思い出すこと - Remembrance -
眠い
思い出すこと - Remembrance -
その日、Aの口調はいつもと異なっていた。突然かかってきた電話からは、てっきりいつものような世間話が待っているのだと思っていた。しかし違った。電話越しに聞こえてくるのはあまりにも切羽詰まった声である。そして聞かされた内容は、それまでの彼からは想像もつかないような話であった。
Aは私と同い年で、女気のない男であった。しかしどういうわけか、そんな彼がある晩、家出した女を泊めることになった。歳は二つ程下で、痩せた、肌の白い少女であった。当時、我々はまだ二十一前後であったと記憶している。それを踏まえれるならば、向こうは十九くらいであったということになる。女はBと名乗った。
Aは潔癖な男であった。また、それは本人も自認していた。しかし、その潔癖さはいささか行き過ぎというか、奇妙なものであった。後述するように、彼自身は元々決して清らかな人間ではない。にも関わらず、どうしてあれ程までの誠実さにこだわったのか。しかし、それもまた後ほど触れることにしよう。
Bを泊めた夜、Aは何もしなかった。そこまでならわかる。問題はここからだ。そう、彼はそれ以上のことをしたのである。「自分は何をするつもりもない、何の危害も加えない」ということを示すためだったのか。あるいは単に、「お前に興味が無い」と言いたかったのか。どちらにせよ、彼はBから絶えず距離を置いていた。そして一晩中カードゲームを弄っていたのである。当時、Aはポケモンカードにハマっていたのだ。
電話越しにそれを聞いた私の驚きは、ここでは言い表せないほどだ。しかし話はそれで終わらなかった。むしろ、それはここから更に大きくなると言っていい。
Bはその後、Aの家に住み着いた。自分に何もしないことに安心したのか、あるいはだからこそ彼に惹かれたのか。それはわからないが、何にせよ言えることは、Aの電話がかかってきたのは、Bが彼の家に住み始めてから既に一ヶ月近く経ってからのことであった。
元々、親からの仕送りをあてにしていたAは、Bとの生活を始めてから労働をするようになった。コンビニの夜勤バイトである。当時、彼は大学生で、バイトと言えば塾の講師を半年未満つづけた程度であった。彼が働き始めた理由は明瞭であった。しかし、明瞭な理由も子細に語れば複雑になる。一見すれば、これはいかにも美談だと言えるが、実態は違ったのだ。
バイトを始めた彼は「俺のお金が貯まったら、その金で家を借りて出てってくれ」と語った。そして「もしそれが嫌なら、お前はこのまま住んでいいから、俺がここを出ていく 」と。Aには彼女が信じられなかったのである。彼には何故彼女が自分に惹かれるのかがわからなかった。そして、わからないからこそ、自分でも想定のつく答えで埋め合わせをしようとした。彼は女が自分を利用しているのだと信じた。「どうせお前は俺を見下している、都合のいい男だと思っている。今はお前をこの家に住まわせてやるから、俺の金が貯まったら出てってくれ。引越し金は俺が払う。まあ、せいぜいあと一ヶ月、俺との生活に耐えるんだな……」
これで一切の片がつく。そう考えていた。しかし現実は違った。Aの言葉を聞いて、Bは泣きはじめたのである。彼女は言った。どうして自分を突き放すのか、わたしの気持ちがわからないのか、など。そして冷酷に突き放す彼を非難した。彼は動揺し、困惑した。本当にわからなかったのである。彼女が何故泣いているのか。自分の何が間違っていたのか。あるいは理解できたとしても、心からそれに納得することができなかった。
Aは電話越しに語った、「苦しい」と。「俺には彼女の気持ちがわからない、わからないから苦しい……」思えば、これは高校の頃の彼を考えれば想像もつかなかったことである。我々は互いに異なる高校に通っており、中学も同じではなかった。それにも関わらず仲良くなれたのは、不思議と気が合ったからである。知り合ったきっかけは、私の中学の同級生で、Aの通う高校に進学した友人が、彼を私に紹介したからであった。学校が終わると、我々は放課後を共に過した。TSUTAYAに足を運び、その帰りにガストへ寄った。話す内容は決まっていた。映画か、いじめの話である。Aは高校で同学年の生徒をいじめていたのだ。私自身は、別に自分の学校でそのような立場にいたわけではないが、しかし彼の話を聞いて笑っていた。時には学校で撮った「動画」を見せてくれることもあった。人に悪さを働く際、彼は他のいかなるときより楽しそうな顔をしていた。誰かの気持ちを踏みにじるのが気持ちよくて仕方ないらしかった。
