「アンナ」という新しい自分と名前

「そういえばお前、名前はなんていうんだっけ?」

「あっ......」

 森を出発してからしばらくして。談話しつつ歩いていたのだが、その時ふと聞かれたこの質問。

 冷や汗が止まらなくなり、デリバーから視線を徐々にずらしていく。

(ど、どうしよう。なんて言おう......)

 そういえばこの男には、自分の前世について語ったことはない。ああいった込み入った事情は話すと拗れる可能性があり、修正が面倒なので説明していなかったというのもあるが。

 もっとも大きな問題は別にあった。

(ウチの名前、なんていうんだっけ......)

 精神的に追い詰められ、そして徐々にすり減らしながら生きていた一ヶ月間。それが記憶にまで影響したのか、それとも転生したときに記憶が一部飛んでしまったのか。

 原因は分からないが、前世の記憶が所々ぶっ飛んでおり、覚えていることと覚えていないことに極端な差があるのだ。

 そして覚えていないことの中に、自分の名前が含まれてしまっている。

(苗字も思い出せない......。でも犬を飼っていたことは覚えてる.......。なんでこう、ウチの頭はぁああ!)

 ポンコツな頭がさらにポンコツになり、再び自分という存在に嫌悪を感じ、気分が落ち込んでしまった。

「......はぁ」

「ん? どした? なんか嫌なことでも思い出したか?」

 目に見えてわかる落ち込みぶりに、デリバーが眉を寄せて「んんん〜」と唸る。

 そして閃いたのか、ニヤリと笑い、いかにも名案が浮かびましたとばかりの様子だ。無言で視線を向ける。

「なら、こういうのはどうだ? 思い出したくないことがあるんなら、今までの『自分』を捨てて、新しい名前を背負って生きていくってのは」

「おぉ......」

 これは確かに名案だ。誇らしげになるのもわかる。

 でも名前なんてすぐには思いつかない。

 そんな考えもお見通しなのか、デリバーが「任せとけ」と胸を張った。

(でっかい胸板.......)

