懺悔

真田 侑子

本文


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 私は青色が好きです。

 赤色は、どちらかというと嫌いです。

 いつでも気分を落ち着かせてくれるのは青色の方で、赤色というのは視界に入るだけで、変に気分を高揚させて、心の奥底の方に眠っている怒りのようなものを起こしてしまうのです。

 思い出したくもない怒りを、この色を見るだけで揺さぶられてしまうのです。

 迷惑なのです。苦手なのです。

 ――目に入れると、痛い。

 余計な感情や思い出は、殺してしまいたい。

 私は、赤色が嫌いです。


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 私、田頭月乃は、中学三年生のころから祖父母のもとに身を寄せて、貧乏暮らしをしていました。

 訳あって両親にはお金を出してもらえなかったので、高校生のときから奨学金を借りて、学校に通っていました。

 勉学の成績がよかったことと、生まれつき絵を描くことが得意だったこともあり、部活の顧問でもある美術教師に勧められ、田舎を出て、東京の芸術大学に通うことにしました。将来は画家になりたい、などという、輪郭のない人生設計をしていた当時の私は、頭がお花畑だったのだと思います。

 普通は、高校生というものは、大学に進学するか就職するか、またその後はどうなりたいのかと、将来を真剣に考え出すものらしいのですが、私にはそういうことを考える頭がまるでありませんでした。

 血の滲むような努力をして、などとは絶対に言いません。

 正直なところ私は、将来のことなど一度として真剣に考えることもなく、大学生活の四年間、ただただ好きな絵を描いているだけなのでした。高校生のときはなんでも描いてきましたが、油絵がやはり一番好きで、大学では油彩を専攻しました。モチーフとして特に好きなのは自然の絵。得意なのは樹木の幹や根。それらを好きな色である青を散りばめて表現するのです。

 私の絵は、ありがたいことに学生時代は、一部の界隈で高く評価されていました。その結果、私は絵でお金をもらって、ぎりぎりではありますが暮らしていける――つまり画家にはなれたのですが、絵を描くだけで活動している今、お金に余裕はありません。昔ほど、周囲の目を引けなくなったのです。

 小銭はあるので、明日のご飯に困るほどではありませんが、荻窪の自宅兼アトリエである、古いアパートの一室の賃料を毎月払うことが、結構な負担になっていました。もう二か月分を滞納しています。そろそろ払わなくては、アパートを追い出されてしまいます。

 友人と呼べるひともそうそうおらず、恋人もいない私にとって、この時点で最後に頼れるのは、自分を捨てた両親しか残っていなかったのです。もちろん、祖父母に金銭的余裕などあるわけもありません。

 その事実に気がついたときは、思わず嘔吐してしまいました。


     〇


 私に暴力を振るっていた母に、私を無理やり犯した父に、頼らなくてはならないのでしょうか。どうしても?

 苦肉の策です。幸いにも、私にはプライドというものがほとんどありません。そんなものは捨ててきたつもりです。そんな私のとった策は、己の躰を売るということでした。相場を調べると、私の年齢やスタイルからして、およそ一回の性交渉で一万五千円から二万円といったところでした。充分です。一か月に三、四人程度と会えば、家賃の支払いには困りません。

 父に犯されたことがトラウマになっているのでは、と少々考えるところもありましたが、よくよく考えたら、あのときの記憶は朧気でよく覚えていないし、生涯も処女も捧げたくなるような恋人なんていませんから、なにをしようと自由です。性に関して、なにもかもどうでもよくなってしまっているのだと、自分でもわかりました。

 もちろん、真面目に副業としてコンビニエンスストアなどのアルバイトでもしようかな、と考えもしましたが、それでは効率が悪いですし、本業がなあなあになってなおさら稼げなくなってしまいます。それでは本末転倒です。

 それに、私のような性質の人間が、社会に出てまともに働けるとは思いませんでした。まるで社会に馴染める気がしません。

 だから、私は今――二十四歳の五月、売春に手を染めることに決めたのです。

 初めは知らないことばかりだったので、スマートフォンで下調べをしました。

 どのサイトが良いだとか、どのアプリが駄目だとか、そういうことを調べるところから始まります。結果、女性はどんなツールでもサービスの利用にお金がかからないことがわかったので、さっそく会員登録をし、プロフィールを作って掲示板に書き込みをしました。

 すると、あっという間に男性ユーザーたちからメールが届いたので、ひとつひとつに丁寧に返信をしました。初めから売春の話題を出してくる男性会員も多いため、そういう方々の相手はとても楽です。一番直近で、二万円で会えるという方がいたので、今晩十八時に渋谷駅前で待ち合わせるということで話はまとまりました。

「……ふう」

 大丈夫かな。いろいろなひととやり取りをして、少しばかり疲れてしまいました。約束の時間まであと五時間もあるので、それまでの間は絵を進めなければなりません。ほんの少しの疲れを癒すために、私はまず大好きなブラックコーヒーを淹れることにしました。


     〇


 十八時。

 五月になってから、一気に日が長くなったなあなどと考えながら、私は渋谷駅のハチ公前に立っていました。すると、相手の方が『もうすぐ着くよ』と連絡をくれました。しばらくすると、

「つきのちゃん?」

 と、私と大して目線の変わらない(私は背が高いのでなおさら)、スーツ姿で、三十代後半くらいの男性が声をかけてきました。男性ユーザーのだいたいがプロフィール画像を設定していないので、私は今相手の容姿を初めて知りました。思ったよりも普通そうなひとでした。

 こんな話に乗ってくるようなひとは、きっと碌でも無いひとなのだと決めつけてかかっていましたが、少し考えたらわかります。そもそも、出会い系サイトを使っている女性ユーザーが考えることは皆同じなのだと。

 そうなってくるといよいよ、男性ユーザーも、そういう女性ばかりなのだと理解し、結果、進んで売春を持ちかけてくるのでしょう。

「はい、私がつきのです。たかひろさんですか?」

「そうだよ。いやあ、びっくりした。こんなに綺麗な子が本当に来るなんて。あ、業者じゃないよね?」

 業者? 業者とは、なんのことだろう。不思議に思っていると、たかひろさんが、

「風俗のお店の子じゃないよねってこと」

 と教えてくれました。

「ええ、はい。そういうお店には所属していません。あの……お店のひとだとなにか問題でもあるんですか?」

「いやなに、ただちょっとお金を多くとられるかもしれないからね。それに、ああいうサイトを使っている俺みたいな人間はみんな、素人の子と遊びたいんであってさ、業者でいいなら黙って風俗店を利用するんだ。あくまでも〝接客〟されたいわけじゃないんだ。そういうのは、求めてない」

 そういうものなのか、とだけ思いました。確かにたかひろさんの言っていることは、わからなくはありませんでした。確かに、プロ相手がいいなら、だれでも風俗店に通うと思います。

「プロフィールの写真があんまり綺麗だったから、最初はサクラかなとも思ったんだけどね……いや、本当に会えて嬉しいよ」

 さあ行こうか、と言って、たかひろさんは私の手をとり西の方に向かって歩き出しました。きっと行く先はラブホテルなのですけれど、私はそこに行くまでの道のりを、当然知りません。

 しばらく歩を進めると、それらしき建物が視界に入ります。

 私は今日、人生で初めてラブホテルというものに入りました。

 なんだか怪しげなネオンと妙に豪華な内装に少々驚いていると、たかひろさんは慣れたように部屋をタッチパネルで選んで、レシートのようなものを取ると、エレベーター前まで私の手を引いて行きました。

「今日は初めて会うから、一番いい部屋にしたよ」

 部屋のドアの横についているランプが赤色に点滅していて、そこが私たちが入るべき部屋であると告げていました。たかひろさんはドアを開けてくれて、私に先に入るように促して、後からたかひろさんも入ってきます。玄関にはもうひとつドアがあったので、そこを開けてみると、天蓋付きの、いわゆるお姫様ベッドがありました。天井にはシャンデリアもついていて、とても豪華な内装です。

「わあ……綺麗ですね」

 思わず素直な感想を述べてしまいます。たかひろさんは、

「そうでしょう。スイートルームだからね」

 と、少々得意げな表情と声色で答えました。

 こんな、穢れを知らないお姫様の部屋みたいなところで、私はこのひとといけないことをするんだ。穢いことをするんだ。この部屋はそういうところなんだ。

 そう、痛く実感しました。

 たかひろさんの、私の躰を舐めるような視線によって。

「お風呂、沸かそうか」

「……はい」

 もう、後には引けないのだ、と思いました。


     〇


 行為の最中、私はずっと、クーラーがきいていて少し肌寒いなあとか、女性器を愛撫した口でキスをするのはやめてほしいなあだとか、そういうことを考えていました。

 ラブホテルのスイートルームの天井に、染みなんてものはありません。数えるものは、ありません。

 だからずっと、ほかの方法で己の気を紛らわすことに必死になっていました。

 早く終わらないかなあ。

 けれど、それを悟られては気分を悪くして、お金をもらえないかもしれませんので、私は出来るだけ〝嬉しい〟〝楽しい〟というような素振りを見せていました。

 たかひろさんはそんな私を見て、大層喜んでいるようでした。

 男のひとというのは、こんなに単純なのかと、少し呆れてしまいました。


     〇


 行為を終えた後、丁寧に封筒に入れられた二万円を受け取って、入念にシャワーを浴びます。たかひろさんは、行為を終えたというのに、シャワーを浴びている間も私の裸体に欲情しているようで、〝それ〟を見て、なんだか気味が悪くなりました。

