第34話

「ねえ、ヒューベルト様。貴方はまだ、約束を果たされていないのではなくて?」


 どのような約束になっているか、もう少し詳しく知りたいです。外せば怪しまれかねませんが、さも知っていることであるかのように踏み込みます。


「自分より上の人間を引き摺り下ろしたところで、お前が上に昇れるわけではないぞ」

「そのようなことは初めから求めてなどおりません。わたくしがどなたの婚約者かお忘れ?」


 名誉も名声も許されないのが、わたくしとトレス様の立場ですもの。


「わたくしはただ、秩序の話をしているだけです」

「――……」

「でなければ、わたくし、待ちきれなくなりそう。改めてお父様にお願いした方がよろしいかしら?」

「やってみろ。だがそのときには、ヴェイツの力の全てを以って、貴様らを殺す……!」


 ……己の命を脅されたのは、生まれて初めてです。

 わたくしを睨むヒューベルト先生の瞳は、これまでただ侮蔑していた冷ややかなものとは、明らかに温度が変わりました。

 本気の怒りと、憎しみ。

 これが、殺意というべきものなのでしょう。


 胸が苦しい。怖い。けれど、怯えてはいけません。

 わたくしは悪役令嬢です。そんな悪あがきなど無意味だと、笑い飛ばさなくては。御しやすいなどと思われたら、すべてが台無しです。


 ――大丈夫。わたくしはできる。


 だってわたくしにはできると、皆が認めてこの方法を採ったのです。

 応えたい。その先にあるものを掴むために。


「そのような物騒なこと、仰らないで? たかが平民の話でしてよ」


 お母様。感謝します。わたくしの表情筋は務めを果たしてくれています。

 今、理解しました。

 貴族の微笑みは、敵意に備えた鎧なのですね。道理で冷たいはずです。


「……」

「平民の話で終わらせればよろしいわ。お分かりいただけますわよね?」


 ヒューベルト先生は、間違いなく一度、そちらを選択しました。だから、彼の答えは決まっているのです。


「お前は、クラウセッド侯爵によく似ている。さぞ、侯爵も鼻が高いだろう」

「光栄ですわ。それで、お返事は?」

「……要望に応えられるよう、努力しよう」

「結構。次は、結果を出してくださいましね?」


 ごめんなさい。出ないのですけど。エスト嬢がヒューベルト先生の忠告に従うことはありません。だって、わたくしたちの標的、貴方ですもの。

 エスト嬢は諦めないでしょう。諦めたその瞬間に、クルスさんの人生が取り戻せなくなってしまうのですから。


「では、失礼いたします。ごきげんよう、ヒューベルト先生」


 要求を伝え終え、わたくしは会議室を後にします。

 そして部屋から出たその途端、がくりと膝が力を失いました。


「っ!」

「っと」


 強かに床に落ちることを覚悟しましたが、その前に差し伸べられた腕に支えられ、事なきを得ます。


「……トレス様」

「よく頑張ったな。とりあえず、ここを離れよう」

「はい」


 要件の終わったヒューベルト先生もすぐに会議室から出るでしょうから、こんな所でへたり込んでいたら台無しです。

 小声でそう言葉を交わした直後、わたくしの足は床から離れていました。


「!?」

「騒ぐなよ。あと、ちゃんと掴まれ」

「……!」


 顔が、顔が近いです、トレス様。

 しかし抱え上げられた体はどうにも心許なくて、言われた通り、トレス様の首に手を回して安定を求めます。


 エスト嬢、わたくし今、あのときの貴女の気持ちがよく分かりました。

 これは、恥ずかしい……!

 使用頻度の低い部屋の辺りという所は、幸いでした。他の方の目に触れることなく、階段の踊り場まで来られましたわ。

 上は図書館ですから、この先は人が確実にいるでしょうけれど。


「悪い。医務室まではちょっと無理だ」

「いいえ、いいえ! こちらで結構ですわ!」


 そんな、棟を跨いでなどとんでもない!


「そうか? だがまあ、次は降ろしてと言われる前に音を上げなくていいぐらいになれるようには努力しようか」

「ご、ご安心ください。次はございませんわ」


 少しばかり言い合いをして殺気を向けられたぐらいで足が立たなくなるようでは、クラウセッドの娘として恥ずかしいばかりです。猛省します。

 階段の一番下に腰を降ろすと、トレス様も横に並びました。ここならばヒューベルト先生が教務棟に戻られるときに鉢合わせすることはないはずです。

 トレス様が医務室を選ばなかったのも、おそらく教務棟を避けるためだったかと。


「さて。いい具合にシナリオは進んでるか。ロアの説得が無理なら、次はファディアに行くだろう」

「ヒューベルト先生は、エスト嬢のクルスさんを助けたい気持ちに応えてくれるでしょうか」


 共感はしていただけると思います。けれどそれは己の身を、そして周囲の大切な人々を危うくする行い。共感だけで動くには、あまりに重い。


「ゲームであれば、好感度パラメータ次第。だが現実だから……。まあ友好度は重要だが、あとはファディアとアスティリテに期待、だな」

「ゲーム……? は、していませんわよね?」

「ああ、していない」


 ? ?


 些か不可解ではありますが……。気にしないことにいたしましょう。していない、と仰っているのですし。


「そうだ、ロア。これ」

「はい?」


 何気なく渡された物を受け取って、思わず、まじまじと見つめてしまいました。

 聖伝の挿絵や聖堂の壁画、彫刻にあるものよりも大分――いえ失礼、ほんの少しふっくらしていますが、これは。


「海竜、ですか?」


 美しく彩色された、つぶらな瞳が可愛らしい、木彫りの海竜です。サイズはわたくしの手の平に納まってしまうぐらい。


「ちょっとマスコット的にしてみた。雄々しい海竜とか、ロアは持っておきにくいかもなと」

「――ありがとうございます」


 トレス様からの贈り物であれば、部屋に飾っても、お父様もお母様も何も仰らないでしょう。けれどお二人はきっと、淑女の部屋に雄々しい置物があるのを喜びません。


 そこまで、気を遣っていただけたのですね。


「御守り代わりにでも、普段から持ち歩いてくれると嬉しいんだが」

「ですが普段から持ち歩いていては、傷付けてしまいますわ」


 せっかく頂いたのに。勿体ないです。


「それでいいんだよ、御守りなんだから。そいつが傷付いたなら、それはその分ロアを守ってくれたってことだ」

「まあ……。そのような高度な魔法まで?」


 身代わりの魔法は存在しますが、使い手が限られる貴重なものです。

 トレス様の身分であれば使い手を招くことも可能でしょうが、そこまで手を掛けてくださるとは。


「あー……。悪い。こっちには本物があったの忘れてた……。まあ、身代わりじゃあないが多少、ロアの身を守るための魔法は掛けてある。だから持ち歩いてくれ」

「承知いたしました」


 少々気まずそうに、トレス様は訂正なさいました。

 ですがだからといって、この海竜の価値は変わりません。トレス様がどのようなお気持ちで贈ってくださったかには、何も変わりないのですもの。

 護身具でもあるのならば、仰る通り、持ち歩いていた方がよいのでしょう。


 ……けれど。こんなに愛らしいのに。

 できる限り傷付けないで済む方法を、考えることにいたしましょう。


「大切にいたします」

「ん。よろしくな」


 わたくしの不死鳥の刺繍は、まだ未完成です。

 護身のために魔法をかけるという発想がなかったので、幸いだったと言えるかもしれません。

 わたくしも、何かしらお役に立つ魔法を付与した方がよろしいでしょうか。

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