殺人聖人

小狸

殺人聖人

 眼を覚ましたら、まだ生きていることに感動した。

「あ――ああ」

 嗚咽のような声が、私の喉から溢れ出た。

 全く――こういう時の為に何人か護衛者を雇ったというのに、無駄になってしまったか。

 明瞭になる視界の先には、一人の男がいた。

 顔を隠してすらいない。

 私が目を覚ましたことを確認して、男は何かを言った。

「おう――眼を覚ましたか。旦那。別にあのまま死んでくれたって、良かったんだけどな」

「ふん」

 一月ぶりに声を出すような感覚があった。濁声になっていたが、気にならない。

 話すたびに後頭部に鈍痛が走った。

「貴様だろう白(しろ)津(つ)目(め)四(よつ)果(が)――関係者一同を皆殺しにしたのは。最後は私か?」

「そうだ、手前だ。クソ社長」

 白津目四果。

 私がさる出版社の代表取締役だった頃、隠蔽した事件の被害者の、唯一の生き残りである。

 幸か不幸か、その一軒における犠牲のお蔭で――我が出版社は大いに躍進した。

「あの家は、確か一家心中と思ったんだがな。貴様が生きていたとは、心外だ」

「たはは、それを言うなら手前もだよ。あの事件以来、俺はお前らに復讐することのみを生き甲斐に生きてきたんだからな。ありがとよ、俺に殺されるために、生きててくれてよ」

 闇の中に葬られたが故に――生き残りにまで手を回す余裕がなかったか。

 失策であった。

「言っておくが、お前の妻はもう殺したぜ」

「ふむ、そうか。妻は何か言っていたか」

「何も」

「ふうん」

「何か思うとこ、ねえのかよ」

「ないな。妻は子を育てるためにそこにいたのだ。既に娘は二人とも成人している。役割は終わった」

「あんた――悲しんだりしないのか」

「悲しみね。殺人犯がそれを説くか? 人を殺しておいて、人の気持ちまで制限しようとは、何とも傲慢なものだな」

「…………」

 丁度、殺害された三人の共通点――数年前の事件に関係しているということに気付いたタイミングで、意識を失ったのである。

 そして――ここだ。

 正直死んだと思っていたが、生かしていたとは。

 その事件――詳細は語らないが、ある小説の模倣を巡るトラブルで――社の命運のために、ある一人の社員に責任を押し付けた。

 その人物は、会社を辞め、後に家に火をつけ一家心中をした。

 全員焼死であった。

 罪悪感は、十三年のうちに消えている。

 そのお蔭で、会社は、躍進を遂げ続けることができた。

 社員など、吐いて捨てる程いる。

 一人死んだところで、どうということはない。

「別に貴様のために生きてきたわけではない。私は、社のために生きてきたのだ」

「だったら――だったら、それをなんで父さんにも言ってやれなかった!」

 男はそう言って、地団駄を踏んだ。

 ここはどうやら、どこかの倉庫か、あるいは地下駐車場だろうか。懐かしくもない。

 コンクリイトで出来た床に、無機質に響く。

「なぜ? それは当たり前のことだからだ。己が知っていることをわざわざ言うものでもないだろう。個は集団のためにある。社のために生き、社のために死ぬ。会社のために命を捧げるなど、当たり前だ。それは人生の長い時間を、その会社で費やすことと何ら変わらない。同じ行為だ。そういう意味では、貴様の父は、十二分に役割を果たしただろう」

「役割って――父さんはお前の道具じゃねえ!」

 そう言って、殺人犯はナイフを投げつけた。コントロールが悪かったので私の耳の近くにぶつかり、隣の柱まで落ちた。

 血だろうか、顔の横が熱い。

 耳を切ったか。

 不思議と痛くはない。

「いや、道具だ。部下のことを私がどう思おうと私の勝手だろう。奴らは好きで私の会社に入り、好きで私の会社で働いているのだ。社会の歯車などと自称しているだろう。貴様等若者は。それを分かっていて、仕事をしているのだろう。好きに生きたいのなら一人で死ねばいいのだ。集団に続するとはそういうことだ」

