心臓を二つお持ちではありませんか?

登美川ステファニイ

第一話 愛を探して

 心臓を二つお持ちではありませんか?


 その声にジャンボジェット機に乗っていた人達は何事かと思った。その声を聞いたのは乗客だけではなく、乗員やパイロットも同様だった。機内で何らかのトラブルが生じたときに医療関係者に協力を求めることは実際にあるが、言っている内容がおかしい。

 心臓を二つお持ちではありませんか?

 再び声が聞こえた。何かの聞き違いかと思った人も、周囲の乗客がざわついていることから勘違いではないと知る。乗員たちは顔を見合わせ、乗客たちも何事かと騒ぎ始めた。

 CAのキャシーは操縦室へと状況を確認しに行く。機内放送をかけられるのは操縦室だけだ。パイロットの悪ふざけ? そんな事をするパイロットではないという事は知っている。ロバートはどちらかと言えば堅物で、ユーモアとは遠い男だ。コパイロットのダイアンは人並みにユーモアを持ち合わせているが、ロバートの前で馬鹿なことをするほどの馬鹿ではない。

 だとすれば、何なのだ、この放送は。機が何らかのハッキングでも受けているのだろうか? そんな、スパイ映画みたいなことがあるのか? 政治家や芸能人が乗っているという事も特にはない。訳が分からない。キャシーは苛立ちながら操縦室に入る。

「機長、奇妙な放送が流れて乗客が動揺しています。一体――」


 心臓を二つお持ちの方はいませんか? いないのですか?


 また声が聞こえた。放送……ではない。機内放送のスイッチが切れていることはコンソールを見ればわかる。誰も何も言っていない。登録された電子音声を放送しているのでもなかった。

「どういうことだ? これは……心臓が二つ? どこから聞こえている?」

 機長、ロバートが計器を確認しながら言う。

「ダイアン。機の状態をもう一度確認しろ。特に電子機器を……誰かのいたずらか?」

「電装は……異常はありません。もし放送設備の途中に何かを仕掛けられていたとしても、そこまではここでは分からないでしょう。専門業者でないと」


 皆さんの心臓は一つのようですね。しかし、念のため確認させていただきますね。


 ロバート、ダイアン、キャシーは顔を見合わせた。そして三人とも気付いた。声は、直接頭の中に聞こえている。放送などではない。もっと得体の知れない現象だった。

 不安を掻き立てるように、アラームが鳴った。後方、貨物室のブロックだった。

「何だ?! 気圧の低下……火災が起きている? 何だ! テロか? 一体なんだって言うんだ!」

 ロバートとダイアンは次々と鳴り始める複数のアラートの対処に追われた。後方の貨物室を中心に次々と異常が広がっている。ありとあらゆる機械、設備が機能を停止し始めていた。火災が起きているのに消火設備は機能せず、燃料計や油圧計まで異常な値を示し始めていた。

「消火活動を行います! 機長は放送で乗客を落ち着かせてください!」

 キャシーは返事を待たずに客室に戻る。乗客たちはざわついていたが、まだ後方の異常には気づいていないようだった。今の内に対処しなければ。

「何なの、さっきの放送……? 放送よね? まるで頭に直接響くような」

「グレース、私と来て。貨物室で火事が起きている。消火活動を行うわ。アンジーは客室をお願い」

「えっ、ええ……!」

 原因も状況も不明だが、やることは一つだ。乗客の安全を確保すること。キャシーは笑顔を顔に張り付け、何も問題など起こっていないとでもいう顔で後方、貨物室に向かう。

 ロックされたドアを開けると、そこは暗かった。自動で照明がつくはずだが、つかない。しかし炎も見えない。煙が充満しているのか? 一瞬そう思ったが、そういうわけでもない。単純に照明がつかず暗いだけのようだった。

「キャシー、火事って……もっと後ろ?」

 グレースが不安そうに聞く。手には消火器を抱えていたが、戸惑いながらその先端が揺れ動いていた。向けるべき炎はどこにも見当たらなかった。

「分からない。警報はこのブロックだった。燃えているはず……奥に、行きましょう」

 キャシーは壁に設置されている懐中電灯を手に取りスイッチを入れる。しかし、点かなかった。おかしい。電池切れという事はありえない。飛行ごとの毎回の点検で電池の使用記録も確認されているから、古くなって点かないという事はない。急に電池が切れることも考えられない。

 しかし突発的な異常は常に起きうる。たまたま壊れた。何らかの理由で電池が古くなっていた。その可能性はある。しかし、この奇妙に暗い貨物室内の様子を見ていると、まるで何か、もっと別の、得体の知れないことが起きているかのような気がしてしまう。気持ちの悪い感覚だった。

