蜆蝶と鏡

市河はじめ

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9月1日、夏休みは終わり2学期が始まる。

最高気温は32度、歩いただけでうっすらと汗が滲んでくる。夏休みは終わったというのに、夏はまだ去ってくれない。


夏休みを冷房の効いた部屋で過ごした私の体は鉛のように重く、校舎から体育館への移動ですら、牛のようにゆったりと動くことしか出来なかった。

白いブラウスと灰色のプリーツスカートが肌に張り付き、気分が悪い。夏服というのだから、もう少し涼しい素材にはできないものか。そんなことをぼんやりと考えながらスカートが張り付かないように小股で且つゆったりと歩いていた。


「早くした方がいいよ、始業式始まる」


聞き覚えのある声がして、肩をぽんと叩かれた。その声がする方を振り返るより早く、横を風が通っていった。

正面に顔を戻すと紺色のブレザーに紺色のスカートを穿いた後ろ姿がある。

冬服?

この茹だるような暑い中、涼しげな様子で駆け抜けるその後ろ姿に歩幅を変えることなくついていった。


体育館に入ると、今まで館内に留まっていたより暑い空気が体中を包み込んだ。まるでサウナだ。

いつもなら賑やかな体育館も暑さのせいで生徒が元気をなくし、しんと静まりかえっているようだ。


いや、違う。

誰もいないのだ。


これだけゆっくり歩いてきた私が最初のはずはない。それなら、先ほど走っていった生徒はどこにいるのか。

ただ広がるフローリングの床を眺めることしかできずにいると、壇上でゆらりと動くものが見えた。風で舞台幕が揺れたのかと思ったが、違う。壇上から、ぎい、と軋む音がした。

恐る恐る壇上の前まで近づいて行くとその正体が分かった。


人。

それも普段見ているものではない、だらりと垂れ下がった「人」が見えた。

舞台幕の紐と一体化したような体と、冬服のスカートは風に流されるようにゆらゆらと揺れている。


「え」


喉がひゅう、と鳴る。

声も出ない。力なく垂れ下がった体から目を離すことができずに、その場で尻餅をついた。

すると、その力ない体が不意に動き出し、下を向いたまま肩を震わせて笑い出した。咄嗟には何が起きたのか理解できなかったが、じわじわと思考が追いつき理解した。


「なに、ドッキリ?やめてよ。趣味が悪い」


私がその子へ声を掛けたらその子はふっと顔を上げた。相変わらずその子の首には舞台幕の紐が巻き付いている。どういう原理で、彼女はぶら下がっているのか。


「びっくりした?」


上げた顔に驚愕して、また言葉に詰まる。


私が、そこにいた。

しかし、正確には、私と断定できない。

なぜなら頭では私であると理解しているが、目に入っている顔は何故かぼやけており、本当に私とは言い切れないからだ。


その子は、一度ふふっと微笑み、ポケットから折りたたみ式の鏡を取り出し私へ向けた。

そこには目の前の「私」と同じ、ぼやけた顔が映っていた。


「わたしは『私』だよ。お願い、わたしの顔を取り戻して」


そこで、意識が切れた。

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