「違う! だからって死んでいいわけじゃねえだろ」

「死んでいいんだよ、だから。貴様の父のお蔭で――我が社は躍進した。その恩を忘れたことは一度もない。あの時奴が責任を負ったからこそ、今の社がある。死んだのは奴の勝手だろう」

「黙れ! 黙れ! 黙れ、黙れ」

「黙らない。貴様は現実から目を背けているだけだ。個が個など主張するに値しない。属したのなら死ぬまでそうして、死んでもそうするのが大人というものだ。それとも貴様は、奴の死を、そうして復讐の道具にするのか。貴様の父は、本当にそれを望んでいるのか」

「ああ――そうだよ」

 男は涙を流していた。少年のように。

 男児たるもの、涙など見せるべきではないだろうに。

「貴様は何も分かっていないな。世の中がそこまで優しいと思っているのか。ブラック企業が無くならないのはなぜかと、考えたこともないのか。そこに勤務する人間がいるからだろう。ブラックだと思うなら、体調や精神に不調を感じれば辞めればいい、行かなければいい。にも拘わらずそれを選ばない。訴えもしない。面倒なのだよ――誰しも自分が助かりたいなどと思っていないから――限界までギリギリまで頑張り続ける。愚鈍としか言いようがないな。そういう愚かな人間をどう使おうが、私の勝手だろう」

「な、何を――」

 まだ抵抗するか。

 全く、あさましい。

 何がゆとりだ。

 弱音を吐く餓鬼を増やしただけではないか。

 無意味な政策だ。

「父さんはな、死ぬ前に悔いてたよ。あんたを信じてて、言われた通りにして、でも幸せになれなかったって。だから復讐してくれって」

「当然だろう。会社が考えるのは会社のことだ。一個人に関わってなどいられまい。それに幸せだと? ふざけたことを抜かすな小僧。幸せなどそんなもの、働きながらあるわけがなかろう。皆死にたいのを我慢して生きているのだ。辛い中で仕事をして、何かが達成できたとしても幸せになどなれないのだ。だから人は死ぬのだ。別に対して驚くようなことでもないだろう」

「っざけんな!」

 涙をまき散らしながら、男は言う。

 汚い。

「お前の言っていることは詭弁だ! 仕事して、頑張って、汗水たらして、それでようやく手に入れられるものが幸せだろうが! 辛くなきゃ、幸せにはなれないだろうが! 父さんだって――それを信じて」

「貴様こそ詭弁だな」

 落胆を禁じ得ない。最近の餓鬼は頭が悪いらしい。

「仕事をして得られるものは金銭だ。なぜ辛いことをするかと言えばそれは金のためだ。なぜ金が必要かとすればそれは生きるために必要だからだ。だから仕方なく辛いことをしているのだ。そこに幸せなど介在するはずもなかろう。愚かしい。幸せになるのは簡単だ。仕事を退き、義務を捨て、関係を潰し、権利を壊し、人を辞めろ。そうすれば人はすぐに幸せになれる。何も自分を縛らない。皆が知っているはずの答えを何故拒む」

「ッ――」

 効果的のようだった。

「我が社も同じだ。小説を扱う。小説は虚構だ。それを分かっていても、人々は小説を買う。何故かと言えば、人生を幸せな方向へと持っていこうとするからだ。私はその方向づけを行っているに過ぎない。無論娯楽など一過性のものでしかない。読了してしまえば金銭分は幸せになれたとしても、すぐに現実が襲い掛かってくるのだからな」

