第121話 大切な一歩
「肩の力を抜いて、足をもう少し軽やかに……」
ヘルンベルク家の広間に、ゆったりとしたワルツの音楽とコリンヌの声。
柔らかな光が差し込む部屋でコリンヌが、アメリアにダンスのレッスンを行っていた。
「右足からステップを始めて……そのまま続けて」
「は、はいっ……」
アメリアは少し緊張しながらも、コリンヌの指示に従い、一歩一歩を慎重に踏み出している。
音楽に合わせて、ゆっくりとしたワルツのリズムで踊る二人。
最初、アメリアの動きには硬さが見えたが、コリンヌの手慣れたリードで徐々にリラックスしてきた様子だった。
「リズムを感じて、体を音楽に委ねてみましょう。ダンスは会話のようなものです。ローガン様と言葉を交わすように、自然体で楽しむのです」
「自然体で……」
その言葉を胸に、アメリアは頭で深く考えないよう努める。
ローガンの手を取り、一緒にお茶会の広場で踊るイメージを強く浮かべ、優雅な所作を心掛けた。
しばらくすると、アメリアのステップはより流れるようになった。
「そうです、その調子です」
二人の動きが調和し、息の合うダンスが広間に繰り広げられる。
アメリアの進歩に、コリンヌはほんの少しだけ口元を緩ませた。
「アメリア様、とても良かったですよ」
音楽が終わり、一息つくアメリアにソフィがタオルと水を持ってきて言う。
「ありがとう、シルフィ」
アメリアは安堵を浮かべた。
レッスンの成果が明らかに表れており、ダンスは確実に洗練されている実感があった。
そんなアメリアに、コリンヌが控えめに言う。
「だいぶ良くなりましたね。基本的な動作は完璧なので、あとは何度か反復練習をして体に覚えさせれば良いでしょう」
「はい。ありがとうございます、コリンヌ先生」
優雅にお辞儀をするアメリアに、コリンヌは変わらぬ鉄仮面で言った。
「結構」
帰り支度を始めるコリンヌに、アメリアは改めて声をかけた。
「いよいよ、明日ですね……本当に、今日までご指導いただきありがとうございました」
「礼には及びません。それが、私に課せられた使命ですから」
コリンヌは淡々と言いながらも、今まで見せたことのない表情を浮かべた。
「正直、わずかな日数でここまでのクオリティに仕上がるか、少々不安でしたが」
コリンヌは続ける。
「アメリア様は予想以上の上達を見せてくださいました。私がこれまで教えた生徒の中でも、非常に優れたレベルです」
「いえ、そんなことは……」
「私はお世辞を申しません」
コリンヌはきっぱりと言った。
この言葉は、コリンヌならではの説得力を持っていた。
優しげに目元を緩めてから、コリンヌは言う。
「アメリア様は、誰よりも『素直』という素質を持っています。それは、優秀な頭脳や卓越した運動神経よりも、素晴らしい素質です。教えを素直に受け止め、忠実に実行する力……それが、上達の秘訣だと私は考えております」
そう述べたあと、コリンヌは微笑む。
アメリアを労うように見て。
「明日は緊張せず、今日はゆっくりと休むことです。長い間、本当にお疲れ様でした」
「はい、ありがとうございました……」
少し湿った声でアメリアは礼を口にする。
思い返せば決して楽な日々ではなかったが、おかげでお茶会に臨む準備は出来た。
素人レベルだった礼儀作法を、なんとか形になるまで引き上げてくれたコリンヌに、アメリアは感謝の気持ちでいっぱいだった。
「また私の力が必要になりましたら、いつでもお呼びくださいませ」
そう言葉を残して、コリンヌは退室する。
こうして、二人のレッスンは幕を閉じたのだった。
◇◇◇
夕食後の執務室は落ち着いた雰囲気に包まれていた。
しかしそれは湖の畔のような落ち着きではなく、嵐の前の静けさのようなものだった。
「いよいよ、明日だな」
ソファに横並びに座るアメリアにローガンは言う。
「早いものですね」
「俺とアメリアは婚約者として出席する。基本的に、アメリアが俺のそばから離れなくて良いよう立ち回るつもりだ」
「はい、ありがとうございます」
落ち着いた調子で答えるアメリアに、ローガンは言った。
「所作が様になっているな」
「コリンヌ先生のおかげですね」
アメリアは微笑みながら答えた。
ローガンは満足げな笑みを浮かべつつも、一枚の紙を取り出した。
「招待客の最終名簿だ」
「拝読します」
名簿を受け取ったアメリアが、一通り目を通す。
社交会への出席経験がほとんどない彼女にとって、記載されている貴族の名前は見知らぬものばかりだった。
しかし、その中で一つの見慣れた名前が彼女の目に飛び込んできた。
アメリアの心臓が掴まれたように冷たくなる。
「君の妹も参加するようだ」
びくりと、アメリアの肩が震える。
「そう、ですか……」
不安げに呟くアメリアの心には、明日の社交会の不安がより一層強まった。
ヘルンベルク家に嫁いで以来、アメリアはエリンと一度も会っていなかった。
しかしエリンの名前が思い浮かぶだけで、実家での苦い記憶が蘇る。
エリンによる様々な嫌がらせ……食事を目の前で捨てられたこと、せっかく採集した植物を踏みにじられたこと。これらの記憶がアメリアの心を締め付けた。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
こくりとアメリアは頷き、気丈に笑って見せる。
しかし、ローガンはアメリアの不安な心情を察していた。
そっと彼女に寄り添い、優しく頬に手を置く。
「心配するな。何があっても、俺が守る」
「……ありがとう、ございます」
ローガンに感謝の言葉を述べながら、アメリアはひとりでに身体を寄せた。
ローガンの温もりや安定した鼓動を感じると、心が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「ごめんなさい。少し、こうさせてください」
「いくらでも」
ローガンの声に、アメリアは遠慮なくローガンに寄りかかる。
大きな手がアメリアの肩を優しく抱いた。
同時に、アメリアは内心で固い決意を固めていた。
(ここまできて、逃げるわけにはいかないわ……)
エリンとの再会に、しっかりと向き合わなければならない。
それは自身の成長であり、過去を乗り越えるための大切な一歩なのだから。
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