第8話

そのとき、彼女の身体は震え出した。

(なぜ・・・)

と朝美は突然激しい怒りに襲われた。彼女は手に持ったナイフで自分の腿に押し当てた。

(なぜ、なぜ・・・?)

朝美の心のなかは混乱してしまっていた。心の空間は台風のように乱れ荒れ狂っていた。彼女は自分の混乱を理解していない。ただ、修に対して激しい怒りを消すことが出来なくなっていた。

式場の床が小さく揺れ始めた。初め、気になるほどではなかったが、少しずつその揺れは大きくなって来た。結婚式に出席している人が揺れに気付き慌て出していた。

「地震・・・地震・・・」

その声は次第にあちこちで聞こえ出した。

出席している人が騒ぎ出して、由紀子は初めて床の揺れに気付いた。

「地震なの」

と横に座る修に声を掛けた。

「ああ」

修は気にならないのか、平然と答えた。揺れは益々激しくなって来た。

「こんな時に!」

と由紀子は嘆いた。その時、彼女は、まさか・・・と思った。彼女は依然として落ち着いている修に目をやり、その後朝美を見た。

「あっ!」

と、由紀子は声を上げた。

(何があったの。何が・・・)

由紀子は修を見、その後朝美に目を移した。

「まただ。あの子は何にいらついているの」

由紀子は呟いた。だが、彼女の感情は、(まただ)という気持ちでいらついた。実際この所、彼女にもまただと言った意味が分からない。由紀子が朝美に抱いているまただという感情の確かなものはなかつた。

床の揺れはだんだんと激しくなり、逃げようとする人、テーブルの下に隠れる人、中にはもう式場から飛び出している人も何人かいた。

(またあの子の仕業だわ。止めなくては)

こう思うが、この揺れが朝美の仕業だとする確かな革新もなかった。思うが

由紀子は揺れる床の中、テーブルをつたいながら朝美に近づいて行った。

(早く止めなくては。この子は、春美の結婚式を無茶苦茶にしてしまう。朝美ー)

由紀子は娘の名前を絶叫した。


誰かの声が遠くの方から聞超えて来た・・・ような気が、朝美にはした。しかし、彼女は無視した。実際、彼女は今目の前で起こっている現象をはっきりと認識していた。

「滅茶苦茶にしてやる。こんなもの、全部こわしてやる」

朝美は自分の苛立つ感情に大きな快感を抱き、声を出して笑い出した。天井のシャンデリアが激しく揺れている。

「キャッ」

女の声が式場に響いた。一人や二人ではない。天井のシャンデリアが揺れに耐えられずに落ちたのである。


由紀子はこの地震はあの子が起こしているのに違いないと確信した。

(きっと、そうに違いない)

彼女はじつにあやふやな確信だと思っている。しかし、この場合、このことはあの子の仕業としか考えられない。止めなくては・・・でないと、春美の結婚式がだめになってしまう。

由紀子は地震のような揺れと人々の混乱の中を、やつとのことで朝美の傍に辿り着いた。

「朝美」

由紀子は、朝美の身体を力を込め、抱き付いた。彼女は朝美の顔を覗き込んだ。目が空ろで焦点があっていない。しかし、その眼光の鋭さに、由紀子は怖くなり、一瞬目を逸らした。

「いけない。すぐに目を覚まさなければ、とんでもないことになってしまう」

由紀子の耳には人の悲鳴や叫び声が一層大きな雑音として聞こえきた。

「起きて。目を開けなさい」

由紀子は朝美の身体を何度も揺すり、顔をこれ以上出せない力を込め殴った。彼女は修に助けを求めた。

修はテーブルにしがみ付いていた。叫び声も上げずに、ただじっと揺れが静まるのを待っているように見えた。

「ウゥ…」

朝美の唸り声だった。その後、

「あぁ」

と人間らしいため息が朝美の口から漏れた。

「朝美,しっかりして。目を開けて」

由紀子は朝美の顔を優しく撫でた。

朝美はゆっくりと目を開けた。そして、

「何、何があつたの」

朝美は式場の周りを見回した。

「何も、何も・・・ただ、地震があっただけ」

と由紀子はそっと朝美を抱き寄せた。

朝美の目はまだ虚ろだったが、その目で修の姿を捕らえた。彼女は自分が何をしょうとしていたのか、いや何かを見ていたのか。だが、それと今自分が目にする披露宴の混乱した状況と結びなかった。

(この子は、何も覚えていない。いつものように・・・由紀子はどうこの子に対処していいのか、ずっと戸惑っている。こんなことがある度、彼女は自分の娘との距離が離れていることに気付く)

何があったんだろう。この子の過去に何か恐ろしいことがあったんだろうか。あの事・・・

由紀子の脳裏を突然またあの思い出しても苦々しい時間が過ぎった。今なら問えるかも知れない。こんな所で・・・私は何を考えているの。彼女は自分の心の混乱を笑った。でも、この子があの時のことを今も覚えているかどうか、それに今さら何を思い出さそうとしているの?でも・・・このままでは、あの子がどんどんと離れて行ってしまうと彼女は考えてしまう。

由紀子は今も激しく自分に問い続けている。それ程彼女にとって衝撃的な出来事だったのである。朝美以上にあの日の出来事は由紀子を苦しめていた。しかし、朝美には、もっと怖い何かであったの違いない、と由紀子は思うのであった。


混乱とごたごたの中で終った披露宴だったが、と誰の表情にも安堵の気持ちがあった。

修と由紀子は改めて相手方の両親に頭を下げ、挨拶をしていた。修は笑っていた。朝美は今でもその時の修の笑顔をはっきりと覚えていた。しかし、春美が服を着替え、昭平とともにみんなの前に現れた時には、修の笑顔は消えていた。

新婚旅行から帰って来て二日後二人揃って字大里にやって来た。その時は、朝美は学校に行っていて、どんな様子だったか分からない。そして、その後二人、いや春美が字本里の家に帰って来たことがあるのか知らない。

母由紀子からの電話で 二年前に男の子供が出来たと聞いたことがある。一度くらいは子供を見せに字大里の家に帰ったことがあるのだろうか、と朝美は想像してみたことがある。しかし、その映像に修の姿はなかった。


朝美は全身の力を抜き、電車の揺れに身体をまかせた。東京での四年の大学生活の全てが闇に浮かぶ家の明かりとともに過去に追いやられて行き、朝美の心から消えて行くような気がした。

四年経つたら戻って来い、という父との約束を守り、朝美はあの家のある場所に帰ろうとしている。


「何を見ているの、こっちにおいでよ」

少女はホテルの窓ガラスから額を離した。

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