第17話
(もう寝たかな?)
朝美の故郷、栃川町字本里からは海の音は聞こえなかった。故郷の家の周りは山である。朝美は指を折り、今日が何日か考えた。あと五日でクリスマスだった。兄健次、姉春美の姿を想像してみた。春美がクリスマスに帰るとは思えなかった。健次は・・・この時、
「こっちへおいで。風をひくよ」
一幸は朝美の腕をつかみ、ベッドに引っ張り込んだ。余り強く引っ張られたので、彼女はすっぽりと一幸の腕の中に抱かれた。
ホテルの中は、そんなに寒いとは感じなかった。だけど、一幸に抱かれると自分の体がどんなに冷えていたのかよく分かった。気持ちよかった。ずっとこのままでいたいような気分になった。
「どうするの?」
朝美は体を動かした。
「帰るの?」
「えっ。あぁ、帰らない」
彼女は言い切った。
「ご両親、心配しないか?」
一幸は朝美の髪を何度も撫でていた。彼女の髪は耳を覆うくらいの長さまで伸びていた。
「余計な心配よ。あなたには関係ないわ」
朝美は一幸を睨み、すぐに目を逸らした。彼女は自分が不機嫌になっているのが良く分かった。これまで自分の家族や故郷のことを自分自身から一幸に話したことはない。また。これからもない、と彼女は確信している。
「私のことよりあなたの奥さん、家族はどうなの?何処へも行かないの?」
一幸は煙草を取り出し、火を点けた。煙草は好きな方ではなかったが、ちょっとでもばつが悪くなった時とかに、動揺を隠すために煙草を利用した。一幸は、ごくりと唾をのみこんだ。
「家は、夏に何処かに行くことにしている。少し早いと思ったのだが、今日は君と僕との二人だけのクリスマスだ。そのつもりで、ここに来た」
一幸はクリスタルの灰皿に煙草を強くもみ消した。心の動揺を隠すために、煙草を持つ指先に力を入れた。
「有難う。嬉しい」
朝美は言った。
「ふっ」
一幸はほっとしたのか、朝美には見慣れた笑みを作った。
(この人は、また私を抱きたがっている。いいわ)
朝美は男の腕の中に入って行った。
次女の朝美が東京の大学に行ってから七か月してから、由紀子は家から自転車で十分くらいの所にある四十二号沿いのパーキングエリアの土産物店に働きに出るようにした。家には、誰もいなくなる時間が出来た。
八並修は仕事を休まず、良く残業をした。朝美に必要以上の仕送りをしても、由紀子と二人だけの生活だったから、そんなに生活費はいらなかった。修の収入だけで十分だった。それでも、由紀子は働きに出た。少しでも修の体を楽にしてやりたいという気持ちからだつた。
「私、明日から働きにでます」
「働く?」
修は驚いたが、すぐに普段の修の顔に戻った。
「家にいても退屈だから」
「田んぼはどうする?」
畑もあった。大台町は、大台茶で知られている。八並の家は茶を作ってはいなかった。山はふたつ持っていた。こっちは修が世話をしていたし、自分の役目だと自認していた。
「パートだから、朝行く前にもやれます。それに仕事が終わってからでもやれますよ」
「いいだろう」
修は承諾した。
由紀子は夫の顔を見つめ、
「もう、余り残業しなくてもいいんじゃない」
修は考えた後、
「まだ、金はいる」
と言った。
「だから、私が・・・」
修は黙ってしまった。由紀子にそれ以上言うな。前から言っているはずだ。
働かなくてもいい、俺が働く、と一緒になる前、くどく言っていたのを、由紀子は今もはっきりと覚えている。だから、彼女は最後まで言わなかった。
次女の朝美が東京に行ってもうすぐ一年経つ。一度もこっちに帰って来ていなかった。修が一番可愛がっていたのは朝美である。修は口には出さないが、由紀子には良く分かっていた。親と子といっても、人と人。気が合う、合わないが生まれる。同じ血の争いほど醜いものはない。健次も春美も父である修の目を真正面から見ることはなかった。ちょうど今由紀子が修を人として三人の父として、そして彼女の夫として物足りなさを感じているのと同じだった。
健次と春美がそのような目で見ているのを、修は感じていたのだろうか。修は二人に物質的な差別をしたのかというと、そんなことはないと朝美は確信して言える。バイクが欲しいという健次には、修は一言も小言を言わずに買ってやった。健次が高校の三年の夏休みに、アラスカに行きたいと言ってきたことがある。なぜアラスカなのか、朝美にはよく分からなかったが、とにかくアラスカだった。修は自分の小遣いからその費用を出してやった。アラスカに出発前、由紀子に、
「親父に、行って来ると言っといて」
と言付けを頼んでいた。
健次はこの年の正月家に来なかった。朝美が十五歳、高校一年の時である。時々金が無くなった時こっそりとやってきて由紀子からいくらか貰って帰って行った。朝美は、また来ていると思って健次の変わらない姿を見ていた。おかしなものでそんな兄を見て、朝美はほっとした気分になった。それも、女と同棲すると、家に来なくなった。
「健次、やっぱり来ませんでしたね」
由紀子から健次が女と同棲し始めたことを、朝美は聞いて知っていた。これまで金をせびりに来る以外家に近づかなかった。決まって由紀子が対応していた。由紀子は毎年年の暮れになると必ず家に帰るように連絡している。春美は昭平の家族と同じに住んでいるから堂々と連絡出来ないが、それでも適当な理由を考えだし、正月だから帰れたら帰るようにと電話をしている由紀子を朝美は何度も目にしている。
子供たちが自分たちの傍からいなくなりかけていた。いずれ子供たち三人ともいなくなるのを良く知っていたからなのだろうか、よく由紀子は家族という言葉を何度も使っていた。しかし、と朝美は思う。もうとっくに、家族というしがらみという呪縛は、健次からも春美からも完全に消えていたと朝美は思っている。ただ、朝美だけが、宙に浮いたような状態だった。昔から連絡が無いのは無事な証拠というかもしれないけど、由紀子はそんな家族の状態が我慢出来なかった。
「元気?」
「あぁ」
健次のぶっきらぼうな返事が返ってくる。由紀子の表情に堪らず笑みがこぼれる。
「今年は、来るのよ」
「あぁ」
しばらく二人とも何も言わない。
「子供が・・・出来たんだ」
その抑揚のない声に、健次の喜びの強さが手に取るように分かる。口数の少ない子供だった。修に似たといっていい。由紀子はそう思っている。多分、健次も同じ思いだろうと想像できるが、それが嫌なのかも知れない。健次は自分が無口だとは思っていなかった。
「来るね」
「行く」
健次は小さな声で答えた。
「一緒にね」
「分かった」
この年、十二月三十日の夕方の電話のやり取りだった。
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