稲荷橋残影

苫澤正樹

 重苦しい減速音とともにその列車がプラット・ホームに滑り込んだのは、ある夏のひるがりのことであった。

稲荷いなりばしです。……はい、ありがとうございました」

 出て来た運転士に切符を見せ運賃箱へ放り込むと、市岡達郎いちおかたつろうはゆっくりと列車を降りる。

「うッ……こりゃたまらん」

 吊掛つりかけどう特有の高らかなモーター音を上げて列車が走り去った瞬間、一気に夏の日差しが降り注いで来た。じめりとした暑さとうるさい蝉の声と相まって、本能的に躰が悲鳴を上げるのが分かる。

 くすんだ木製のラッチと壁に作りつけられた長椅子のある待合室を通り抜け、枯れ果てたような木造駅舎を出ると、達郎は立ち止まってくるりと周囲を見渡した。

「……しゅんすけのやつ、どうしたんだ?時間言ったはずだろ」

 待ち合わせをしていたはずの親友・つぎしゅんすけの姿がないのに、思わず達郎は携帯電話をかけようとしてメッセージが来ているのに気づく。

『急にご祈禱が入ったから行けない、神社まで来てくれ』

 俊輔は地域の総鎮守の跡取りだ。仕事の内容が内容のため、こんなことなぞよくある話である。

「しょうがない、そんなら行くかね」

 達郎は一つ息をついてリュックと旅行かばんをかつぎ直すと、そのまま駅前の橋を渡った。

 この橋が駅名の由来となった「稲荷橋」なのだが、不思議なことに周辺には由来になりそうな稲荷神社はおろか、小さな祠すら一切見当たらない。

 この食い違いについては特に誰も気にしたことがないらしく、少なくとも達郎は何かで語られたという話を聞いたことがなかった。

 それはともかく……。

 稲荷橋を渡ると、そこはまさに炎暑のべる世界であった。

「相変わらず一面田んぼだな……。総鎮守裏の林まで木の一本もないとか、勘弁してくれよ」

 そんな達郎の愚痴に反し、周囲の田は草いきれに似た熱い土と水の香を放ち、足許のひび割れたペーヴメントからも一丁前に熱気が立ち上って来る。

 駅から実家や総鎮守のある村の中心部まで二キロ以上の道のりをこの中で歩かざるを得ないのだから、もはや足取りはふらふら、汗はだくだくと垂れ流しだ。

 ようやくのことで総鎮守裏の林までたどり着くと、達郎はその隅へ逃げ込む。

 いつも夏に帰省するたびに、この場所へもぐり込んで一休みするのが習慣のようになっていた。

 蝉の声がさらにひどくなるのと引き換えにようやく得た日陰で、荷物を下ろし手で顔をあおぐ。

「はあ、生き返る」

 しかしこれでも解決せぬのが、のどの乾きだった。 

 こんな小さな集落では自動販売機なぞあろうはずもないので、スポーツドリンクを一リットルのペットボトルで持って来たのだが、それも尽きかけている。

「……まさか酒呑むわけに行かないしな。それも日本酒とか」

 リュックの中をふと見た達郎は、そこに鎮座している狐巫女の描かれたラベルの四合瓶二本を見ながら、分かっていたと言いたげに苦笑した。

 本来ならこんな重いものを持って来ることもないのだが、俊輔に頼まれていたものの上、何より自分が実家でちびちびとやりたかったのだから仕方ない。

「しかもこれ、貴重だしなあ……。早く通販始まってほしいもんだ」

 そんなことを言いつつ荷物をかつぐが、やはり日差しのきつさに道へ出る勇気が起きぬ。

 しかしこの林の中には参道が設けられていないため、境内へ行くにはさっき来た道を二度も曲がって大きく回り込む必要がある。

 太陽が高すぎる今では余りにきつすぎる道のりで、到着時間をもっと遅くすべきだったかと今になって後悔するばかりだ。

 先が思いやられるとばかりに肩で息をしながら、林の中をふと見た時である。

 少し奥の木立の中に、見慣れぬ細い道が続いているのが見えた。

「ん……?あんなもんあったっけ?」

 不思議そうに言うが、達郎はこの林に子供の頃から入ったことがなく、せいぜいこうして戸場口を休憩所として使う程度だったので、今まで気づかなかったとしてもおかしくはない。

(どうせ躰が落ち着かないと出られないから、ちょっと見てみるか)

 そう思いつつ踏み込んでみると、思ったよりも狭く歩きづらい道だ。しかもどうやら、表の道からは見えない場所へと入って行っているようである。

 逆に何があるのか気になってしまいたどりきってみると、そこにあったのは達郎の背より低い程度の高さの荒れ果てたせきだった。

「随分とまあ奥に祀ったもんだな。何の神社だよ」

 興味を引かれて中腰となり、祠の横を払って何か彫られていないか読もうとする。この手の祠には碑文があることもあるので、あるならちょっと読んでみようと思ったのだ。

 見つかった碑文を指でなぞって読んだ達郎は、何か考えるような素振りをしつつ辺りを見渡すと、

「……そうか、これ稲荷社か」

 ぽつりとそれだけ言って祠に目をやった。

「何だかほっとけないな。せっかく来たんだし、少し掃除でもするかね」

 とりあえず礼儀として二礼二拍手一礼すると、あちこちに張ったくもの巣から取り除いてやる。

 風雨にさらされたせいで深く積もった泥や砂も、出来る限り払ってやった。

 さすがに水は持って来ていないため洗ってやるわけには行かぬが、ちょうど実家で使おうと持って来ていた雑巾を一枚潰して全体を空ぶきしてやる。

「全く、こりゃ誰も管理してないんだな。……本来はそこまで引き受けるのが務めだろうに」

 苦虫を噛み潰したような顔となると、もう一つ拝んで戻ろうとした。

「あ、いや待て……ここに人が来ることもそうなさそうだし、お供えでもしようか。置いておけないから回収しなけりゃいけないが、許してもらえるだろう」

 ふとそんなことを思いつき、リュックからひょいと酒瓶を出して石祠の前に置く。

「……こんながいりゃ、ここまでならなかったろうに」

 そうして姿勢を正し、再び拝み直した時だった。

 にわかに携帯電話が震え、林の中に着信音が鳴り響いたものである。

 あわてて出ると、何と俊輔であった。

『おい、達郎……お前いつになったら来るんだ?列車が遅れてるのか?』

 さすがに遅いと思ったのだろう、半ば心配、半ば不機嫌というような声で問われる。

「あ、いや、すまん!ちょっとくたぶれて休んでたもんだから……!今行くから待ってろ!」

 相手はいろいろ仕事のある身、こればかりは親友でも待たせられぬ。

 達郎はそのまま石祠に背を向けると、一目散に林の外へ向け走り出した。

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