「――だから人を殺していいのか。人を殺すことも許されるのか」

「何を言う、人殺しは犯罪だ。そして自ら死ぬのは犯罪ではない。死人を逮捕するのか? そんな筈がないだろう。自殺と他殺は違うのだ」

 つい溜息を吐いてしまった。そうか、この程度のことも、この男は言わないと分からないのか。本当に、世の中というものは駄目になってしまった。

「例えば人気のクリエイターがいたとしよう。小説家に限らない。そして一つの物語を創り終える。それが自らの希望の終わりと合致しなかった時、貴様らは何を言う。創作者に対して暴言を吐くだろう。当然のように『死ね』、『殺す』と言うだろう。関係のない他人に向かって、そういう言葉を投げかけるだろう。愚痴専用のアカウントを作り公式に対して返信し続けるだろう。当たり前のように。殺す度胸もない癖に。非難と批評の区別もつかない毒舌家気取りだ。人気だから、有名だから、名作だから、自分にはそうやって作品を批評する権利がある、だとかな。その声で散ったクリエイターを、私は何人も知っている、挙句の果てに、『そんな意見を目にしないようにすればいい』『検索する方が悪い』などと言うのだ。関係ないのだよ結局――作者も編集も目の前にいない。目の前にいない人間ならばいくら殴っても良心は痛まない。ふむ、ネット社会の弊害だな。目の前にいない奴には何を言ってもいい。それが功罪となったこともあるのだろうが――白津目。

「――何だと」

 気圧されたようだった。初めて男が、言葉に詰まった。

。命を灯した。だからこそ我が社は、ここまで大きくなることができた。一生懸命努力し頑張り精一杯やり抜きやり遂げやり進み、鹿。そうして世間の風評を操ったのだ。そのためには犠牲が必要だったのだ。文字通り、命を代価にしているのだからな」

 無論、その過程で犠牲が出たことも、忘れてはいない。

 いちいち感情を揺らしていないというだけで。

「――父にも、そういう風に言えるってのか」

 ここで止まっておけば、この男を鎮静させることもできたろうに、私はそうしない。

 取りうる最悪の選択肢を選ぶ。

 良い、これで良いのだ。

「言えるね。会社を辞めた段階で、奴は会社の人間ではない。その後の人生は奴の問題だ。下らない問題に私を巻き込むな」

「……なんだと?」

「それに、どうやら私の見込み違いだったらしい。貴様の父親は、自らの意志で我が社を辞職したわけではなかったのか。しかも息子を復讐鬼に変えてまで――ふふふ」

「何がおかしい」

「おかしいね。私は評価を覆さなければならないようだ。つい先程、貴様が私を失神させるまで、貴様の父のことは評価していたのだ。しかし、貴様がこうして来たことで変わった。貴様の父はやはり欠陥品だったな。続かないから辞め、生きる気力がないから死んだのだな、勝手に。社のために死ぬことすらできないとは、飛んだ粗悪品を引いたものだ。その程度の覚悟の奴を、面接で見抜けなかった社員にも責任があるな」

「――は」

「そして――子に託すか。復讐を。父も愚かだが子も愚かだな。そんな言葉を素直に受け取らなければいいのに。貴様はそうして自分の人生の輪郭を勝手に狭め、それを私たちの所為にしている。親が欠陥なら子も欠陥か。そろそろ警察も貴様に辿り着くのだろう。まず元通りの生活は送ることができないと覚悟しておけ――これで貴様らの遺伝子が後の世に残らないのなら、世界も平和というものだ」

「……元通りなんて、もう捨ててる。復讐に走ると決めた時点で」

「なんであんた、そこまで言えるんだ。なんでそこまで、できんだよ――」

 男は、少し諦めかけたように言った。

 潮時が近い。

「普通、できねえだろ。金のためか、栄誉のためか」

「違う、世界のためだ。世界のためなら、どんな犠牲をも厭わない。世の中はな、確かに不幸で辛い。しかしだからといって、そのせいで小説を書く才能が埋もれるのが我慢ならない。才能を持った者はそれを発揮する義務がある。そして才能は――その才能を広め評価する人間がいなければただの異常者だ。その役割を担っているのが我々だ」