 時間も迫っていたので、服を着てすぐに、私たちはホテルの前で解散しました。駅の方向に向かうたかひろさんを見送って、私はその場でうずくまり、泣きました。

 プライドは捨てたつもりでした。いいえ。そもそも、そんなものは持ち合わせていないつもりで生きてきました。

 けれど、実のところはあったのです。捨てきれてなど、いなかったのです。

 己が酷く惨めで汚い存在になってしまったのだと、悔しさと悲しさで気持ちがいっぱいになりました。

 もとより、私は中学生になったころ、実の父親に性的暴行を受けていますから、今更になって惨めも穢いもないのですけれど……

 でも、それでも。己の能力不足や贅沢のせいで金銭的に追い詰められて、躰でお金を稼ぐことと、無理やり行われた性的暴行とでは、話が違います。売春なんてものは――援助交際なんてものは、やってはいけないことだったのです。

 苦しさで、堪らなくなりました。

 泣いていると、ホテルから出てきたカップルに『大丈夫か』と心配されたので、ひとことお礼と謝罪を述べ、涙を拭ってその場を後にしました。

 家に帰ってからは、ベッドに伏して、気の済むまで泣きました。

 泣き疲れて、眠るまで。


     〇


 真夜中に、私は三号のキャンバスに、赤色の油絵の具で簡単な絵を描きました。

 女性器の絵です。

 背景は白いまま。

 子宮と卵巣を小さなキャンバスの真ん中に描いたのです。

 こうしてみると、女性器というのはハートの形に似ているな、と思いました。

 女性にとっての真の心臓は、これなのかもしれません。

 だとしたら、私はどこのだれとも知らぬひとに、心臓を売ったも等しいということになるのでしょうか。そんなことを考えながら、私は朝まで眠ることも出来ず、イーゼルの前で座りつくすのでした。


     〇


 夜は眠れませんでしたが、朝になったからと言って眠れるわけでもなく、私は唯一の親友との約束を思い出し、急いでシャワーを浴びて、軽く化粧をし、家を出ました。

 私の住んでいるボロアパートは、荻窪駅から徒歩二十分ほどの位置にあり、今回約束している街中の喫茶店に行くには少々不便な立地です。友人も大概同じような条件の場所に住んでいるので、中間地点をとっての約束の場所ということで、まあ、遠いだとか時間がかかるだとか、そういった問題点については仕方がないのですが。

 電車を乗り継いで、渋谷駅に向かいます。田舎の出なので、未だに街は迷います。友人の諫目之人は東京生まれの東京育ちなので、街中を歩くときは彼に付き添ってもらうことが多々あります。

 まあ、彼には今恋人がいるので、そう、いつでも何度も、自由に会えるわけではないのですが。

 約束の時間には間に合いました。私はどちらかというと方向音痴で、待ち合わせの際迷うことが多いのですが、今日はハチ公前が待ち合わせ場所だったので、迷うこともなくたどり着けたのでした。――昨日の今日ですから。

 すると、そこにはすでに、文庫本を読んでいる諫目くんの姿がありました。

「お待たせしました」

 近寄って声をかけると、彼は少しびっくりしたようにして、ビジネスバッグに読みかけの文庫本をしまいました。

「今日は少し遅かったね。いつも君はもっと早く来るから、私も早く来たのだけれど」

「最近は渋谷までなら迷うこともそうなくなったので、時間ぴったりに着けるようにしているんです」

「それでも、十五分も早いがね」

「それは言わないお約束です」

 軽妙な会話を交し合い、二十センチの間をとって歩き出します。出会った頃は『パーソナルスペースが狭い』などと言われていましたが、それから六年も経ったので、諫目くんはもう慣れっこです。

 喫茶店に着くと、涼やかにクーラーの風が店内を循環していました。私たちは分煙スペースに行き窓際の席に腰かけて、店員さんが来るまでの間、煙草に火を点けて会話を始めました。

 しばらくすると、店員さんがお水を持って来てくれたので、アイスコーヒーをふたつ注文しました。煙草を嗜む私たちですから、お砂糖とミルクは、もちろん抜きです。

「それで、どうなんだい。最近の売れ行きは」

「聞かないでくれると助かります。描いてはいますし、委託しているお店に納品もしていますし、個人の注文もそれなりにはあるのですけれど、大した額にはならなくて……家賃を二か月滞納しています」

 煙草を吹かしながらそう答えると、諫目くんは呆れたような声音で、

「〝それ〟が原因じゃないのかね。あとは、酒かな」

「それはあるかもしれません。いいえ、確実にそうですね。でも、ギャンブルに手を染めていないことだけは褒めて欲しいですね。ひととしてまだギリギリ終わってはいません」

「自慢げに言うことじゃあないよ、それは当然のことだ」

 諫目くんはしっかりした価値観を持っています。私なんかとは大違いです。

 彼とは大学時代からの友人なのですけれど、当時から彼は周りと比べて大人びていて、ひととしての軸がぶれていない素晴らしいひとでした。私は彼のことを心の底から尊敬しています。だって、私とはまるで正反対なのですから。

 アイスコーヒーがふたつ机に置かれると、諫目くんは軽く店員さんに会釈をして、二本目の煙草に火を点けます。私と彼の共通点と言えば、おそらく、芸術に関する価値観と、本の趣味、そして煙草を吸うことくらいではないでしょうか。私も大概ですけれど、彼も相当なヘビースモーカーです。

 窓から射し込む太陽光に当たり、グラスの中の氷がカランと音を立てて、溶け落ちました。

「それで? 昨晩は突然『会いたい』だなんて、なにかあったのかい」

「ああ……いえ、なんとなく、最近諫目くんに会っていないなあ、と思っただけですよ」

 嘘です。

「そうか。まあなんの予定もなくて暇だったから、ちょうどよかった」

 特に詮索してくることもなく、彼は本当に優しいひとだと思いました。私は嘘を吐いているというのに。きっと彼は、それに気づいてもいるというのに。

「なにか困ったことがあったら、気兼ねなく言うといい。私は大抵の時間を読書に当てるしか能がない人間だからね。暇なんだよ」

「そんなこと……彼女さんとは、最近どうなんですか?」

「まあ、ぼちぼちさ。平日は私が仕事で、彼女は土日が仕事だからね。会う時間なんてそうそうないんだよ。もう恋人と言えるかどうかも怪しい間柄だね」

「そう、なんですか」

 その後はしばらく最近の出来事なんかを報告し合い、お互いが元気であるとわかったころに、お会計を済ませて店を出ました。お昼過ぎに待ち合わせたと思ったのですが、気が付けばもう時刻は十七時を回っていました。少し喫茶店に長居しすぎたようです。

 しかし、諫目くんの様子が変です。

「どうかしましたか?」

 考えごとをするときの諫目くんの癖です。顎に手を当てて伏し目がちにしています。そうして、なにか思いついたのか、顔を上げて、彼は言いました。

「やっぱり納得がいかない。お金は私が出すから、夕食を食べに行こう」

「え?」

「君は余計なことは考えなくていい。とにかく、行こう」

 言われるがまま、私は諫目くんに着いて行くことになりました。

 お金は払うつもりですけれど――彼はなにが納得いかなかったのでしょうか。まあ、彼と過ごす時間が増えるというのは、私にとっては喜ばしいことですから、今はなにも気にしないでおきましょう。

 彼は決して私に後ろを歩かせません。

 私を待って、必ず横を歩かせるのです。

 それが、彼にとって私は〝対等〟の存在であるという証明なのかもしれません。


     〇


 しばらく歩くと、大衆居酒屋にたどり着きました。

 私がお酒を飲むことが好きだからでしょう。彼もそれなりに飲むのですけれど、私のようにお酒に依存しているわけではありませんから、まあ、嗜む程度、というやつです。

 店員さんに席に通されて、すでに賑やかになり始めている店内の雑音から、彼の声を探し出して聞き取ります。

「好きなものを頼むといい。お金のことは心配しなくていいから」

「ええと、では、馬刺しでも食べますか。お好きでしたよね、馬刺し」

「そうだね。君も好きなものだし、いいんじゃないか。だし巻き卵も好きだったね、たしか。それとあとは……」

「軟骨のから揚げなんてどうでしょう」

「いいね。あとは枝豆かな。君と言えば豆だ」

「健康にいいですからね、豆は」

 こうしてメニューを頼むとき、彼とでは悩むことがなくて楽です。我慢もしなくていいですし。

 ときどき、大学の同期の方々と飲みに行くこともあるのですけれど、みんなと私とでは根本的に趣味が合わないので、結局食べたいものを食べられず、私ひとりが我慢する羽目になります。

