容疑者は ウソを つかない

来冬 邦子

 緒

「明日から東京に二泊出張になったよ」


「あら急なのね」


 子どもたちは既に自室に引き上げ、夜のリビングには中年の夫婦しかいなかった。


「行くはずだった篠塚しのづかがコロナの濃厚接触者になったんだ」


 大柄な篤志あつしは広い肩をすくめて不本意なポーズを作って見せた。


「つまんないな。明日の晩はわたし一人だわ」


 妻のひとみは小さくため息をついた。


「子どもたちは春休みじゃないのか」


「春休みだからよ」


 ひとみは不満げに頬を膨らました。


響希ひびきは部活の遠征で館山に一泊するっていうし、あきらは友だちの家に泊まりに行くんですって」


「俺がそのうち埋め合わせするよ」


 篤志は妻を抱き寄せた。


(バカな人)


 ひとみは夫の腕をさりげなくすり抜けると目を伏せた。


(男の人って、どうしてこんなにわざとらしいウソをつくんだろう)


「着替えは一泊分でいいのね」


「ああ。だけど自分でやるよ」


「そう? 珍しいこと」


「一泊分なんてたいしたことないさ」


 篤志はいそいそと寝室のある二階に向かった。こんなに早くチャンスが巡って来ようとは。思わず顔がほころんだ。






  妻を殺そうと思ったのは半年前からだった。


 家庭的で夫と子どもを大切にする笑顔の愛らしい妻。その理想的な妻がこんなに邪魔になろうとは我ながら思ってもみなかった。

 河野こうの篤志あつしは四十五歳を目前にして恋をしていた。相手は職場の部下である。化粧が上手で猫のようにしなやかな体つきをしている。初めて関係を持ったのは、半年前の社員旅行の夜だった。すぐにも妻と別れて再婚したかったが、愛人を理由にすれば多額の慰謝料を請求されるだろう。自分で稼いだ金を半分以上奪われるのかと思うと腹が立った。いっそ殺してしまえば一円も損をしない。そう思いついた途端、色褪せていた未来が薔薇色に輝いた。




 「ただいま」 


 翌々日、丸一日留守にした家に声を掛けて、ひとみは玄関扉の鍵を開けた。まだ子どもたちは帰宅していない時間だ。昨夜は結局、自分も友人の家に泊まってしまったのだ。



 ドアを開けた。




 ひとみは大きく目を見開くばかりで声が出ない。ハンドバックが足下に落ちた。




 吹き抜けの玄関ホールで篤志が首を吊っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る