第19話
朝美が十一歳の時だった。中学に入って間がない時、彼女は友達と松阪に遊びに出た。二人だけで、ちょっとしたお祝いしたかったのだ。義務教育だったから誰もが一緒に中学生になれるのは当然だったけど、みんなはそれなりに嬉しかった。まだ中学生活は、胸がワクワクだった。また暇を弄ぶ時期だったことも確かだった。
彼女たちにとってその町はそれほど魅力ある遊び場ではなかった。そこしかなかったのである。そして、会話が途切れ始めると、逃げ込む場所は映画館だったが、ひとつしかなかった。
その町は大きくはなく、駅前には小さな百貨店があり、西にずっと歩いて行くと、商店街があった。朝美たちのような女の子たちの興味がそそらせる店はすぐになくなってしまう。
それでも朝美たちはなにかと楽しく、きゃっきゃっと遊んだ。可笑しくもないのに、急に笑い出してしまう。すれ違う大人が変な眼で睨んで通り過ぎて行く。
そうしないと息が詰まりそうな重苦しい空気に潰されてしまっていたような気がした。もっとも十一歳の女の子がそこまで考えることはなく、その時、それなりに十分楽しんでいた。
まだ学校は始まっていない。田舎の町の少しざわめく時間だった。今自由な時間を過ごそうと十代の子供たちが溢れていた。けっして新聞やテレビの取材になるような事件は起きない。ただ、誰もが口には出さないが、十年ほど前の残酷な事件は誰も忘れたことはなかった。学校の先生たちはたえずあの事件のことが頭にあった。なぜなら、まだ事件は何も解決されていなかったのである。もちろん子供たちもその事実を良く知っていた。でも、誰も口にはしなかった。そうすることで楽しい気分が一瞬の内にきえてしまうからである。当然今日松阪の短い距離の商店街に遊びに来ている彼女たちも、である。
駅近辺から離れると、面白い店もなかった。ほとんど駅と連結している百貨店で遊び、少しの疲れも見せずに家に帰って行く。それだけだったが、今日は、朝美たちには数少ない極上の日だった。二人だけで気分を盛り上げていた。
その日は夏の暑い日だった。夏休みに入っていたので遊ぶ時間は十分にあった。どちらからともなく駅から足を延ばすことになった。そして、そのことはすぐに起こった。
駅から十四五メートル所に信号があり、その先が商店街になっていた。松阪市という所はあらゆる面で古い町だった。その中に、数少ない新しい形が現れ始めて来ていたが、どう反抗しても古い力も新しい形に太刀打ちは出来ていなかった。だから、その信号を超える子供たちは余りいなかった。そんな子がいても、すぐに戻るのがよく見られる光景だった。要するに、新しい商店街は完全な形になっていなかったのだ。いずれ・・・二三年もすれば、落ちぶれた姿に変わってしまうのは、誰の眼には口には出さないが分かっていた。
その信号は赤で、一人の女の子、朝美たちと変わらない年齢の子が横断歩道手前に立っていた。
朝美は、
「おやっ!」
と、体に強い衝撃を受けたのだった。
(何を馬鹿なことを考えているの?)
朝美の意識の中に名前も知らない少女の考えていることがはっきりと飛び込んできた。そして、朝美はこの先少女の身に起こることが読み取れた。そして、今までの経験から読み取ったことは必ず起こってしまう事実も知っていた。それでも彼女は苛ついてしまう。信号は赤だった。
(だめ。今、渡っちゃ、車にやられるよ。だめ!)
朝美は叫ぼうとしたが、声が出ない。
「止めなくっちゃ」
こう彼女は呟くと、その少女に向かって走り出した。それしか少女の動きを止める方法がなかった。
(私・・・何をしようとしているの?)
「朝美ちゃん」
同じに遊びに来た朝美の友達は突然の彼女の行動に戸惑い、ただ叫ぶしかなかった。
(・・・)
朝美の動きはすぐに止まった。彼女ははっきりと赤いものが飛び散るのを目撃した。
朝美は目を背けた。意識的ではない。何かが彼女にそういう行動を取らせた。
その少女は東から現れた車に惨めにも飛ばされて、信号の角にある百六銀行の、レタリングの字が馬鹿でかい宣伝文句のガラスにぶち当たってしまった。
その瞬間は静か・・・というより静寂の言葉がぴったりだった。そして、少しして一台の車の轟音だけが響き渡った。不揃いなざわめきが起こり、徐々に大きくなっていった。救急車だ、警察だ・・・後は言葉にならない。
一瞬、無残な少女に近付こうとする人は、一人もいない。だが、すぐにどんな無残な姿になってしまったのか、興味が野次馬は恐る恐る近づいて行く。
朝美はその場を動かない。彼女の怒りは少女を轢き、逃げた車に集中した。彼女の目は車を捕えた。
「死ね!」
朝美の心を黒い影が過った。彼女は一瞬顔を逸らそうとした。だが、この時は彼女の顔は硬直していた。
朝美の記憶はここで途切れていた。なぜだが、彼女には分からない。しかし、はっきりと彼女の記憶の中に残っていた。それなのに、逃げ去った車がどうなったのか・・・彼女の記憶には一ミクロンの欠片も残っていない。
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