 そう言う。

 少なくとも人よりも小説は、見てきたつもりだ。

 学生時代は、書痴しょちと呼ばれていた。

 それくらいに、小説に耽溺していた。

「そのために、人が死んでもか」

「そうだ」

「そうか」

 声色が変わった。

 どうやら意を決したらしかった。

 男は投擲とうてきした刃物を拾い、俺の前に立った。

 まあ、こんなところだろう。

 こうしてここで私は、この男の燃え盛る復讐心によって殺されて死ぬ。

 そういう運命を、受け入れてしまっている。

 何故ならば私は、それだけのことをやってきたからだ。

 今でこそ、業界一二を争う小説の出版社として名を馳せてはいるものの――当時はギリギリだった。

 脱法行為も違法行為に何度も手を出した。

 そしてその度に、手足のように部下を、社員を切ってきた。

 そこについての感情は既に捨てている。

「なあ、あんた本当に、父さんに申し訳ないと思ったこと、ないのか」

「ないね」

「そうか」

 同情や涙を流したこともあったが――今となっては既に枯れ果てているのだ。

 そして遺族や家族からの言葉も、握りつぶしてきた。

 共感などしない。私自身、誰も助けてもらえることなどなかったからだ。

 だからこそ――そうして零れ、救われなかった者が、いつか自分を殺害しに来るだろうということは、推測できていた。

 いつ死ぬのだろう。

 いつ殺されるのだろう。

 思ったくらいである。

 次の社長や重役を指名し――社の長としてできることは全てやり、役職を引き渡し、そして彼らは、より躍進し続けている。

 だから、もういいのだ。

 それでいい――こうして殺されるべき人間なのだ、私は。

 幸せになってはいけないのだ。

 それくらい――人の幸福を歪めてきたのだ。社のために。小説のために。それ以外の全てをないがしろにしてきて――いつしかそれが当然になってしまったのだ。

 人は私を、人外だと罵るだろう。

 人でなしと言うだろう。

 嫌悪し敵視するだろう。

 私も最初はそうだった。

 そんな自分は早く死ぬべきだし殺されるべきだと思った。

 しかし――まだ生きていたから、続けたのだ。

 否、それを言い訳にするつもりはない。

 罪悪感よりも、使命感が勝った。

 社のために。

 小説を世に広めるために。

 読んでもらうために。

 全てを犠牲にした。

 進んで悪になった。

 世界や条理に背いて生きてきた。

 集団のため。

 世界のため。

 周りを見れば、既にそれは証明されている。

 我が社の商品が書店に並び、多くの著名な作家が、我が社で執筆を行い、私が社長になった時とは想像もできない程に、大きく膨れ上がっている。

 今更、何でもないこの男が暴いたところで――我が社は破産もせず、破綻もしない。

 もう――やるべきことはやった。

 そしてやってはいけないことも、やった。

 やり過ぎた。

 その報いを、今ここで受けよう。


「はッ、いいじゃねえか。あんたが最後だ。どうせなら、あんたの社の推理小説と同じように、殺してやんよ」


「推理小説、だと?」

「ほら――鶴野閑雲って作家、あいつの初代担当、あんただったんだろ? 調べだぜ」

「つまり――このコンクリイトを殺害現場に選んだのは、そういうことだというのか。あの時のトリックを、そのまま使うためと」

「ああ、勿論。奴のデビュー作をなぞってんだよ。いやあ。便利だねえ。推理小説ってのは殺し方の指南書じゃねえか。それで殺した後で本でも置けば、見立て殺人になるしな」

 その言葉を聞いて、私は、動揺した。

 動揺を禁じ得なかった。

「ああ? なんだよ、今まで何にも反応しなかった癖に、どうした? 殺されるって言われてビビったか? ああん?」

 見当違いもいいところだ。

 死ぬことは当たり前なのだ――社のために負った負債を、返済する。それだけのことだ。怖くも何ともない。

 ただ。

 一つだけ看破できないことがあるとすれば。

「くくくくく――」

 笑って、無理矢理身体を駆動させる。

 奴め、相当痛めつけたらしい。恐らく右腕が折れている。

 笑おうとしても――悪党のような笑みしか零れてこない。

 そしてそれでいい――私は悪のまま、嫌な人間のままでいい。

 私の命などどうでもいい。

 ただ。

 この男がそうやって私を殺すのであれば。

 作家を――才能の道を、邪魔するのなら。

 それだけは、許されない。

 あっては、ならない。

 根絶やしにすべき悪が、死ぬ間際に善を根こそぎにしていく。

 