「飲み物はどうする?」

「日本酒ですかね」

「まあ、そうだよなあ。私も日本酒、冷で。二合頼もう」

「そうしましょう」

 トントンと注文が決まる。ここまで気を遣わずにいられる相手は、彼のほかにいないのではないでしょうか。


     〇


 注文したものがすべて揃って、私たちは小さなおちょこで乾杯しました。ぐい、と一気に飲み干すと、喉がかっと熱くなりました。この感覚が好きで、お酒がやめられません。

 日本酒は諫目くんが好きな〝善知鳥〟という銘柄のものを頼みました。甘すぎず、辛すぎず、ちょうどいい飲み口の高級なお酒です。別に彼は高級志向というわけではないのですけれど、お酒はどうせなら美味しいものを飲みたいという価値観を持っているのです。

 私は、飲めればなんでもいいのですけれど。

「諫目くん」

「なんだい」

「納得いかない、って、なにに納得がいかなかったんですか?」

「ああ、そのことか。いやなに。君の方から悩みを打ち明けてくれるまでの時間が欲しくて、誘ったのだけれどね。なかなか口を開かないから、どう切り出そうかと思っていたところだよ。そうだな……強いて言えば、君が僕に隠しごとをしていることに、納得がいかなかったのさ」

 悩み――ああ、そうか。昨日のことだろうか。

 悩みがある素振りは見せていなかったつもりだったのですけど、彼からしてみたら、そうでもなかったらしいです。

 けれど、言ってもいいものなのでしょうか。

 私が行ったことは、売春という立派な犯罪行為なのです。それに、出会い系サイトを使っていることも、見知らぬ男性と肌を重ねたことも、彼には言いづらいことです。

 私がしばらく躊躇い、黙りこんでいると、彼が先に口を開きました。

「言いにくいことなのかね」

「ええ、まあ……相談するのは少し、躊躇われます。きっと幻滅されてしまいますから」

「幻滅?」

「はい。まあ、お金に困ってのことではあったのですけれど……」

「借金でもしたのかい」

 借金ならば、どれだけよかっただろう。

「ええと……」

 言葉に詰まっていると、諫目くんは訝しげな顔をして、

「まさか、とは思うが……売春にでも、手を出したか」

 と言った。ああ、気づかれてしまった――上手に嘘を吐ければよかったのに、彼を前にすると上手く嘘を吐けなくなってしまう。おかしな話です。これまでの私の人生は、嘘にまみれているのいうのに。

 私が頷くと、彼は小さなため息を吐いて、目頭を押さえました。

「どうして私を頼らなかったんだ」

「お金を借りても、返せる保証がないので」

「なにかしらのアルバイトをするという選択肢は?」

「私が社会に適合している人間だと思いますか」

「……そうか。幻滅、は、しないよ。君の過去を粗方知っているからこそ、トラウマなどの心配はするがね。その点は、平気だったのか」

「まあ……もう、なんと言いますか、私の中でその話は完全に思い出話になっていて、逆に割り切れているというか、むしろ、なんの抵抗もなかったんです。不思議だなあって、自分でも思いましたけど。ただ、ひとりになってからは、辛かったです」

 そう。独りになってからは、辛かったのです。だから、彼に連絡しました。

 幻滅はされたくなかった。けれど、私が今辛いことに、気が付いてほしかった。

「……力になれなかったことが、歯がゆいよ。今後、二度とそういうことはするんじゃない。私が必ず力になるから」

「でも……借りたところで、お金はいつ返せるか……」

「気にするな。貸した金はあげるものとして考える質なんだ」

「気にしないなんてことは出来ません。それに、与えられてばかりじゃ、友人関係が破綻してしまいます。成り立たなくなってしまいます。だから、絶対にお金を借りるわけには……」

 なんとか、彼のいたわりの気持ちを静めようとしていると、彼の口からとんでもない言葉が飛び出してきました。

「ならば――」

 少し間を開けて、彼はわずかになにかを決心したように、言いました。

「ならば、私を相手に売春でもするかい?」


     〇


 目玉が飛び出るかと思いました。

「正気ですか?」

 私の問いに諫目くんは、笑って答えます。

「常に狂っているような君に、正気を疑われる筋合いはないよ。私はいつでも正気で、本気だ」

 彼は私の大学時代の同期で、今はデザイン会社に勤めているサラリーマンで、私よりもずっと安定して稼いでいる、いわば高給取りです。売春で金銭援助をしたところで、自分の生活に困るようなひとではありませんが……

「でも、あなた恋人がいるじゃないですか」

 そう。彼には、恋人がいるのです。

 大学生のころから交際している、恋人が。

 そんなひとを相手に、ましてや、大学一年生のころから付き合いを続けている親しい友人であるというのに、そんな、援助交際なんて出来るわけがありません。

「私と彼女との関係はほとんど破綻したようなものさ。なにも気にしなくていい」

 彼は平然と言ってのけますが、そんなわけにはいきません。

「お、お断りします……」

 丁重にお断りします。私の応えを聞くと、彼はテーブルに両肘をついて、指を交差させた手で口元を隠しました。

「でも、そうしたら君は、また見知らぬ男を相手に、何度も何度も傷付きながら、売春を繰り返すんだろう?」

「それは、そうですけれど……」

「私はね、こう思うのだよ。〝傷はひとつだけでいい〟とね」

「……どういう意味ですか?」

「私ひとりを相手にし続けるのなら、君が傷付く回数は、初めの一度だけだろう?」

 それはたしかに、そうかもしれないですけれど。でも、それでも。彼の手を犯罪行為で穢したくない気持ちが勝ります。しかし、私は訊ねました。

「あなたは、私を抱けると言うのですか」

 私にとって、一番怖い質問です。

 しばし間を開けて、諫目くんは口を開きました。

「抱けるよ」

 息を飲みました。

 ああ、これはいけない。いけないことをしている。

 私は今、大切な存在である彼をも巻き込んで、黒く深い汚泥の中へと沈んでゆこうとしているのです。

 彼は本当にそれでいいのでしょうか。後悔は、しないのでしょうか。

「さあ、どうする?」

 考えて。考えて、私。なにか、それ以外にいい方法はないのでしょうか。彼に頼る以外の――彼を汚す以外の方法は。

「……」

「これは、君のことを思っての提案だ。私のことはなにも考えなくていい。君は君だけのことを考えて、選択してくれ。どうする。私の提案に、乗るか?」

 なにも、思いつけない。私の安っぽい脳みそでは、なにも。

 私は、ゆっくり首を縦に振ることしか出来ませんでした。

「それじゃあ、契約は成立だ」

 諫目くんは、なぜだかわかりませんが、どこか満足そうな顔をして、何度かうなずきました。

 私は今にも溢れそうな涙を必死に堪えて、彼の瞳から目を離さないよう、まっすぐ彼だけを視界に入れていました。


     2


 あれから二週間が経ちました。

 お店に預けていた絵が売れたので少々の稼ぎになり、なんとか家賃の一か月分は賄えましたが、あと一か月分も滞納しています。つまり、いつ追い出されてもおかしくない状況は、変わっていません。

 諫目くんからはまだ、連絡は来ていません。

「……ふう」

 ため息を吐くと幸せが逃げるとよく言われますが、こんなため息ひとつで逃げる幸せなんて、最初から要りません。そんなことを言っていたら、いつの間にかこんな人生になっていたのですが。

 イーゼルに立てたキャンバスの前で、パレットを片手にぼうっとしていると、スマートフォンの着信音が鳴りました。ラインの通知です。スマートフォンの画面をつけてラインを開くと、一番上にあった名前は〝諫目之人〟でした。

 一瞬、心臓が止まるかと思いました。

『今晩会いたい』

 そのひとことが、私の心をいかに痛めたことか。

 私はひとこと、

『私も会いたいです』

 とだけ返して、スマートフォンを閉じ、木の根の絵の続きを描くのでした。

 パレットの上の青の絵具だけが、私に優しい。


     〇


 約束の時間である、十七時になりました。私は三十分ほど前からハチ公前に立ち尽くし、道行く人々の流れをずっと眺めていました。そうすると、時間を少し過ぎたくらいで、諫目くんが待ち合わせ場所にやってきました。

