ボール

眠い

ボール


 木の葉が舞う。枯れて黄ばんだ葉は、否定の身振りでふらふらと宙を舞う。他の葉と同様、それは音もなく落ちる。公園を見渡せば、一面が枯葉で満たされていた。斜陽が差し、冷たい空気が騒音を拭う。午後四時を過ぎた今、一切が物憂げに染まろうとしている。


 トン、トン。少年が一人、ボールを蹴っていた。「とお」とか「やあ」とか言いながら、右脚を挙げたり、左脚を横に振ったりした。その様は、何処となく彼の頭上を舞う葉に似ていた。ボールは壁にぶつかり、反発し、身を翻した。サク、サク。二者の落ち葉を踏む音がする。黄昏の訪れを目前にし、公園には最早、彼らの音しか響いていなかった。


 突然、声が聞こえた。振り向くと、そこには少年よりやや背の高い、別の子供がいた。子供は言った。


「お前、いつもボール蹴ってるよな」


「うん」


「どれ、ちょっと俺にかしてみな」


 少年は子供の方へとボールを蹴った。子供はそれを受け止めた。そして、再び少年の足元に収まるよう、それを返した。少年は再び子供へ蹴った。子供もまたそれを返した。二人のラリーはしばし続いた。次第に、彼らのやり取りは速くなっていった。


 やがて、子供がミスった。「あ、わりい」という声がした。パスが変な方向に飛んだのだ。少年は走ってそれを追いかけた。そして、思い切りよく子供に打ち返した。「うわあ」という声。少年は「へへ」と笑った。


 再びラリーが始まった。度々、どちらかがミスをして、ラリーが中断されることがあった。その度、片方はやっちまったという顔をし、もう片方はしょーがないなという顔をした。あるいは、軽くやれやれといった感じで首を振った。しかしどちらも、悪い気はしなかった。口元は微かに緩んでいた。ろくな会話もしなかったのに、かけあう声も、徐々に大きくなっていた。


 ラリーの最中、片方がもう片方に言った。


「お前、サッカー好きなの?」


「いや、特には」


「え、そうなの」


「うん」


「でも、毎日ここでボール蹴ってるだろ」


「ああ、そうだね」


「なんで好きでもないのに、ボール蹴ってるんだよ」


「だって、他にやることないし」


「え」


「まあ、家にいても、暇だしなあ」


「まあ、そうだよなあ」


 片方の出したパスを、もう片方が受け止める。そして、それが返ってくるのを待つ。しかし、いつまでも足もとを見つめたままで、子供はボールを返さない。少年は待った。しかし、十秒が限界だった。「なあ、おい」という声を出した。


「え?」


「パス、まだかよ」


「ああ、悪いな」


 ラリー、再び。それと同時に、子供がまた話を始めた。


「サッカーってさ、十一人でやるらしいぜ。知ってた?」


「いや、知らなかった。九人だと思ってた」


「ばか、お前、それは野球だよ」


「へえ」


「俺とお前でやるにしても、あと九人足りないな」


「確かに」


 少年にパスが回る。しかし、彼はそれを返さなかった。代わりに、ただじっと子供の方を見つめていた。「どうしたんだ」と、今度は子供が言った。彼はそれに応えなかった。少しの静寂を楽しんでいるかのようにも見えていた。彼は笑っていた。しかしボールを蹴るまで、無言のままだった。


「なあ」


 足もとを動かすと同時に、少年が言った。


「なんだ」


 子供がそれを受け止めると同時に、返した。


「俺、初めてひととボール蹴ったんだ」


「そうか」


「うん」


 静寂、再び。既に燃えるような黄金が現れて、それが一日の終わりを告げていた。時刻は十七時であった。冷気は益々外界を排して、二人がボールを蹴る音と、それに呼応する落ち葉の響きだけが耳に届いた。


 やがて、どちらかが口を開いた。


「多分、このままでも、それなりに楽しい気がするなあ」


「確かに」


「だよねえ」


「まあ、うん」


 後になって思い返せど、二人とも、どちらがどちらの言葉を口にしたのか、覚えていなかった。ただそれが残した印象だけが、二人の頭に残り続けた。


 ふと、頭上を見上げた。そして二人は言った。


「夕暮れ、綺麗だなあ」


 空が燃えていた。黄金は薔薇色に変わり、この世界を焼き尽くしていた。焔は今にも落ちてきそうであった。しかし落ちなかった。不思議なことに、お互い無事でいた。何処からか、鳥の声が聞こえた。一陣の風が吹き、公園が揺れ動いた。木々は束の間の眠りから覚め、落葉をまた滴らせた。ボールが枯れ葉の上を転がった。かすかに、サラサラとした音が聞こえた。あるいはカサカサだったかもしれない。黄ばんだ葉が赤色に照らされ、影が落ち、のびていた。二人の影は、まるで見知らぬ監視人のように大きく現れ、寒さに震える二人の姿を見つめていた。間もなく夜が訪れるところであった。薔薇色が立ち去り、夕暮れが二人の見張りをしなくなるまで、最早わずかな時間しか残されていなかった。


「そろそろ帰らなきゃいけないな」


 どちらかがそう言った。


「そうだな、もう帰る時間だな」


 どちらかがそれに返した。


「でも」


 ためらいがちな声が、静まりの後に響いた。もはやボールは枯葉の上を動かなかった。ただ、冷たい風に木々は未だ揺れ動いていた。もしかすると、公園の時間は静止しているのかもしれなかった。


「まだ、帰りたくないよなあ」


「やっぱりそうだよね、そうだよね!」


 明るく、嬉しそうな声が響いた。


「遊んでいたな、まだ」


 再び、ラリーが始まった。頭上は紫に染まり、その奥から天体の輝きが覗いていた。しかし、その輝きはあまりにも遠く、顔を合わせることができなかった。


「ずっとこのままでいれたら、きっと楽しいのになあ」


「確かに、そうだねえ」


 二人はいつまでもボールを蹴っていた。お父さんとお母さんに叱られることも忘れて、いつまでも、いつまでも、時の止まった枯葉の上で遊んでいた。






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