この事件のことはお聞きになっていると思いますが」

「なるほど」

桜井警部補は別に驚いたふうに見えない。

(やはり、知っているのか)

話さなければ・・・と思うと、河合巡査は気分が悪くなった。

橋の手前に雑貨店がある。河合巡査は、

「こんにちは」

と声を掛け、福田屋に入って行った。

しばらくすると、河合巡査が出て来て、

「まずいです。弱りました。今、中にいつもの奥さんたちがいます。ええ、二人が見えます。みなさん、ええ、みなさんが鈴村理穂ちゃんのことを心配しています。ちょっとまずいですね」

河合巡査は外にいる二人に、どうするか、眼で答えを求めた。外にいても仕方がないので、桜井警部補が店の中に入いるように指示した。

福田屋の中にはいろいろな商品が並んでいた。というより、手当たり散らかりごっちゃになっていたと言った方がいいかもしれない。

「みなさん、お集りですね。こちらは、大台北署の熊田さん、みなさん、よくご存じだと思います。そしてこちらが県警の桜井警部補です。もう知っていると思うけど、寄合橋の下で見つかった遺体の身元を調べています。とんでもない事件が起こったものです。分かっています。鈴村理穂ちゃんはちゃんと探しています。やっていますから安心して下さい」

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