「すまない、少し遅れてしまった。だいぶ待っただろう」

「いいえ、全然。言ったでしょう。最近は、私、時間ぴったりに着けるようになったんですから」

 嘘です。ずっと待っていました。

「そうか。ならいいんだ。……それじゃあ行こうか」

 彼は冷たく大きい骨ばった手で、私の右手を握り、私が二週間前に一度だけ行ったことのあるホテル街へと、いつものゆったりとした歩幅でいざなうのでした。


     〇


 案外ラブホテルの利用に慣れているのか、諫目くんは戸惑うことも躊躇うこともなく、適当な部屋を選択し、私の手を引いてエレベーターに乗り込みました。ちょうどふたりだけ乗り込めるほどの狭さのエレベーター内は、青色のライトで鈍く照らされています。

 彼の手は、あたたかい私の手を握っているのにも関わらず、いつまでも冷たいままです。

 ゆっくりとエレベーターが動き、四階にたどり着きました。一番奥の部屋の脇にあるライトが青色に明滅しています。ここだぞ、ここでお前たちは交わるんだぞ、と、ライトが私たちに告げてきます。

 部屋に入ると、彼が好きそうなモノトーンの、シンプルでスマートな内装でした。

「諫目くんが好きそうな部屋ですね」

「そうかもしれない。ここには、一度だけ来たことがあるんだ」

 ずきり。と、胸が痛みます。

「そう、なんですか」

 だれと来たのでしょう。やはり、彼女さんと来たのでしょうか。

 すると彼が、ふわりと柔らかく笑って、

「君も好きそうだと思って、いつか連れてきたいと思っていたんだ」

 と言いました。それは、どういう意味なのでしょうか。ここはラブホテルです。連れてきたいということは、私と〝そういうこと〟をしたいと、思っていたのでしょうか。思ってくれて、いたのでしょうか。

「……田頭?」

「あ、はい、なんでしょう」

「ぼうっとしているように見えたが、どうしたんだ」

「ええと……その、少し、期待してしまって……」

「期待?」

 言ってしまってもいいのでしょうか。引かれてしまうのではないでしょうか。でも、気になります。聞いてみたいと、思ってしまいました。

「……その……私と〝したい〟と、前々から思っていたのですか」

 そう訊ねると彼は一瞬だけ固まって、いつもの飄々とした表情に戻り、答えました。

「ああ、そうだよ」

 心臓が跳ねるような思いを、今、生まれて初めて抱きました。


     〇


 躰にタオルを纏い、ベッドに潜って、磨り硝子の向こうでシャワーを浴びる彼の影を横目に眺め、ただ待ちます。タイルに跳ねる細かな水の音だけが、この部屋の中に響いています。

 私の胸はどきどきと高鳴っていました。恥ずかしいから? 楽しみだから? いいえ、どちらでもありません。今、私の心の中は、不安でいっぱいなのです。

 彼と交わることに抵抗はありません。それどころか、それ自体は少々嬉しくもあります。けれど、それよりも、今後の私たちの関係に歪みが生じないか。そういった不安の方が勝ってしまうのです。

 浴室の軽いドアの開く音が聞こえてきます。彼が来るのがわかったので、思わず反対方向の壁側を向きます。

「田頭、君、まさか寝てはいないだろうね」

「寝てませんよ」

 ベッドの反対側のスプリングがぎしりと軋み、沈みこみます。

「なら、なぜそっちを向いているんだい」

「……」

 いい回答が思いつかず、思わず黙りこんでしまいます。すると、布団から出ている私の肩に、彼の冷たい手が触れてきて、その手によって私の躰は仰向けの体勢にされてしまいました。私を見下ろしている彼と目が合います。

「シャワーを浴びても、手が冷たいんですね」

「そうだね」

「心があたたかいんでしょうね、きっと」

「そうでもないさ」

「……そんなことないですよ」

 ああ、どうしよう。こんな状況になるだなんて、一度も考えたことがなかったので、緊張で、なにを話していいか、まるで思いつきません。

 こういうとき沈黙を破るのは、いつも彼です。

「緊張しているみたいだね」

「当然ですよ」

「今更、私たちの間柄で、緊張もなにもあるものか」

 そう彼は言いますけれど、まさか、私たちが性交渉に及ぶときがくるだなんて思いもよらなかったのですから、緊張するのは当然です。

「あなたと裸で対面してお話することを、想定したことがなかったもので」

「そうか。私は、金銭のやり取りはともかく、いつか君とこのような関係を持つ運命だと思っていたよ」

「……ずるいですよね、あなたは」

 きっと、まだ私の中でも不確定なこの気持ちに、諫目くんは誰よりも先に気づいているのでしょう。そのうえで、この言動なのでしょう。

 まったく本当に、ずるい。

「思い当たらないな」

 そう言って彼は、私の唇に濡れた口づけを落とすのでした。


     〇


 詳しくは語りません。いいえ、語れません。私はその日、長年想っていた彼に抱かれました。ですがそれは、金銭のやり取りが発生する性交渉です。売春。援助交際。私だけではなく、私は彼まで汚してしまったのです。

 家に帰ってからは、無心で絵を描きました。

 ろくに眠ることもせず、ただひたすら、描きました。

 三号のキャンバスに、女性器の絵を。子宮の絵を。

 私が売ったのは春ではありません。紛れもなく、己の躰です。春なんて綺麗なものじゃあないのです。春とはなんなのでしょう。捨てるものなのでしょうか。過ぎ去るものなのでしょうか。いくら思考しても答えはわかりません。

 諫目くん。諫目之人くん。私の想い人。

 彼と春を過ごしてみたかった。

 もう叶うことはない願いなのですが。

 子宮の絵が完成しました。時刻は午前四時を回ったところです。今眠ったら、きっと夕方ころに目が覚めるでしょう。そうしたらまた、一番初めに会った、たかひろさんと会う約束をしていますから、私は連日渋谷に行くことになります。

 諫目くんには悪いことをします。せっかく〝傷つくのは一度だけでいい〟と言ってくれたのに。いいえ。でも、たかひろさんとは二度目ですから、また傷つくことはないはずです。

 大丈夫。きっと、大丈夫。

 そんなことを考えながら、私は寝室に戻り、布団に入って眠りにつくのでした。


     〇


 十八時。前回と同じ待ち合わせ時間です。

 およそ二週間ぶりに会います。待ち合わせ場所も変わらず、ハチ公前です。たかひろさんは相変わらずピシッとしたスーツ姿で現れて、私に気が付くと、手を上げてこちらにアピールしてきました。

「つきのちゃん、久しぶりだね。行こうか」

 私は黙ってうなずいて、たかひろさんに着いて行きます。道中、たかひろさんはしきりに私に話しかけてきます。私はそれに対して、愛想を振りまいて、彼の気が変わらないように必死に振る舞いました。

 ホテルはこの前と同じところでしたが、部屋は普通の部屋でした。ラブホテルの普通というのが私にはよくわかりませんが、値段を見たところ、安い部屋だったので、きっとこれは普通の部屋なのでしょう。

 部屋の内装は、前回よりも簡素なものでしたが、私の住む荻窪のアパートに比べたら、よっぽど豪華な部屋です。大きなベッドがあるだけで豪華です。どのホテルもこうなのでしょうか。このような場所に来るのは、まだ三回目ですから、わかりませんけれど。

 諫目くんは各々シャワーを浴びたいタイプなのか、自然とそのような形になりましたが、たかひろさんは違うようで、一緒にシャワーを浴びたがります。というよりも、それが当然だと思っているのでしょう。

 一緒にシャワーを浴びていると、たかひろさんは私の裸体を舐めるように見て、男性器を主張させながら、手に泡をつけて躰に触れてきます。

 いやだ。いやだ。いやだ。

 気持ち悪い。私に触らないで。

 それでも、顔に出すことは出来ませんし、言葉にすることも出来ません。

 ひとしきり私の躰を犯すと、たかひろさんがベッドに移動しようと言い出したので、寝室に移動します。ふかふかのベッドに腰かけると、隣に座ったたかひろさんに後ろに押し倒されます。

 それからは、前回と同じです。

 口づけですら、気持ちが悪くて耐えられず、何度も吐き気に襲われました。

 どうか早く終わってくださいと、神様にお願いするしかありませんでした。


     〇


 たかひろさんと別れた後、やはり私は家に帰って泣きました。泣いて、泣いて、泣きじゃくって、諫目くんに連絡をとりたくなったけれど、寸でのところでやめました。彼には恋人がいるのです。頼るような電話をするのはいけません。そういった軽率な行動は控えなければなりません。ひとのものに手を出してはならないのです。

 援助交際をした時点でもう手遅れのような気もしますが、それはノーカウントです。金銭のやり取りをしている時点で、私は風俗の仕事をしたようなものですから、彼が風俗を利用したことと大して変わりません。

