魚屋にて

@me262

第1話

 とある商店街にある魚屋。続く不景気に加えて近郊に出店した大型量販店のせいで売り上げはガタ落ち、祖父の頃から続いた店を自分の代で潰す訳にはいかない。困った店主は客寄せのためにマグロの解体ショーをやることにした。店頭に大きな台を置き、その上に載せたマグロ1本を歩行者の前で自らが捌く。毎日は無理だが週一、或いは月の決まった日に開催すれば話題になって客足も幾らか戻るだろうという目算だ。

 早速見映えのする高級マグロ包丁を手に入れ、扱い慣れるまで本物のマグロを相手に連日練習を繰り返し、包丁捌きに自信の持てる様になった頃合いに市場でその日一番の大物マグロを買い付け、いざ本番を迎えた。開店は10時、ショーは12時だ。

 店を開けると通りにはそれ程人出はない。焦ることはない、まだショーまで時間はある。事前に新聞の折り込み広告でショーの宣伝をしているので近所の住人たちは必ず来る。主人はショーに使う台を店の真ん中に置いて準備を始めた。そこへ向かいにある八百屋の親父がやって来た。

「おう、いよいよ本番か。大丈夫か?」

 幼稚園から高校まで一緒だった竹馬の友に、魚屋の主人は得意気に答える。

「当たり前よ。この日のために毎日鍛えてきたんだ。目ぇつぶっても捌いてみせらあ」

「本当か?もしかしたら見物が100人位来るかも知れねえぞ。お前上がり症だったろ。小学校の学芸会で落語やった時に台詞忘れてパントマイムになっちまったじゃねえか」

「う、うるせえな。ガキの頃の話なんかするんじゃねえよ。俺だっていい歳なんだ。あんなヘマは二度としねえよ」

「そうかい、お手並み拝見だ。お前が上手くいったら俺も白菜の解体ショーやるからよ」

「くだらねえこと言ってねえで、てめえの店の仕事をしろよ。おかみさんがこっち睨んでいるぞ」

 八百屋は背後の鋭い視線に気付いて、そそくさと店に戻っていった。冷やかしが消えた所で魚屋の主人には八百屋の言葉が引っ掛かってきた。

 見物が100人?この店の前にそんなに人が集まる訳が。しかし、学芸会での客もその位いたな。考えてみりゃ人前で何かを披露するのはあの時以来だ。もしかしたら、またやらかしちまうかも……。

 急に緊張してきた主人は今の内にこの場で練習しておくことにした。

 大きなマグロを冷凍庫から台車に載せて店頭に持って行くと、いつの間にか店の前に1人の老人が立っていた。

 小柄で、白いシャツとズボンを着た、人の良さそうな細目の老人だった。この辺りでは見ない顔だ。老人は主人に軽い会釈をする。主人も小さく頭を下げた。

「大きなマグロだね」

 老人の言葉に主人はぎくしゃくと頷いた。マグロを台に載せながら答える。

「解体ショーをやるんですよ。2時間程後です。今はちょっとばかし練習をしようと」

「そうかい、私も昔魚屋でしてね。懐かしくてつい、あんたの店を見ていたんだ。私に構わず練習してください」

 老人は笑顔で言った。

 1人とは言え観客が居る方が練習になると思った店主は老人の言葉に従い、包丁を持ってマグロの上でそれを振り回した。

 ここはこう切って、こう開いて、いやショーなんだからもっと派手に大上段に構えた方が……。

 店主は歌舞伎役者のつもりで包丁を頭の上に持っていこうとした。しかし、緊張で無意識に掌に汗をかいていたのだろう、包丁がすっぽぬけて空中高く回転してしまい、それに驚いた店主は身体のバランスを崩して前方に倒れ込んだ。台にぶつかりマグロは滑り、音を立てて地面に落ちる。

