第9話

八並朝美は男の声に振り向いた。彼女は微笑もうと思ったが、彼女が望むような表情が出来なかった。もっといい笑顔をしなくては、と意識したが、彼女の表情は一瞬歪んだ。

彼女は裸で窓の外を眺めていたのである。新横浜駅の近くのホテルで、十五階に彼女は男といた。男はベッドから朝美の裸身を後ろから眺めていた。

「何も・・・でも、今新幹線が見えたわ」

朝美はそのまま男の身体の中に飛び込んで行った。

「一幸さん」

朝美は男の身体の暖かさを感じた。部屋の中は暖房が効いていたが、彼女の身体は冷え切っていたようだ。彼女は一瞬快さを感じたが、すぐに不快に変わった。 

 朝美の身体がぴくりと震えた。一幸はその微かな震えをすぐに感じ取った。まただ、と一幸は思った。彼にはその震えが何なのかわからなかったが、なぜか意味深いものを感じていた。この子にとって不快で不愉快な何か、一幸は漠然とそんな印象を持っていた。だが、彼女に問い質す理由がなかったから、そのままでいた。

 一幸は朝美の顔を両手で触った。妻にはない柔らかな肌の感覚だった。それが快く、彼に朝美を抱きたいという欲望を掻き立てた。

 「朝美」

 一幸は若い朝美の裸身を抱いた。

 「このまま、ずっと一緒にいたい。いいでしょ、いいでしょ」

 朝美は男の身体の上に乗って行った。そして、猫が甘えるように何度も身体を激しく摺り寄せた。

一幸は戸惑いを覚え、一瞬たじろいだ。朝美は一幸の身体の中で激しく動いた。彼女の身体が妖しい動きをしている。一幸は彼女が大胆な体位を要求しているのが、これまでの経験から理解した。

 「お願い、もっと」

 朝美は一幸の耳元で呟いた。

 一幸は彼女の顔を見た。なぜか・・・この女は夢を見ているように感じた。しかし、いい夢でないような気がした。この子は暗い過去を抱いているような気がする。多分、俺の勘は当たっているはずだ、と彼は自信を持っていた。

朝美は乳房を触る男の手が余りに弱いのか、自分で乳房を揉み、激しく触った。

 一幸は手持ちぶたさになった手で、朝美の腰を抱いた。彼女の腰の動きを助けようと思ったのだが、その必要はなかった。自然な腰の動きは、一幸の手助けを必要としていなかった。

 いつの間に、この子はこんな女になってしまったのだろう。一幸は朝美を不思議な目で見上げた。彼は身震いをした。何だ、と彼は思った。だが、彼の思考はこれ以上進まなかった。  彼は朝美の口を吸った。舌が朝美の口に吸い込まれていく。

 朝美の息が甘かった。一幸は朝美の要求に戸惑いながらも満足だった。

 「朝美」

 一幸は朝美を倒した。今度は一幸が上になった。彼は腰に力を入れた。朝美は顔を歪め、上体をくねらせた。

 一幸は朝美のその表情に堪らず、また激しく彼女の口を吸った。二つの舌は気味悪いほどの赤味を帯びていた。

 「きっとね」

と、言った次の瞬間、朝美は目を強く閉じ、顔を背けた。

抱いた女の体が、ぶるっと震えた。一幸は朝美の顔を覗き込んだ。彼女はまだ目をつぶり、顔を背けていた。


 十数分後、朝美は一幸の腕の中に抱かれていた。彼女の目はベッドの傍らでずっとこっちを向いているビデオカメラを捕らえていた。一幸の身体は温かくほてって熱っていたが、彼女は少しも彼の温かさを感じなかった。

 一幸は微かにうなずいた。だが、彼はこの瞬間だけは、他のことを考えていた。朝美の体の震えも何か、そう子供が怖いものから目を背けるような幼い表情を思い浮べていた。彼にとってどうでもいいことだったが、気になった。

朝美は一幸の胸をつねった。

 一幸は顔を歪めた

「いつ?」

朝美は一幸の耳元で呟いた。この時、彼女の目が鈍く輝いた。彼女の言葉に感情はこもっていなかった。朝美は一幸の確かな返事を期待していなかつた。自分の呟きが一幸の心に多少なりと圧迫を感じさせれば、今の所、それでいいと思っていた。朝美は一幸の視線の先に目をやった。彼女は口元に微かに笑みを浮かべたが、一幸には彼女のその表情の変化に全く気付いていない。

一幸は時々顔を上げ、ビデオカメラににやりと照れ笑いをし見入っていた。朝美が、「おもしろいよ」といつて設置したのである。彼は驚きの目で十九歳の少女を見つめた。彼は自分のような歳の男が興味本位に言い出すのは理解できたが、まだ幼さの残る少女が言い出すようなことではなかった。カメラが自分たちの行為をどのように捕らえているのか興味がないこともなかった。そして、それを想像するとますます興奮し、気が狂い繁殖期の動物のように若い体を求めた。

朝美は身体をくねらせた。

朝美は自分が妻子ある男とのよくある話の中の主人公になりきっていることは、良く理解していた。今までそのような朝のワイドショーの事件レポートや友達の話に耳を傾けたことがある。多分、これからもあるだろう。そこでの主人公たちが悲劇で泣くにしろ、ハッピーエンドで始まり、その先苦しみの生活があるにしろ、どうでもいいことだった。彼女はそれが目的ではなかった。

いつ、と朝美は聞いた。しかし、急ぐ必要はなかった。大学生活はまだ二年半残っている。 彼女は、今満足な時間を過ごしていると思っている。慌ててその時間をすてる気などなかった。


八並朝美が佐野一幸と知り合ったのは、彼女が東京に出て来た最初の年の五月の連休の最中であった。正確に言うと、初めは知り合ったのではなく、朝美が佐野の家族を新宿で見かけたのである。

この年の五月二日の日曜日、朝美は榊原京子と新宿に遊びに出ていた。京子は朝美より一つ上で、和歌山県の白浜の出身で、朝美と同じように寮で生活をしていた。部屋が隣りで、朝美が寮に着いたその日に知り合いになった。

朝美は彼女とそんなに気が合うとは思わなかったが、なぜか退屈になると彼女の部屋に遊びに行った。朝美より東京の生活では先輩だったので、最初の頃よく一緒に外出していた。この日も二人して新宿に遊びに出ていたのだが、すぐに見飽きて ぶらぶら歩くだけになってしまっていた。ただ、騒がしいだけ、と朝美はいつの間にかこんな印象を持つようになっていた。

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