 またひとつ、子宮の絵が出来上がりました。

 最近はめっきり木の根の絵を描いていないなあ、と思ったので、夜通し木の根の絵を描き続けました。大好きな青色を散りばめて。

 集中して書き続けること数時間。朝方のことです。諫目くんからひとことラインが届きました。

『生活の方は大丈夫かい』

 実際問題、家賃を滞納している時点でまったく大丈夫ではないのですが、私は、

『大丈夫です。心配しないでください’』

 と返しました。嘘です。本当は心配してほしいのです。けれどそれは言ってはなりません。彼に心配をかければかけるだけ、彼は私と援助交際をすることになるのですから。

 私はスマートフォンの画面を消して、また絵に集中することにしました。


     〇


 そしてまた一週間後。私は家賃のためにたかひろさんと会うことになりました。

 諫目くんは、ときどき連絡を寄こしてくれましたが、私はすべての連絡に、心配しないようにと返信しました。嘘を吐きました。嘘に嘘を重ねました。たかひろさんと会うことは、もちろん言っていません。後ろめたいからです。

 三度目ともなると、私も彼の対応にも慣れてきて、待ち合わせて合流してからは、流れるようにいつものラブホテルに向かいました。レシートをとって向かった先はこの間と似たような部屋でした。

 その日、いつもと違ったのは、たかひろさんが先にお金の入った封筒を渡してきたことです。中身を確認するように促されたので確認すると、中には三万円が入っていました。

「あの、たかひろさん、これ、少し多いのですが……」

 そう伝えると、たかひろさんはにっこり笑って、

「いいんだよ。生活に困っているだろう? 受け取ってほしいな」

 と言いました。親切だと思い、お言葉に甘えて、受け取ることにしました。

 しかし、私はこの後、酷く後悔することになります。

 行為に及ぶ際、これまでよりも強引に押し倒され、強引に口づけをされました。

 たかひろさんは、これまでのように語りかけながらではなく、無言でひたすら私を愛撫してきました。そうして男性器を挿入する際、避妊具をつけずに無理やり挿入してきました。

「や、やめてくださいっ」

 いくら訴えてもやめてはくれません。力強く腰を押さえつけられ、抵抗出来ません。たかひろさんはただただ腰を動かして、しばらくすると、私の膣内で射精しました。

 なにものにも替え難い絶望が私を襲います。

 たかひろさんは満足そうにして男性器を抜くと、私に激しく口づけをしてきました。それをむりやり引きはがして、私はトイレに駆けこみ、胃の中身がなにもなくなるまで嘔吐しました。

 部屋に戻ると、いつの間にかたかひろさんはいなくなっていて、封筒の中身の三万円もなくなっていました。私はその場にへたりこんで、裸のまま泣きじゃくりました。

 ああ、なにも得ることが出来なかった。失うばかりだった。

 私はなんと愚かなのでしょう。

 シャワーで必死に女性器を洗浄します。いくら流しても、自分が穢い存在に思えてなりません。これで子供が出来ていたらどうしよう。どうしたらいいのでしょう。私はよく知りもしない、愛してもいないひとの子供を産んで育てることになってしまうのでしょうか。悔しさと不安で胸がいっぱいです。

 彼に――

 諫目くんに、会いたい。

 服を着て、鞄を持ち、私の足は自然と彼の家へと向かっていました。

 乱れた格好で歩いているものだから、道行くひとたちが私のことを横目で流し見ているのがわかります。でも、そんな視線はどうでもいい。

 早く、早く彼のもとへ。


     〇


 彼の住むマンションに着くころには、もう時刻は二十一時を回っていました。九階の五号室。インターホンを押すと、彼の声が聞こえます。

『はい』

 なにを初めに言うべきか迷いました。ひとことめに出てきたのは、

「私です。田頭です。助けてください」

 でした。声でわかったのでしょう。部屋の中から走る音が聞こえてきて、ドアが勢いよく開きます。彼は焦ったような顔をして、

「なにがあった」

 と訊ねてきました。

「過ちを、犯してしまいました」

 そう答えると、諫目くんはとりあえず私に部屋にあがるように言ってきました。

 彼の匂いがする。目の前には彼がいる。安心して、私はふと意識を失い、その場に倒れこんでしまいました。


     〇


 夢を見ました。

 諫目くんと一緒に暮らしている夢です。

 これは夢だと、夢を見ているときわかっていたので、自分はなんて無謀な夢を見ているのだろうと思うと同時に、少々恥ずかしくもなりました。

 彼は夢の中でも彼でした。

 少しクールで、でも優しくて、人を思いやる心を持っている。けど、少しずるい。

 私の気持ちを知っていて優しくするのですから、こんな意地悪はありません。

 それでも、私は彼のことが好きなのです。今までその気持ちに蓋をしていましたが、間違いなく、私は彼のことが好きなのです。

 夢の中でそのことに気が付くなんて、私も滑稽だなと思いました。

 ああ、彼が私を選んでくれたなら、こんなに苦しい思いをしなくても済むのに。

 そんな〝不可能〟を考えていると、私の意識は夢の中からだんだんと現に戻ってゆくのでした。


     〇


 目を覚ますと、まず灰色の天井が視界に入りました。躰を起こすと、今まで横になっていたベッドのスプリングが軋み、それでベッドの横の椅子に座っていた彼が、私が起きたことに気が付くのでした。

「ああ、やっと起きた。よかった」

 文庫本を閉じて、彼――諫目くんは安堵の表情を浮かべました。

 ここは彼の自宅です。そして、これは彼のベッド。なんだか、先ほど見ていた夢を思い出しました。これが普通のことならば、これが当たり前のことだったなら、どれほどよかったでしょう。

 少しだけ、胸が締め付けられるように苦しくなりました。

「少しは落ち着いたかい。今、コーヒーを淹れる」

 彼の家は居間のほかにもう一部屋、寝室がある造りになっていて、それなりに広いのですが、壁はコンクリートの打ちっぱなしになっていて、家具も白と黒で統一されているせいか、少々寒々とした印象を受けます。

 彼の後ろに着いて行くと、

「まあ、適当に座ってくれたまえよ」

 と言われたので、黒いカーペットの上に置かれた白いソファに腰かけます。彼はコーヒーを淹れに台所に立ちました。きょろきょろとあたりを見回すも、彼の部屋はいつ来ても代り映えがしません。ただひたすらにシンプルで、なにもない。最低限の家具しかありません。見えるところに小物などはひとつもありません。きっと彼のようなひとのことを、ミニマリストと呼ぶのだと思います。

 マグカップに入ったコーヒーをふたつ持ってきて、彼も私の隣に腰を掛けました。

「それで、なにがあったんだ」

 あたたかいコーヒーカップを手にして、彼は問うてきます。

 あれを? あの出来事を、言うのか? 彼に? 包み隠さず? いいえ。そんな勇気は、私にはありません。そもそも、ここに来たのも、本能のままに来てしまったというだけで、冷静な判断ではなかったのですから。彼にこう問われることを、普通の精神状態であれば予測出来ました。しかし、あのときの私は普通ではなかったのです。

 普通であれば、いつも通り家に帰って、ひとしきり泣きじゃくった後に、三号のキャンバスに子宮の絵を描いていたはずです。

 そうです。私は、子宮の絵を描いて……

 絵?

 ああ――そうだ。


 絵を、描かなければ。


「……田頭?」

「……ごめんなさい。私、帰ります」

 そうして私が立ち上がり玄関に向かって歩き出すと、彼は私の後を追ってきて、私の左手首を大きく冷たい手で掴みます。

「いきなりどうしたって言うんだ。待て。なにがあったのか聞いているだろう」

「やめてください。離してください」

「家に来たのにはわけがあるんじゃあないのか? 聞け。待つんだ」

 そう言って彼は、半ば無理やりに玄関ドアの前に立ち、私の前に立ちはだかりました。鍵のチェーンを後ろ手に留め、私が安易に出られないようにしています。

「ごめんなさい。ごめんなさい。帰らせてください。私、私は、描かなくてはいけないんです。絵を……絵を描かなくては……」

「絵? なんだ、なんの話をしている」

「絵です。子宮の、絵を」

「とにかく落ち着け! 私の目を見ろ!」

「目……目?」

「そうだ、目だ。視線を合わせろ。こっちだ」

 彼の言う通り、彼の目を見ます。まっすぐで真剣なまなざし。視線が泳いで焦点が定まりません。彼はそんな私を見て、右頬を軽く叩きました。

「あ……」

「そうだ、しっかりしろ」

 ゆっくり、ゆっくりと、正気を取り戻します。

「なにがあったか、包み隠さず話すんだ」

「それは……出来ません」

「なぜ」

 そんな――そんなの。

「あなたに、嫌われたくないからです」

 どうやら外では雨が降り出したようです。かすかな雨音が、耳に入り込んできます。

 私は、彼を押しのけて、ドアのチェーンを外し、半ば無理やりに家路へとつくのでした。


     3


 あの日から六か月後。

 季節は冬です。寒々とした灰色の空の下を、商品販売の委託を任せているお店に向かって歩いています。

 私はあれから、サイトで出会ったひとと会うことが怖くなってしまって、諫目くんとときどき会ってなんとか家賃を賄い、ぎりぎりのところで生きてきました。

 ひとつ救いになったのは、絵の売れ行きが少々よくなったことです。例の子宮の絵を店に並べてもらうと、瞬く間に売れてしまったと店長さんが言っていました。

「田頭さん、最近はよくこの絵を描くねえ。方針を変えたのかい」

 お店に絵を預けに行くと、店長さんが言います。

「ええ。まあ、少し考えることがありまして」

「そうかい。いや、いいよ、この絵は。子宮だよね。今までのもよかったけど、これらの絵は相当いい。売れるのも納得だ」

「ありがとうございます」

 これらの絵の数は、私が売った春の数なのですけれど、そんなことは知りもしないし興味もない店長さんは、私の絵を馬鹿みたいに褒めてきます。それは嬉しくて、大変喜ばしいことなのでしょうけれど、今の私にとっては苦痛でしかありません。

