第75話
温泉から上がって、夕涼みに庭を散策する。風が運ぶ自然の薫りは、魔神の呪力だろうが聖神の呪力だろうが変わりなく香しい。豊かな生命の気配が心を穏やかにしてくれる。
もっともそう感じられるのは、エルデュミオが魔力に適応しつつある証だ。
(存外、その方が生きやすいかもしれない)
魔物も単純な敵ではなくなるのだろう。決して悪いばかりではないはずだ。
(というより、本来はそちらの方が自然なんだ。レア・クレネアで人間が聖神に偏っているのは、意図的にそう導かれただけなのだから)
だがそうと知った後でも、まま否定しようとまでは思わない。少なくとも人にとっては悪い世界ではなかった。
魔物はもの凄く生き辛かっただろうが。
「……生き辛い世界は、御免だよな」
「同意するですけど、どうしたですか、しみじみと」
「!」
独り言に答えが返って来て、エルデュミオは反射で驚きかけた体を抑えつつ、何事もなかったかのように振り向く。
リーゼにエルデュミオを驚かそうという意思はなかった。気配ももちろん隠していない。ただエルデュミオの方で注意が疎かになっていただけだ。
「辛いんです?」
「僕の話じゃない」
「では?」
「……ルーヴェンの話だ」
少し迷ってから、エルデュミオは誤魔化した。
リーゼは純粋に、聖神の奇跡によって世界は救われたと信じている。敬虔ではなくとも、信仰心は持っているだろう。
そんな彼女に魔物の棲み辛さなどを説けるはずもない。
「……というかお前、髪が乾ききってないぞ。手入れぐらい怠るな」
「そのうち乾きますよ。外ですし。風もありますし」
「ふざけたことを言うな。その間にも傷んでいくだろうが。――座れ」
そんな短時間で乾ききるほど、リーゼの髪は一部短くなかった。
自身の隣を示すエルデュミオに、リーゼは呆れた顔をしつつも言われた通りに腰を降ろす。
風と火の呪紋を複合させて温度調節をした風を生みつつ、手櫛でリーゼの髪を乾かしていく。今、物凄く櫛が欲しい。
「わたしも全然気にしないわけではないですけど、駄目になっても大したことなくないですか? それで人生が終わるわけでもなし」
「美は価値の一つだ。己の価値は、いくら高めても損などない」
「まあ、そうですけど」
無くてはならないものではない。だが無いよりある方がいい。そう言った類のものだ。
「髪の美しさを認められて、使用人から侍女になった娘の話がある。逆の話もな」
「恐ろしい世界ですね……」
「……。お前の生活圏内では、無縁な話か」
「ですねえ。美醜よりも能力、信用重視です」
「そうか」
息をつき、エルデュミオはほぼ乾いたリーゼの髪を解放する。
「それでお前が必要ないというなら、強要する方が奇妙な話だな」
「ですね。……でも、ありがとうございます」
礼を言ったリーゼは、少し寂しそうに自身の髪を撫でた。
髪の毛一つの話ですら感じる、立ち位置と認識の違いを痛感するように。
「そうやって価値を高めて、より条件の良い女性と結婚するんですね」
「ああ」
「大丈夫です?」
「さあな。やってみないと分からない。だが僕は自分がそういう結婚をすると分かっていたし、そのつもりで生きてきた。そして嫌ですなどという身勝手は許されない」
なぜなら国の役に立つために大貴族として国に優遇され、その恩恵を享受してきているからだ。
「身勝手が服着て歩いているような貴族が言うと、変な感じですね」
「勿論、妥協はしないけどな。相手は選ぶ。僕にはそれだけの価値が充分ある」
選択肢の幅は狭いが、広い。恵まれている方だと、エルデュミオも分かっていた。
「……良い人が見付かると、いいですね」
リーゼが紡いだ言葉は、話の流れを考えても自然だ。適当な相槌ではなく、彼女が本心からそう思っているのも感じ取れた。
だがなぜか、その言葉を受け取るのに抵抗を感じる。
言ったリーゼの方も、エルデュミオが返す反応を避けるかのように振り向かない。
「……そうだな」
それでも結局、エルデュミオの答えは肯定だった。
周囲の自然音が、異様に大きく聞こえる気がする。己の息遣いさえ鬱陶しい。
リーゼも同様に感じたのかもしれない。重さを振り払うように、あえて声を上げる。
「それで、ルーヴェン殿下――。あ、もう殿下じゃないです? の、こととか、急に気にするとかどうしたです?」
「身分は変わっていないから殿下でいい。そしてお前は相変わらず無礼だな」
「事実ですよ」
「……否定はしないが」
やり直しが始まる前からも、ルーヴェンによって起こる諸々については考えていた。だが彼自身に対しては実に無関心だった。
今はその自覚がある。
「しないですか」
「ああ」
エルデュミオの答えは、罪悪感があるからこそのもの。
そしてその感情に気付かない程、リーゼは鈍くない。彼女の肩に力が入ったのが分かった。
「自分を、あまり責めないでくださいね。ルティアもそうでしたが、多分貴方も、自分のことで精一杯だったのですよ」
「僕自身も、あいつに向かって口にしたしな。『起こり得なかった過去の可能性を模索するのは無駄』と」
後からもっとできることがあったのではと悔やんでも、もう取り戻せない。
(だからこそ、出来る限り、思い付く限りの日々を送らなくてはならない)
妥協をしないのは、未来の自分のため。
「そして僕は、奴らがストラフォードでやったことを許さない。理由など関係ないんだ。国の要職にある者が、国に、民に害のための害を与えるなどあってはならない」
「はい」
「たとえ僕の、自身の怠慢で止められるときに止めなかった結果だったとしてもだ」
己の咎に蓋をして、起こった事象の責任だけを声高に叫ぶことになるだろう。どれだけ良心が泣こうとも。
「思いきり叫ぶのでも泣くのでも付き合いますから。一人で抱えるのが辛くなったら、わたしを呼ぶといいですよ」
リーゼがエルデュミオにそれを許すのは分かっていた。だからこそ唇を吊り上げて、笑う。意地でもだ。
「平民ごときに心配されるほど、落ちぶれていない」
「――……ですね」
逃げてもいい。けれど耐え抜くことも信じている。
リーゼの言葉に、エルデュミオは自身の心に多少の余裕が戻って来たのを感じた。
「……もう、風が冷たくなってきた。戻った方がいい」
「貴方は?」
「あと少し、涼んでから戻る」
リーゼと距離を取るためだけに。
「……ですか。分かりました。風邪を引かないうちに戻るですよ」
「ああ」
「では」
背中を向けたまま挨拶をして、リーゼは宿の建物へと向かって歩き出す。エルデュミオもその背を最後まで見送ることはせず、視線を澄んだ空へと向けた。
「良い相手、か」
これまで結婚相手について想像したことはない。時勢によって必要となった相手が妻になるだけだからだ。
だが今は、理想に形ができてしまった気がする。
「望むべくもない」
それは忘れて、無かったことにするべき想いだ。
代わりを求めて愛したいと考える程、エルデュミオは酔狂ではなかったから。
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