「そうだなぁ......。よし、五秒で考えてぱっと浮かんだ名前にするぜ!」

「適当めぇ.......」

 まあ名前に思い入れはあろうがなかろうがどっちでも良い。適当に考えてくれた方が助かるってもんだ。

 そうしてしばらく無言で歩いた後。明らかに五秒以上経っているが、突然デリバーが沈黙を破った。

「ウチの家で飼ってた『アンナ』ってメスの狼にそっくりだし、アンナでいいだろ」

「お、狼......。ウチはケモノか何か?」

「出会った時に喉唸らしてたじゃねえか。こう......」

 デリバーが両手にくわっと力を入れ、クマが襲いかかる時のポーズで「グルルぅ......ってな!」と演技する。

「......ふふ」

「あ、笑った!! アンナがそんなに気に入ったか!」

「ちげえよ」

 別に笑いのツボはそこじゃなかったが、妙にツボった笑いが漏れ出し、変に誤解されてしまった。

 ペット扱いされたのは思うところがあるが、気に入らないわけじゃないのでよしとする。

 これからは「ウチ」は「アンナ」だ。

「......アンナ。ウチはアンナだ。よろしく」

「ああ、こちらこそな」

 お互いニッと笑って、ここで初めてまともに握手を交わす。

 アンナ。これが新しい自分だ。


「そんでアンナ。......おーい、アンナちゃぁん?」

「あ、ごめん。まだ慣れてなくて」

 デリバーが「こりゃ時間が必要だな」と呟き、仕方ないと肩をすくめる。


 次の目標となる場所までまる二日はかかるらしい。

 そのため、今晩は野営となり、今はこうして二人で焚き火を囲うように座っている。

 デリバーはアンナよりも焚き火を起こすのが上手く、流石は先輩冒険家と感心した。


「それで話が逸れたが、お前両親とかいんの?」

「ピクッ」とこれまた耳が反応する。さっきと同じで、なんと答えれば良いのかわからないのだ。

 だが先程の会話から学んだ。名前はともかく、両親のことは覚えているので適当に答えれば良いのだ。

「ウチの両親は共働きだ。適当な職について、そんでウチら兄弟を養ってくれてた」

 あんまり話すぎると色々と不可解な点を見抜かれ、面倒な質問をされかねない。

 なので、あえて話す情報は制限しておいた。

 手短な説明を聞いたデリバーは「なるほどなるほど」と真面目なのか適当なのか、相槌を打ちながら温かいスープをよそってくれた。

「ほれ。乾燥した昆布と魚の出汁だ。具材はそこらの適当なやつだが、まあ意外といけるぞ」

「......いただきます」

 未知の緑色スープを恐る恐る、ずずぅと一口いただく。

「......苦くない?」

「そりゃそうだ。栄養重視だからな」

 正直、お店でこんなの出したら「栄養重視です」という言い訳なんて関係なく殴られるレベルだ。

 だが栄養重視なのはデリバー自身の体はもちろん、アンナの体を思ってのことなのだろう。

 先ほどから妙にハラハラした様子で、落ち着きのない視線を送りつけてくるものだからすぐに察した。

「ありがと。気持ちは十分だよ」

「お、おお......。見抜かれてましたかぁ......」

 照れ臭そうに笑い、デリバーも器にスープをよそう。そして一口飲んで「うっへぇ、この味久しぶりだぁ!!」とうっすら涙を流しながら言った。

 そしてお互い飲み干してからしばらくして。デリバーが不安げに尋ねてくる。

「まだ作ろうと思えばいけるが、どうする?」

「......」

 今度の提案の源みなもとは、アンナの体が痩せ細っていることに対する気遣いと不安だろう。

 好意はありがたいが、実はこの体になってからというもの、一回で食べれる飯の量が極端に小さくなってしまった。

 お昼の時は食べようと思えば食べられるが、朝と夜は大体コロッケ一つくらい食べるとすぐに満腹感を感じる。

 これもおそらく「生物兵器」として設計されたがゆえだろう。製作者の意図が目に見えてわかる。

(少ないエネルギーで長時間の活動。ま、どの人工物にも当てはまるよな)

「おーい、アンナー」

「あ、ごめんごめん。いらないよ。さっきのでお腹いっぱい」

「そうか」

 それでもまだ不安なのか、何かを言いかけてグッと言葉を飲み込むデリバー。

 あくまで尊重するのはアンナの意思ということだろう。気遣いの回る大人だ。

「そんじゃ、お前は寝てていいぞ。明日は早い。人・間・寝る子は育つ! ってわけで、見張りは慣れている俺がやる」

 布団を敷いて「ここに寝ろ」と勧めてくる。ありがたいのは確かだが、ここで一つ問題が。それを正直に伝える。

「ウチ、眠れないんだ。たまに眠くなるけど、一時間か三十分くらい寝たらすぐに起きちゃう」

「マジか......」となんとも言えない困った様子のデリバー。アンナの言葉が嘘ではないと分かっているからだろう。

「逆にそっちが寝てていいよ。なんだからね」

 無意識に自分を化け物と認識したままのこの言葉に、デリバーが一瞬ピクリと眉を動かす。気に食わない言い方だったかもしれない。

 しかしアンナに何か言おうにも、アンナの言葉は嘘ではない。合理的に考えて、デリバーが明日に備えて眠るのが最善の策だ。

 だがデリバーは意外なことに、フッと笑うと「馬鹿にすんなよ?」とお調子良く吠えた。

「お前より俺の方が先輩だ。連れを寂しい思いさせるわけにいくかってんだ」

 つまり、なんとしても眠らないつもりだろう。単なる意地っ張りな部分が見えを張っているのが明らかだ。

 それならとアンナも挑発する。

「ウチについて来れるの?」

「舐めんなよおチビちゃん」

 変な勝負が始まってしまったが、まあ悪い感じはしないのでこのままにしておく。

 どうせ眠るのはデリバーが先だ。彼が寝落ちするまで会話に付き合ってやるまで。

「それじゃ、先に寝た方は好きなこと一つ叶える権利ね」

「とんでもない自信だなぁ! 俺が勝っても知らんぞぉ?」

 こうしてお互い、正直デリバーが圧倒的に不利な戦いが始まり。


「やっぱりねぇ」

 翌朝。アンナの横でぐっすりと眠るデリバーを、「ふふん」と勝ち誇った笑みで見下した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る