 それならばこの絵を世間に出すこと自体が間違えていると指摘されるかもしれません。でも、出さずにはいられなかったのです。私のこの心苦しさを、どうしても世間に知らしめたかったのです。

 帰り道、後ろめたさを売ってきた私の足取りは軽く、軽快な足取りのまま、私はお気に入りの喫茶店に寄ることに決めました。時刻は夕方六時です。あまり滞在出来そうにはありませんが、たまにはいいでしょう。少しの息抜きは大切です。

 店のドアを開けると、カランカラン、と軽いベルの音が店内に響きます。

 店長さんとはそこそこ仲がいいので、店長さんは私の姿を見ると、

「久しぶりだねえ、月乃ちゃん」

 と声をかけてほほ笑んできました。店長さんはもうずいぶんなおじいさんで、定年退職後、このお店を始めたのだと以前言っていました。もともとコーヒーが好きだったこともあり、長年の夢だった喫茶店の経営に手を出したのだとか。

「アイスコーヒーでいいのかい?」

「はい」

 私は喫茶店のホットコーヒーが少々苦手です。基本的に長時間滞在するので、あたたかいコーヒーが温くなってしまうのが、どうしても気に入らないのです。もともと薄めのコーヒーが好きなので、アイスコーヒーの氷が解ける分には気にならないのですが。

 カウンターの一番端に腰かけると目の前にコースターが置かれ、アイスコーヒーがその上に置かれます。店長さんはコーヒーを淹れるのが早いのに、味は落とすことがなく、いつ来ても美味しいコーヒーを飲めるので、私はこの喫茶店が大好きなのです。

「最近、絵の方はどうなんだい?」

 店長さんが問うてきます。

「ええと、まあまあいいですね。新しいモチーフに手を出したら、お店の方でよく売れるようになりまして」

「そうかい、そうかい。よかったねえ。これで、うちにもいっぱい来てもらえるようになるねえ」

「そうですね。いっぱい来たいです」

「でも、無理はしないことだよ。月乃ちゃん、前に疲労で倒れたことがあったろう。何日も寝ずに絵を描いてね。それを聞いたとき、本当にびっくりしたんだよ。無茶するところがあるんだから、本当に、気を付けるようにね」

「大丈夫です。ありがとうございます。あの頃みたいな無茶は、もうするつもりはないので」

 店長さんの言う通り、本当に一度、倒れたことはあるのですけれど、もう何年も前のことです。私が学生のころですし、もうずいぶん前のこと――卒業制作をしているときでした。どうしても〝傑作〟を生み出したくて、何枚も何枚も、一週間も寝ずに絵を描き続けていました。

 そうして出来上がったのは、壮大な木の根と川の絵でした。百号のキャンバスに描いたそれは、今でも売らずに自宅に飾っています。

 コーヒーを飲み終えると、時刻は二十時を回っていました。

「長居してすみませんでした。そろそろ帰りますね。ごちそうさまでした」

「うん、うん。また来てね。頑張りすぎないように、頑張るんだよ」

「はい」

 お店を後にして、すっかり暗くなった夜道を歩きます。ここは家の近所なので、まばらな街頭の下でも迷わずに歩くことが出来ます。通い慣れた道です。スマートフォンで時間を確認し、上着のポケットにしまうと、そのとき、スマートフォンがポケットの中で震えました。

 ああ、喫茶店にいるとき、ミュートにしていたのだったな、と自分の中で納得し、スマートフォンを取り出し通知を確認します。

 ロック画面には〝諫目之人〟の文字がありました。

 少し浮足立った気持ちでロックを解除しラインを確認すると、

『今、電話出来るかい』

 と書かれてありました。もうすぐ家に着くので、急用でないことを確認してから、

『帰宅したら伝えますね』

 と返信しました。久しぶりに彼の声が聞けると思うとなんだか嬉しくなりました。

 早く家に帰ろう。スマートフォンをポケットにしまい、家路を急ぎます。

 すると、その瞬間。

 車の横を通り過ぎようとしたときです。急に車のドアが開い高と思うと、そこから手が伸びてきて、腕を掴まれます。勢いよく引っ張られ、車の中に連れ込まれました。

 あまりにも一瞬の出来事で、なにが起こったのか理解するのに時間がかかりました。驚きながらも状況を把握しようと、口をふさがれたまま視線を動かすと、その空間にはふたりの男性がいました。ひとりが私の口をふさいでいて、もうひとりが躰を押さえています。

 ああ、終わった。

 これからなにが起こるのか想像して、そう思いました。

 助けて――声にならない声で、口をふさがれたまま叫びましたが、もちろん助けなんて来るわけがありません。

 もう駄目だ、終わりだ。

 自然と流れ出る涙と、脱力する躰。このまま意識を失ってしまいたい。これから起こる出来事を覚えていたくない。そんなことを考えるも、意識を自在に失えるはずなどなく、私ははっきりと意識を保ったまま、男たちに躰をまさぐられるのでした。


     〇


 目を覚ますと、そこは真っ白な空間でした。

 真っ白な天井に、真っ白な壁、真っ白なカーテン。ここは病院なのだと、すぐにわかりました。ベッドに仰向けで寝せられていて、左手側の柵にはナースコールが引っかけてあります。手のひらサイズのそれの先端にある赤いボタンを押すと、すぐにナースさんがやってきます。

「目が覚めたんですね、よかった」

「あの……私は、なぜここに……」

「……乱暴されたのよ。睡眠薬を使ってね。田頭さんには酷な話だけれど。持ち物なんかは無事よ。でも……」

「でも?」

「……犯人は痕跡を残して行ったわ」

 それは、つまり。

「中に、出されたんですか」

「そういうことになるわ。さっき警察の方々に証拠を預けたのだけれど。経口避妊薬を今持ってくるから、待っていてね。それと、宿直の先生も呼んでくるわね」

「……はい」

 唖然とするしかありませんでした。

 まだ少しぼうっとする頭で、必死になにがあったのか思い出そうとしているのですが、なにも思い出せません。車に連れ込まれたところまでは、しっかりと覚えています。ショックな出来事を覚えていられないことがあると、ときどき聞きますが、それなのでしょうか。

 覚えていたくない、と願ったことも覚えています。もしかすると、神様が、私の願いを叶えてくれたのでしょうか。

 しばらくそのままの状態で待っていると、先ほどのナースさんと、中年のお医者さんがカーテンを開けてやってきました。それと、後ろには警察官であろう制服姿のお兄さんもいます。

 お医者さんは、ベッドの横にある椅子に腰かけて、足元の机の上に、一枚の写真のようなものを置きました。

「おなかの中に赤ちゃんがいることは、知っていたかい」

 脳内に電撃が走るような感覚に襲われました。

「いいえ」

 そう答えると、お医者さんは、

「今回のようなことが、以前にもあったのかな」

 と言いました。思い当たることは、ひとつしかありません。

 たかひろさんとのことです。だって、諫目くんとの行為のときは、必ず避妊具を着けているのですから。避妊具を着けずに中に出されたことは、あのときしかありません。

「はい」

「……そうかい。大変だったね。けど、ごめんね。残念、という言葉が適切なのかはわからないけれど、もう、中絶を出来る時期は、とっくに過ぎてしまっているんだ。月日にしてその子は、六か月は君のおなかの中にいることになる。だから、君はおなかの中の子供を産むしかない、ということになる。おなかに子供がいることはわからなかったのかい?」

「わかりません、でした」

「そうか……父親にあたるひととは、もちろん連絡は……」

「とれません。……いいえ、とれなくは、ないのですけれど……きっと子供が出来たと知ったら、連絡がとれなくなると思います。とれても、産んだところで認知はしてくれない、ですね……きっと」

 当然です。もとは、出会い系サイトで知り合った、援助交際相手なのですから。最後に乱暴をされてから、連絡はとっていません。本当は、連絡すべきだったのでしょうけれど、どうしても連絡をとろうと思えませんでした。