時々、何故Aがこんな性格になってしまったのかを考えた。安直すぎるかもしれないが、彼の実家に寄った際、その理由を憶測せざるを得なかった。同じく高校生の頃である。その日は「観せたいDVDがある」とのことで、初めて彼の実家に寄った。私が家に上がると、彼はある椅子を用意した。背もたれがなく、座る部分に新聞紙がべったり貼りつけられたもので、補強のためにガムテープがぐるぐる巻きにされていた。彼はそれを「来客用の椅子」として差し出した。「外から来た人はこれに座らないと、母親が怒る」との事だった。Aの母は極端な潔癖症で、「外のもの」をすべて不潔だと考えているらしかった。幼少の頃、Aが手を洗わずに家に帰ると 、冬の寒空の下を日が暮れるまで立たされた。理由はAが「汚い」からで、 「 反省」のためであった。父親については、その無神経だが懐の広い性格を尊敬しているらしく、時折殴られることを除いて「関係は良好」とのことだった。
母親の影響なのかはわからないが、Aは女嫌いだった。彼にとって、Bとの関係は驚きの連続であった。実際、彼にはわからなかったのである。何故彼女が自分に惹かれたのか、何故自分が選ばれたのか。否、たとえ理解できたとしても、その事実に目を向けることができなかった。認めてしまえば、自分の内にある何かが壊れてしまうから。結果として「あの女が寄ってきたのは金のためだ」という結論を下した。そして本人の前でそれを口にした。邪険に扱い、早く出ていって欲しいふりをした。無論、本当に出ていったらまた苦しくなるに違いない。しかし、そう信じ込んでいた。そして彼の冷たい態度に対して、Bが泣くのは考えなくてもわかる話であった。しかし、彼にはそれがどうしてもわからなかったのである。あるいは、どうしても認めることができなかったのだ。
また、Aは嫉妬深かった。もし相手が異性として自分を選んだのなら、相手が他の男のために自分を捨てる可能性もある。自分の家に来る前に、既に彼女が何度か別の男の家に泊まったことがあることを知っていた。彼女自身はその際「何も無かった」と言っているが、本当はどうかわからない。それに、何故その男ではなく自分なのか。その男が選ばれなかった理由は何なのか。もし本当に彼女が俺を選んだとしても、何故あの女は俺を捨てないのか。これらの疑問に対して、「金」が一番理解の容易い答えを与えてくれる。そうだ、あの女は俺の金が目当てなのだ。今は家出中で、帰る場所もなければ金もない。それで俺をあてにしているのだ。言い換えるならば、金があればあの女を引き止められるし、追い出すこともできるんだ。そして、もし俺が一歩引いた態度をとれば、あれは俺を捨てることも出来ないし(何故なら俺の心はそもそもあの女の所有物じゃないからだ!)、俺も尊厳を傷つけられないまま、笑い話としてこの体験を昇華することができるんだ。
しかし、現実は彼の空想と異なっていた。涙に濡れる女を前にして、「わからない」という感情と同時に「この女は俺を愛しているのかもしれない」という想いが芽生え始めた。そもそも、バイトもしない大学生に金銭目的で近づくわけがない。余程実家が太くなければありえない話だ。自分では気づいていなかったが、彼は極端なまでに人間不信であった。親友とも言えた私にさえそうであり、ヒステリックな虚栄心の持ち主であった。友人との関係が良好に保てるのは、友情が決して越えられない一線を規定してくれるからである。しかし恋愛においては話が異なる。我々はむしろ一線を超えることを強いられる。その際、距離を置くことで暴かれずに済んだ自らの醜い側面に光が当てられることとなるだろう。
結局、BはAの家に住み続けることになった。一体何度、彼は繰り返しただろう。何度彼女を泣かせ、何度私に「苦しい」と電話を入れたことか。彼は言った。「俺は別に幸せなど求めていない。本当はあの女と一緒にいてもいなくても、どっちでもいいんだ。ただ、この苦しみを取り除いて欲しいんだ。わかるか?俺は苦しいんだ。これじゃあ何にも手が付かない。何をしても気分が晴れない。でも、こんなはずじゃない。本心を言えば、俺はもっと平穏に暮らしたいんだ……」しかし、もし実際に相手が去ろうとすれば、嫉妬に駆られていても立ってもいられなかったろう。