「あの、心臓を二つお持ちではありませんか?」

 闇の中から声がして、そしてぬっと闇から何かが姿を現した。

「きゃあ! 何……?!」

 グレースは声を上げ隠れるようにキャシーの後ろに駆け寄る。キャシーも驚いていたが、ある種のプロ意識が悲鳴を上げることを拒んでいた。

 そこにいたのは黒い……人形のような何かだった。人の背丈ほどで、その顔、体は黒い。まるで焼け焦げた木材のような質感でその体は構成されていた。煤けた放棄のような髪が肩の下まで垂れ、隙間から覗く顔には赤い目が見えた。腕は六本ある。普通の位置に二本と、背中から上と下に向かって四本が生えている。その手は指が揃えられ、まるで標本の昆虫の脚のような角度で開かれていた。体には粗末な、薄汚れた布を巻いて、それを服にしているようだった。男か、女か。どちらでも無い。それ以前に人間なのか? キャシーは漂う奇妙な臭いに急な吐き気を覚えながら、それでも後ろには下がらず口を開いた。

「あなたは……何なんですか? ここで何をしているんですか」

「王を探しています」

 中性的な、優しい声音だった。その容貌からは想像できない声だったが、確かにその黒い人物が発している声のようだった。

「ヌ・プエクの王、ナジャホダナ、黎明のクティガ、天翔けるニャチモ。他にもいくつかの名前がありますが、それが示すのはただ一人。ツェ・ツェ・ガに他なりません」

「……何ですって? プエ……ツェツェ……ガ?」

「はい、ツェ・ツェ・ガ。しかしここは一体どういう場所なのですか。外を見たら遥か地上の上。しかも恐ろしく速く雲が流れていく。これは幻術なのでしょうか?」

 悪夢から飛び出てきたような奇怪な存在が、幻術かと聞いている。キャシーはなんとも言いようのない気分になってきた。卒倒しそうだった。

 貨物室に密航者がいた。普通は起こりえないが、実際に起こっているのだからしょうがない。しかし、さっきのあの計器の異常は何だったのか。それに、心臓が二つあるかというあの声は?

 声の主はこの黒いお化けだ。しかし、一体どうやって機内全体に声を響かせていたのか。まるでテレパシーでも使ったかのような……。そう思い、キャシーは血の気が引くのを感じた。ひょっとして自分は今、とんでもないものの前に立っているのではないのか? プロ意識により辛うじて冷静さを保っていたが、今すぐ逃げ出したいような恐怖が足元から脳天へと這い上がってくる。生理的嫌悪。この暗い空間。黒いお化けの姿。その全てが嫌悪の対象だった。

「それにしてもたくさんの人がいるんですね。前回の終末でもっと減っているかと思ったのに。繁殖するのはいい事ですが、しかしおかげで王を探すのが大変です。ああ、愛しの君。早くお会いしたい……」

 黒いお化けは二本の腕で自分の体を抱きしめ身をよじる。背中から生えている四本の腕もそれに合わせて動くが、作り物ではなく、本当に背中から生えているのが見えた。

「あなたは、一体何なの?」

 キャシーの後方でガタンと重いものが落ちる音がした。グレースは意識を失い、消火器を取り落としたのだ。心配するよりも、先に楽になりやがってと言う気持ちが強くなった。この得体の知れない化け物と一対一だ。

「あなたは違うと思うんですけど、念のため確認しますね? 失礼」

 黒いお化けは僅かに前かがみになり、背中の四本の腕をキャシーに伸ばした。上の二本がキャシーの肩を掴み、下の二本が胸元に伸びる。そしてその手がカーテンでも開くように胸に当てられ、そしてキャシーの胸の肉は服ごと音もなく左右に開いた。

「きゃあ! な、何なの! やめて!」

 開かれた胸から覗くのは肉と骨の断面、そして内臓だった。貨物室は薄暗く見えなかったが、その中でキャシーの心臓は強く赤い光を放っていた。痛みはない。苦しくもない。だが動けず、そして何故か、叫ぶことが出来なくなっていた。何かが肉体に入りこみ、内側から抑え込まれているかのようだった。

「一つ……一つですね。残念。あなたの肉体は王の器ではない」

 黒いお化けの手がキャシーの胸から離れる。すると、開かれた胸と服は元通りになった。

「ご協力に感謝します。さようなら」

「あ、あなたは一体何なの……?!」

 キャシーは客室の方へ逃げるように下がる。だがおかしい。足が動かない。違う。置いてけぼりになっている。右脚、右半身だけ下がって、左半身は半歩前に残ったままだった。

「あ、あぁ……」

 何が起こったのかキャシーには分からなかった。しかしその体は頭頂から股間までが二つに裂け、湿った重い音と共に床に崩れ落ちた。

「ごめんなさい。綴じるのは苦手なんです。さて……まだ、ひの、ふの……三百十七人いる。地上にはもっと。やれやれ、増えすぎですね。人間。一人ひとり確認しなくては」

 黒い異形、ラガジュ・パンは溜息をついた。しかしすぐに気を取り直し、飛行機の乗客と乗員の心臓の数を確認しに行った。


 同様の事が世界中で起きていた。そしてそれは始まりであり、人の世の終末の訪れでもあった。

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