 私もあの後、きちんと産婦人科に行けばよかったのですが、高価な経口避妊薬を処方してもらえるような経済状況ではなかったのです。諫目くん、またはほかの知人にでもお金を借りて、病院に行けばよかったのですが、ひとからお金を借りるということをしてこない人生を歩んできたので、借金することに抵抗があったのと、たかひろさんに乱暴されたことを、諫目くんには絶対に知られたくなかったことから、言えなかったのです。

 そこで、警察官の方が訊ねてきます。

「お相手がわかるのなら、被害届を出すべきです。どういった経緯で知り合ったのですか」

「それは……」

 言えません。私が出会い系サイトで自ら募集をかけて、勝手に出会って、お金をもらって性交渉をしていたのですから。売春は立派な犯罪です。絶対に他人には――ましてや警察官にだなんて、言えません。言うことが出来ません。

「言いたくありません」

「犯人をかばうのですか。あなたの証言次第で、逮捕出来るのですよ」

「……それでも、言いたくありません」

 お医者さんも警察官の方も困ったような顔をして、小さくため息を吐きました。

「自分に乱暴した相手の子供を産んで、きちんとひとりで育てていけるのかね」

 お医者さんが呆れたように言います。

「はい、きちんと育てます」

「……なら、なにも言うことはないよ」

「ご心配をおかけして申し訳ございません」

 頭を下げて謝罪します。それからは、警察官のと一対一になって、今回の犯人についての取り調べを行われましたが、ほとんど覚えていないので、警察官の方は仕方なしに、無い情報を持ち帰って行きました。

 おなかの中に子供、ですか。

 このことを、諫目くんになんと説明したらいいのでしょうか。

 ああ、そういえば、彼と電話をする約束をしていたことを、すっかり忘れていました。

 時計の長針は、三時を指しています。

 彼はまだ、眠らずに私の返事を待っているのでしょうか。


     〇


 あれから数日が経ちました。

 彼からは数件のメッセージが届いていますが、なんだか連絡する気になれなくて、返信出来ずにいます。届くたびに通知は確認していたのでわかることなのですが、彼は相当、私のことを心配しているようです。

 大変申し訳ないのですけれど、まだ返信は出来ません。

 おなかの子供のことを、どう言えばいいか、頭の整理がついていないからです。

 あの日、朝になるまで病院で眠り、それから帰宅して、一度も眠っていませんし、満足な食事も摂っていません。ですが流石に疲れを自覚してきたので、一度お風呂にでも入ろうと、浴室に行き浴槽にお湯を溜めます。

 するとそのとき、インターホンが鳴りました。

 私の家にはテレビモニタなどというハイテクな機械はないので、直接玄関に行き、ドアスコープを覗くしか、来客の顔を確かめるすべはありません。

 足音を立てずにそっと玄関に行き来客がだれなのか確かめると、そこには彼――諫目くんが訝しげな顔をして立っていました。思わず後退ると、壁にぶつかって音を立ててしまいます。それで私がここにいるとわかったのか、彼が話しかけてきます。

「田頭、そこにいるのか。なんで連絡をよこさない。なにかあったのか」

「……な、なにもありません」

「嘘を吐くな。君はなんの理由もなしに連絡を途絶えさせるような人間じゃない」

「……体調が悪かったんです」

「理由があるんじゃあないか。とにかく一度ドアを開けろ」

 数秒考えこみましたが、断れる理由が思いつかないので、私はドアを開けました。

 彼とはいつぶりに会ったでしょう。

「ずいぶん汚くしていたなあ。どうせ、一睡もせずに絵でも描いていたのだろう」

「そう、ですね。絵を、描いていました」

「なにを描いていたんだ」

 彼は靴を脱ぎながら問うてきます。言おうか言わまいか少々悩みましたが、どうせこのまま居間にあがられたら見られてしまうので、ひとことで答えます。

「胎児です」


     〇


 居間の真ん中に置いてあるイーゼルに立てかけた描きかけの胎児の絵を見て、彼は絶句していました。

「……思い描いていた胎児の絵ではなかったな」

 この絵に使った絵具は、赤色、ただ一色です。

「そうでしょうか」

「ああ。どうやら、私はもっと早くに君のもとへ来るべきだったらしい」

 自分自身の精神状態がよくないことには、とっくに気が付いていました。知っていました。

 だから私は絵を描いた。

 赤い赤い、絵具で描いた。

 おなかの中の赤ちゃんを。

「今日という日こそ、包み隠さず、すべてを話してくれないか」

 彼は真剣な表情を浮かべて詰め寄ってきます。

「はい、観念します」

 描きかけの胎児の前に置いてある椅子に腰かけて、私は答えます。彼はソファに座って、私の方を見つめています。

 今から私は、彼に嫌われるのです。


     〇


 大好きな油絵具の匂いが充満している狭い部屋の中に、私と彼とふたりきりです。浴槽にお湯の溜まる音をバックミュージックに、私は彼になにからどうして伝えるべきか、慎重に考えます。どう伝えたところで、軽蔑されることはわかりきっているのですけれど。

 それでも、少しでも自分を貶めたくないのです。

 出来る限り、大好きな彼に嫌われたくないのです。

 己の考えが大きく矛盾していることも、私は知っています。


 そうしていると、ふたりの間に沈黙を作ってしまいました。深い水音だけが、私たちふたりを包んでいます。

 ですが、沈黙は破るものですから、ここまで来たら話すしかありません。私は勇気を出して、彼に告げました。

「私、赤ちゃんが出来たんです」

 彼は一瞬驚いたような表情をして、冷静を装い訊ねてきます。

「それは、私の子か」

「いいえ」

「……だれの子なんだ」

 不可解な面持ちで彼は問うてきます。

「たかひろさん――私が初めて、売春をした相手です」

 これで彼は、心底がっかりしたことでしょう。恋人がいる身で、友人として心配している相手の躰を情けで買っていたというのに、その相手から、こんなことを告げられては。今、この瞬間。彼は世界で一番哀れな存在かもしれません。

「無理やり、されたのか」

「はい」

「相手には伝えたのか」

「いいえ」

「妊娠して、どれぐらいになる」

「六か月は経っているそうです」

「そんなになるまで、自覚症状はなかったのか」

「はい。まったく」

「……乱暴された後、病院には行かなかったのか」

「はい。そんなお金はなかったので」

「なぜ、私に相談しなかった」

 そんな――そんなの、ひとつしか理由はありません。

 以前にも彼に告げたことのあるひとことを、はっきりと伝えます。

「あなたに嫌われたくないからです」

 私の言葉に、彼は黙りこんでしまいました。

 また、ふたりの間に沈黙が流れます。

 これで私はようやく、楽になれることでしょう。彼に嫌われ軽蔑されることで、恋人がいる彼のことを、やっと諦めることが出来るのですから。

 ただひとつ、きっかけが欲しかったのです。彼を諦めるためのきっかけが。自分ひとりでは、気持ちに折り合いをつけられなかったのです。私は、弱い人間です。

 彼の方から突き放してもらえなければ、恋心ひとつ捨てることが出来ないのです。

 浴室の方から、お湯の溢れ出す音が聞こえてきたので、椅子から立ち上がり彼に告げます。

「お湯、止めてきますね。ついでに、ここ数日お風呂に入れていなかったので、汚れを落としてきます。冷蔵庫の中にコーヒーが入っているので、自由に飲んでいてください。……じゃあ」

 彼の返答も聞かずに、私はその場を後にします。

 浴室のドアを閉めてもたれかかり、その場にしゃがみこむと、ドアが軋みました。

 そうして、小さな備え付けの洗面台の前に立ち、湯気で曇った鏡を手で拭いて、自分の泣き顔と向かい合います。なんて汚い泣き顔なのでしょう。こんな顔、彼には絶対に見られたくありません。だって、私は彼に嫌われたくないのですから。

 ああ、でも――

 もう、とっくに嫌われたのでした。

 視界の端に映った桃色のカミソリを手に取って、浴槽の前に座ります。

 利き手である右手でしっかりとカミソリを握り、左手首の一番太い血管の上に刃を当てがいます。ぐっと力を込めると、薄く鋭い刃が皮膚に沈みこみ、血が溢れ出してきます。もっと力を入れなければ、きっと意味がありません。不思議と痛みは一切感じないので、そのままカミソリを皮膚の上でスライドさせました。