声を荒らげて苦痛を訴える様は狂人のそれであった。事実、彼は病気だった。もしかするとずっと前から病んでいたのかもしれない。しかし、それに気づかないまま今日まで過ごしてしまった。否、もしかすると今なお気づかないままでいるのかもしれない。彼は女嫌いだった。それは、彼にとって女が感情的で、理性のないものに見えたからだ (恐らくは母親の影響である)。しかし、今や彼自身がじぶんの嫌う「女」のように嫉妬に狂い、猜疑に悩まされ、ヒステリックに喚き散らしている。恋人の愛情を信じることができず、あらぬ嫌疑をかけては絶えず相手を困らせるのである。
もしかすると、相手の涙が彼にとって唯一の慰めだったのかもしれない。泣いているBの姿を見れば、少なくとも自分に何らかの感情を抱いていることが確認できる。喧嘩 (あるいは一方的なこじつけ) の後に待っているのは、お決まりの「仲直り」だ。けれど幸せな時間も束の間である。向こうが呑気な顔をして過ごしていれば、また余計な嫌疑が頭を過ぎる。あの女は俺を都合よく利用しているだけなのではないか、俺は浮気されてるのではないか、本当は愛していないのではないか……。そうなれば再び相手を詰問せずにはいられない。お前は嘘をついているんだ、本当は俺を騙してるんだ、俺の前ではいい顔をしてるが、裏では俺を馬鹿にしてるんだ……。一つの疑惑が消えれば、また別の疑惑が浮かんでくる。そして再び「苦しい」という声が漏れる。けれども、相手が苦しむ様を見れば安心できる。去ろうとする俺を見て泣くということは、少なくともあいつが俺を愛している証拠であり、よってどれもこれも俺の勘違いなのかもしれないということになる。彼が彼女を詰問したのは、安心するためでもあったのだ。
これはまるでプルーストのような話だ。アルベルチーヌを監禁する語り手や、オデットに監視をつけるスワンのように、彼はBを縛り付けていた。それは精神的な面だけでなく、実際的な生活の面でもそうだった。働いていないBは、金銭面でAに依存するより他ない。仕送りに加えて週四の夜勤がある彼にとって、同居人が必要最低限とするものを揃えるくらいは可能であった。そして、恐らくそれが彼の安心の種だったに違いない。少なくとも向こうが働いていない間は、自立することもできず、俺に頼って生きるしかない。そうなれば下手な外出もできないし、あれが好き勝手に生活することで不安に苛まれることもないわけだ。
元々女性一般を軽蔑していたため、Aは他の女性には一切見向きもしなかった(そもそも話す機会もなかった)。大学の同級生の大半にも心を開かず、話し相手と言えば、旧い付き合いでまだ東京に残っている私と、その他ニ、三の人間しかいなかった 。決して友達がいないわけではなかった。ただ生来の疑り深さと陰険さが、周囲の人間に一定の距離を置くよう仕向けていたのかもしれない。また、Aは嘘を嫌っていた。あるいはBと出会って以来、嘘を恐ろしく嫌うようになった。私は不思議だった。あれほど人を馬鹿にしてきた男から、どうしてこれほど一途な感情が湧き上がってきたのか。普段から人を見下し、こけにしている者は、いざ弱みを見せる番になると、その分かつて自分がしたよう馬鹿にされるのではないかと恐れる。それが彼をいっそう嫉妬深くしたのは事実かもしれない。なるほど、見えないところで馬鹿にされていると考えるだけで気が滅入る。きっと俺のいない所で、俺の滑稽な言動を笑いの種にしてるんだ、あいつは俺を馬鹿にしてるんだ、表ではいい顔をしているが、実際は俺を利用してるんだ、そうに違いない……。
それから彼らはどうなったのか?実を言うと、私もそれは知らないのである。もう三年近く前の話になる。色々と記憶違いや脚色があるかもしれないが、あの奇妙なカップルのことは今でも思い出す。あれから二人はどうしているのだろう?別れたのか、それとも今なお変わらずに過ごしているのか?ただ一つ言えることは、もう二度と事の顛末を知ることはないということだ。既に我々の縁は切れてしまっている。
"認知されるアルベルチーヌについてプルーストは語った。アルベルチーヌは浜辺と砕け散る波を包み込み表現する、と。「彼女が私を見たなら、何を彼女に対して表せただろう。いかなる世界の奥底から、彼女は私を見分けたのか?」愛も嫉妬も、アルベルチーヌと呼ばれる可能世界を展開し広げる試みであろう。"
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