 立ち上がる――手足が拘束されていても、壁を伝って無理矢理立つことはできる。

 立っていることも厳しい――頭が痛い、どうやらこの男が私を気絶させた際に、どこかが傷ついたか。元より寿命は長くない。

「済まんな。本当は死んでやってもいいと思っていたんだが――どうやら私は、まだここで死ぬわけにはいかないらしい」

「はっ」

 そう言って、蹴り飛ばされた。

 コンクリイトにぶつかる――痛い。痛い。

 しかし、男はナイフを持ち――私も持ち物を全て失っている。

 は、この男に私が、殺されないことだ。

 そうすれば、小説を、我が社を守ることができる。

 周囲には――否、道具は一切ない。逃げる余地を与えながら、じわりと追い詰める。成程鶴野先生の小説をなぞっているらしい。

 声をあげてみる。口の中に血の味が混じる。

「ふん、他人の意志で復讐する貴様らしいな。殺害計画も他人のそれか」

「はっ! 他人がいなきゃ何もできてえあんたに言われたかねえなあ!」

 無意味か。

 鉄パイプで足を殴られた。

 鈍い音がした。折れたか。

 既に状況は終わっている。

 這いずりまわる私を、男は笑いながら、時折パイプを振り下ろしながら追いかける。

 呼吸が辛い。

 殺さない――というより、不必要に生かしている。

 振り向くと男が笑っていた。

 頭部近くにぶつかり、右側の視界が淀んだ。

 そして遂に動けなくなった。

 右腕と、左足が上がらない。

 肋骨が痛い。

 じくじくと暖かいものが溢れているような感覚。

 ああ、無駄だったか。

 今更殺されないなど、都合が良すぎる。

 最近は現代の厳しさばかりを誇張する物語が流行している。

 それで――もう、いいか。

「んじゃ、終わりだな――まあ、どうせ俺は捕まるからな。小説を真似て殺させてもらうぜ。ああ、あんたなんかは、その小説の内容、覚えてねえよな。せいぜい他人に迷惑をかけて死んでやるよ――」

 往年の推理小説のようにまとめるのなら――この男の敗因は、喋り過ぎたことだろう。

 復讐心だとか何だとか言って、謝ってほしかっただけなのだ。

 だから殺さなかった。

 やれやれ、これだから最近の若者は。

 この私に、人間と同じ定規を当てているのは。

 殺人犯? 

 読んできた小説の方が――まだマシだったぞ。

「ッ!!!」

 男は驚いていた――それもそうだろう。

 動けなくなった私が、突然立ち上がって――自分の胸ポケットまで、手を入れてきたのだから。

 動きがなくなったことと、動けないことは同義ではないのだ。

 この程度の誤認識、小説の内ではよくあることだろうに。

「あ――て、てめ」

「鶴野閑雲の小説だろう――バックドラフト現象を用いた死体隠滅トリック、貴様が爆発物を持っていることは知っている――その時の犯人は女性たったからバレなかったが、胸ポケットのふくらみを私が気付かないとでも思ったか」

「て――てめ、俺ごと」

「ああ」

 最後まで余計に喋る男だ。

 まさぐるまでもない。小説の通り、この男のポケットには、小さなものがあった。瓶か。液体か、何か。空気に触れてはいけない――密閉された爆発物。この男がどうやって手に入れたのかは知らないが、鶴野先生の処女作をベースにしているというのなら、爆発物は、必須である。

 手の感覚と、持ちうる全ての握力で、それを握りつぶす。

 最善の方法は、私が生き延びること。恐らくこの殺人犯は、そんな低次元な小説を想像しているのだ。駄目な奴が駄目なまま不幸に生き続けるなどという展開、鶴野先生の小説ではあり得ない。

 だから私は選んだ。

 ――

 それこそ、私の最後に相応しい。

 悪のまま、非道のまま、救われないまま、幸せになれぬまま。

 この世からいなくなることができる。

「人の道を踏み外した者同士、地獄で会おう」

「ッ――」

 その時の殺人犯の顔を、私は見逃した。



さっしん成仁せいじん

 自分の命を犠牲にして、世のため人のために尽くすこと。人道の極致を成就するためには、生命をも顧みないということ。人にとって最も大事な価値のある目的を達成するためには、

 命を賭しても悔いないということ。



(了)

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殺人聖人 小狸 @segen_gen

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