 浴槽に左腕を漬けます。

 望み通り傷は深くついたようで、手首からは大量の血が滲み出て、今もなお溢れ続けている透明なお湯を、真っ赤に真っ赤に染めあげてゆきます。

 これで、死ねるでしょうか。

 いつからか愛してしまっていた彼に嫌われた今、もう生きる気力もありませんし、この先を生きてゆける自信もありません。

 お湯はどんどん赤く染まってゆきます。

 視界はぼやけ、視線をどこに合わせていいのかわからなくなって、徐々に意識が薄れてゆきます。とうとう全身に力が入らなくなって、浴槽の縁に寄りかかります。

 脱力した躰とあやふやな頭で、私がひとつ願ったこと。

 それは――

 〝最期に彼に抱かれたかった〟でした。


     〇


 夢を見ました。

 これは夢だと、はっきり自覚している夢です。

 この夢の中で私は、彼と一緒に笑い合っていました。

 そんなこと、絶対にあり得ないのに。あり得ては、いけないのに。

 これが現実だったならどれほどよかったことでしょう。

 しかし、笑顔の時間は数秒後には壊れてしまいます。

「之人さん」

 私なんかよりずっと綺麗で素敵な女性が、彼の後ろに現れたのです。彼女は彼の名前を呼んで、にっこりと笑っています。彼が、ゆっくりと後ろを振り返りました。

「――」

 彼の口が音を立てずに動きます。いいえ。きっと、そこに音はあったのでしょうけれど、それがあまりにも私には馴染みのない音だったので、理解出来なかっただけかもしれません。ただ、彼が口にした言葉が、彼女の名前なのだということは理解出来ました。

 私の知らない名前の、私の知らない女性。

 ああ、そうか。

 きっと彼女は、彼の恋人なのだ――

 彼は彼女の方に歩み寄ってゆき、私の方を振り返ることもなく、向こうに行ってしまいます。

 夢とは、自分の脳が作り出している、謂わば幻です。それが夢だとわかっているならば、自分の好きなように話を作り替えることも出来ると言われています。それなのに、私はなぜ、こんなにも残酷な夢を作ってしまったのでしょうか。

 夢ならば夢らしく、夢を見ている間くらい、夢を見させて欲しかった。


     〇


 ざああ。

 重たいお湯の流れる音が、私の意識を夢から現へと引き戻します。

「――おい!」

 遠くで、だれかが呼んでいる。

 いや、違う。声はたしかに、近くから聞こえる。

「おい! しっかりしろ! 田頭!」

 聞き慣れた愛しい声が、私の名前を呼んでいます。脱力しきった私の躰は、彼の腕の中にあり、ふと見上げると、彼が必死になっている姿が目に映りました。彼は片腕で私の躰を支えながら、もう片方の手でスマートフォンを持ち耳に当てています。

「もしもし、救急車をお願いします! 住所は……」

 救急車――その単語を聞いて、ようやく自分が先ほど行った行為を思い出しました。相変わらず痛みは感じませんが、彼が私の躰を抱きながら、左手首にタオルを当てて押さえている感触は伝わってきます。

 ――私、死ねなかったんだ。

 不鮮明な頭で、私は〝後悔〟という感情だけを覚えました。

「待っていろ、すぐ、すぐに救急車が来るから。なんで――なんで、こんなことを……」

 なぜだかわからないけれど、悔しそうで悲しそうな顔をしている彼に、違和感を覚えざるを得ません。どうして? どうして、そんな顔をするのでしょうか。

「助け……ないで、ください……」

「なんだって?」

「……どうか、このまま、放っておいて……」

「馬鹿を言え! なんで、どうして……私の責任だ。君に無理をさせてしまった。余計なことを聞いてしまった。私は――私はただ、君に寄り添ってやりたかっただけなのに。すまない。すまない……」

「寄り、添う……? どうして、そんな……」

 彼はいつものポーカーフェイスを崩して、目を潤ませながら答えます。

「そんなの、君を愛しているからに決まっているだろう!」

 愛している? 彼が、この私を?

 混乱を抑えきれませんが、彼の紡ぐ言葉をなんとか理解しようと、耳を傾けます。

「君はどうしようもない馬鹿だ。救いようがない。同情の余地がない。駄目人間だ。いつも勝手な行動をして、私を心配させる。けれど、だからこそ、私は君を支えたいと思った。それなのに……こんなのあんまりだ。君は、不誠実だ」

 不誠実。

 彼はそう言いました。たしかにそうかもしれません。私はいつも、心の中では彼のことを想っていたというのに、自堕落のせいでほかの男性に躰を売り、学習をせず、危機感も抱かず、最終的には愛してもいないひとの子を孕んでしまったのですから。愚か。惨め。情けない。貶し言葉ならいくらでも浮かんでくる。

 悔やんでも悔やみきれません。どうして間違ってしまったのでしょう。

 彼が、いつしか私を愛おしく思ってくれていたことにも気付かずに。

「ごめんなさい」

 自然と涙が溢れてきました。

 救急車のサイレンが、遠くから聞こえてきます。

「……恋人とは、とっくに終わっていたんだ。先日、別れたんだ。終わらせたんだ。君への恋心に気が付いてから」

「そう、なんですか……」

「ああ、そうとも。君の気持ちには、前々から気が付いていた。躰を重ねるたび、哀しげになってゆく君の視線に、気が付いていたんだ。私も大概、不誠実だ。本当に、すまなかった」

 彼はついに涙を溢しました。温度を保ったままの涙は、私の頬に落ちてきて、つう、と、肌を伝ってゆきます。

 玄関のドアが開き、ひとが入ってくる足音がします。

 あ。

 ――助かりたい。

 ふと、そう思いました。まだ、生きていたい。死にたくない。彼がまだ、私を突き放さないのならば。

「私、まだ、生きたいです」

 ふり絞ったその言葉に、彼は何度もうなずいて答えます。

「君は生きるんだ。私と、これからの人生を」

 意識はそこで途切れました。

 そうか、私は生きてゆくのか。歩んでゆくのか。

 彼とともに、この先の人生を。


     4


 窓からカーテン越しにまっすぐに射し込む真っ白な光と、雀たちのさえずりが、私の朝を爽やかに出迎えます。

「おはよう、月乃」

 この世で最も愛しい彼が、私の名前を呼んでいる。今では当たり前となってしまったことでも、日々眠って起きれば、また新しい感情を芽生えさせます。

〝愛しい〟。

 この感情は、いくつもの色を持っているのです。

 もう、いくつの〝愛しい〟を知ったでしょう。

 私と彼との間で眠っている赤ちゃんは、彼との子供ではありません。私が産んだことには変わりないのですが、父親は、彼も赤ちゃんも知らない男性です。そしてきっと、この子はこの先、そのことを知らずに生きてゆきます。私と彼が隠すから。私と彼が、この子の〝親〟になったから。

 もう後には引き返せません。形はどうあれ、子の親になったのですから。

 彼は、私が彼ではない男性の子供を孕んでいることを知っても、私と一緒にいたいと言ってくれました。私の過ちを赦してくれました。いいえ、本音を言えば、赦してくれてはいないかもしれません。

 けれど、現状、愛してくれてはいます。

 私が彼を想っているのと、同じように。


     〇


 最後に、余談。

 彼にひとつだけ、秘密にしていることがあります。

「たかひろさん」

 私は今でも、一週間に一度、十八時の渋谷のハチ公前に通っています。

「つきのちゃん」

 子供は託児所に預けて、一時間半だけ、このひととの時間を作るのです。

 彼が帰宅するのはいつも二十一時です。しかし、私が出かける金曜日は、大抵、会社のひととの飲み会か、もしくは残業で帰ってくるのが遅くなります。だから、私がこのひとと会っていることは、彼にばれやしないのです。

 いつものホテルに着きました。もう通い慣れた道です。見飽きるほどに。

 部屋に入ってソファに腰を掛けると、隣に座ってくるたかひろさんに問われます。

「ふたりめは順調なのかな」

 私は無理やりな笑顔を作り、答えます。

「はい」

 その返答に満足そうな表情を浮かべて、たかひろさんは、いつもの通りの言葉を吐きます。

「今日もよろしくね。……警察に、君が出会い系サイトで売春相手を募集していたことを言われたくないのなら」

 今、おなかの中にいる子供は、もう、だれの子供なのかわかりやしません。

 わかったところで、私が苦しいことも、芯から不誠実である事実も、変わりません。

 行為を終えたら、念入りにシャワーを浴びます。そして、丁寧に封筒に入れられたその日の分の託児所代を受け取り、私はたかひろさんよりも先に部屋を後にします。

 そう――私は今、一回数千円の託児所代だけで、己の躰を売っているのです。この生活が始まってから、もう一年になります。

 ホテルを出たら、託児所に預けていた子供を引き取りにゆき、家に帰ったら子供とご飯を食べて、絵本を読んで寝かしつけます。

 そうして、愛しい彼が帰るまでの間、三号のキャンバスに絵を描くのです。


 真っ赤な真っ赤な、子宮の絵を。


「ごめんなさい」


 彼には決して届くことのない言葉を、私は毎週金曜日、小さなキャンバスに向かって、アトリエでひとりきり、呟くのです。

 もしも人生に二回目があるのなら。

 私は、お母さんの子宮にいるときからやり直したいと、心の底から思います。

 穢れなきまっさらな躰で――


 彼とまた、ゼロから出逢いたい。

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懺悔 真田 侑子 @amami_ch

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