 店主はしまったと思い、包丁の行方を目で追った。大振りのマグロ包丁は何回転かした後で老人の足元に落ちた。

「すいません!怪我はありませんか!」

 老人はゆっくりと地面に横たわる包丁を拾った。

「私は大丈夫です。それより、せっかくの良いマグロが汚れてしまう。早く拾ってください」

「すいませんすいません!すぐに片付けます!」

 緊張と恥ずかしさで頭に血が昇った店主は一刻も早く上物のマグロを拾うことしか頭に無くなってしまった。老人に背を向けてしゃがみ、アスファルトに横たわるマグロを懸命に引っ張って台車に載せた。

 荒い息を一つ吐いて、店主は老人に向き直って深々と頭を下げた。

「本当にすいませんでした!お怪我が無くて何よりです」

 老人はどういう訳か口元を拭う仕草をした後、にっこりと笑った。

「いやいや、気にしないで。これ、お返ししますよ」

 老人はマグロ包丁の柄と、切っ先のそれぞれを両掌に乗せて店主に差し出した。店主はしきりに頭を下げてそれを受け取る。

 そこへ唐突に、スーツ姿の男女が駆け付けてきた。その内の1人が老人に話しかけた。

「やっと見つけた!いきなり居なくなったから探しましたよ!」

「どうもすいません。ついふらふらと見物を……」

「あちらの車に乗ってください、会見場に案内しますから」

 頷いた老人は少し離れた場所に停まっている白いミニバンに乗り込んだ。窓から老人は店主に手を振る。何度も頭を下げて見送る店主を置いてミニバンは走り去った。

 汚れたマグロを洗わなければならない。店主が台車の取っ手を掴んだ時に、八百屋が再び近づいて来た。

「見てたよ。とんでもない人に会ったな。やっぱりあの人、この辺に帰って来るのかね」

「何だ?何の話だ?お前、あの人知ってるのか?」

「なんだよお前、昨日テレビのニュース見てなかったのか?」

「解体ショーの練習で忙しくて、ここ何週間もテレビなんか見てねえよ」

「そうか、じゃあ教えてやるよ。あの人、冤罪事件の被害者だよ。30年前に隣街の魚屋で一家惨殺事件があっただろう。家族全員何かの刃物で滅多差しにされて、父親だけが生き残った。その時に逮捕された父親がさっきの爺さんだ」

「……ああ、ガキの頃にそんな事件があったな。パトカーが山ほどやって来てやたらと煩かった」

「裁判で無期懲役の判決が確定したんだが、本人が無実を訴えていたから支援者団体が再審請求していたんだ。長年の活動が実ってやり直しの裁判をやったら、証拠不十分だったことがわかって、結局無罪になったんだ。今日釈放されたんだな」

「へえ、そうだったんだ。良かったな」

「たぶんこれから記者会見だぜ。お前のこと、話すかもな」

「本当かよ。もしかしたら店の宣伝になるかな」

「不謹慎なこと言うなよ。この辺に住むかも知れないんだから、お客で来た時は優しくしてやりな」

 八百屋はそう言って自分の店に戻っていった。

 魚屋の主人はマグロを店の中に運び込んだ。そこには主人の女房が立っていたが、何やら顔色が悪い。心配した主人が声をかけた。

「どうした、気分でも悪いのか?」

「いやね、店の奥に居たら大きな音と、あんたが何度も謝る声が聞こえたから、何事かと思ってここまで出てきたんだけど、その時に不気味なもんを見ちまったのさ」

「不気味?何を見たんだよ」

「……言ってもいいのかい?」

「一緒になって何十年経つと思ってる?今更遠慮は無しだぜ」

 その言葉を受けて女房はおずおずと話し出した。

「あんたが地面にしゃがんで何かしている間、見慣れない爺さんがあんたの包丁を持って立っていたのよ」

「ああ、俺がヘマして放り出したマグロ包丁を拾ってくれたんだ。マグロも地面に落ちたから俺がそれを台車に乗せている間、そのまま持っていてくれた」

「つまり、しゃがんでいる間、あんたは爺さんを見てなかったんだ……」

「そうだな。見てなかった。それがどうした?」

「あの爺さんさ、包丁見ながら笑っていたよ」

「笑っていた?」

「口から滝みたいによだれ垂らして」

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