縁(よすが)

早河縁

本文

 蕩けるような恋をしたことがありませんでした。

 チョコレートのように甘くて、時にはほろ苦い、あたたかさで溶けてしまうような恋を。

 いつか運命のひとが現れるのだと、そう信じて、私は待ちました。きっと心から好きになれるひとが現れるのだと。

 よくもまあ、三十も手前になるまで待ったものだと、我ながら感心します。

 そうして、待って待って待った先には、運命のひとがいました。

 電撃の走るような、一目惚れでした。

 ふたりは運命的に結ばれて、これからの新しい人生を歩み出そうとしていました。

 そう。ふたりで、手を取り合って。


     〇


 ――五月十日。


 おぎゃあ、おぎゃあ。

 今、この世に生を受けた我が子の泣き声が、緑色の部屋の中に木霊します。

「おめでとうございます! 元気な女の子ですよ」

 産湯で体を洗われて、ガーゼのおくるみに包まれた真っ赤な我が子は、助産師に抱かれながら、私に顔を見せてくれました。

 ぎゅっと固く閉じられている目蓋から頬までの間を優しく撫でると、ああ、私は今この瞬間から母になったのかと、実感が湧いてきました。

 傍らで立ち合っていた夫である秋人くんも、おお、と小さく声を出して、まじまじと我が子を見つめていました。

 そうして、我が子は目を開けます。

 その顔には、既視感がありました。

「……ああ」

 思わず声が漏れてしまった。

 この顔は、元彼だ。

 私でも、秋人くんでもない。間違いない。きっと、そうだ。

 ――この子は、碓氷悠一の子だ。

「どうしたの、久美」

 秋人くんが私のそれに気がついて声をかけてきます。

「なんでもないよ」

 思わず動揺してしまいました。

 目は泳いでいないか。声は震えていないか。

 急いで平静を取り繕って答えると、秋人くんは、

「そっか。じゃあ、まだこれからの処置が大変だと思うけど、俺は出て行くように言われたから、先に出てるね。病室で待ってるから」

 と言って、分娩室を後にしました。

「うん、わかった」

 産んだ疲れはありました。痛みもありました。同時に開放感もありました。けれど、なによりも私の心を占めていたのは、この子の出生についてでした。

 覚えはあります。きっとそういうことでしょう。

 彼とは五年ほど同棲していたけれど、あのことがあってからは、なにかと対策をして別居するまでなにもなく、すんなり別れることが出来ました。

 けれど、まさか。

 まさかこんなところで、また、彼――碓氷を思い出さなくてはならなくなるなんて。

「……もう、嫌だ」

 病室に運ばれている間、私は涙を止めることが出来ませんでした。

「久美? 泣いてるの? やっぱり痛い?」

「あ……違う、違うの。これは……」

 秋人くんには、この涙は感動の涙なのだと嘘を吐きました。

 そうすると、秋人くんは安心したように笑って言います。

「目が大きい。久美に似ていて、かわいい子だね」

「……そうかな」

「うん、そうだよ。産んでくれて本当にありがとう」

 やめて。笑顔を私に向けないで。

 その笑顔を向けられる資格が、私にはないのです。

 ごめんなさい。ごめんなさい。


      〇


 入院している間、私は秋人くんに向けた恋文をしたため続けました。

 いつもいつも、私が使うのは四百字詰めの原稿用紙一枚です。そこに、ぴったり四百字で思いのたけを綴るのです。

 恋文たちは、スマートフォンで写真を撮って、毎日秋人くんに贈りました。

 物書きを目指して数年、物語を書き続けた末に、私はなんとか小説一本でやっていけるくらいには成功しました。でも、それよりもずっと前から、私は秋人くんに恋文を綴り続けてきました。

 これまで書いた恋文の数はわかりません。秋人くんはそのすべてを大切そうに保管してくれています。

 秋人くんは、真面目で穏やかで、私の様な不安定な仕事ではなく、大きな建設会社に勤めています。そんなひとだからこそ、お互い刺激を分け合ってこられたのだと思います。

 私が夢を追うことを……小説を書くことを、心から応援して、そばで支えてくれた、愛しいひと。

 このひとのおかげで、今の私がある。

 そんな大切なひとを、私は結果的に裏切ったのです。

 屑で愚図。どうしようもない、阿呆です。


     〇


 ――一週間後、五月十七日。


 母子ともに無事退院し、怒涛の育児生活が始まりました。

 私も秋人くんも、小さいころは手のかかる子供じゃなかったらしいけれど、この子――縁(よすが)は違いました。

 手がかかって仕方がありません。夜泣きも酷く、毎晩眠れずにいます。秋人くんは仕事の疲れもあるのによく手伝ってくれているけれど、それでもこの生活は私にとってあまりにも過酷すぎました。

 元々体が強いわけでもないので、私はすぐに体調を崩しました。なんてことはない、微熱などのただの軽い風邪症状です。

 しかし、結構な心配性なので、秋人くんはすぐに会社に連絡を入れて、一旦会社にゆき、パソコンや書類などを持ち帰ってきて、自宅で仕事をすると言ってくれました。

「ごめんね、わざわざ会社休ませちゃって……そんな、別に、秋人くんが休むほどじゃないのに……」

 そう言うと、優しい秋人くんはにこりと笑って、

「いいんだよ。俺がしたくてしてるんだから。ね。気にしないの」

 と言いました。違います。そんな優しい言葉が欲しいのではないのです。秋人くんの優しいところはもちろん大好きですけれど、今だけは、叱ってほしいのです。甘えるな、だとか、もっと頑張れ、だとか。そういう、叱責の言葉が欲しかったのです。

「……うん。ごめんなさい、ありがとう」

 私がひとこと謝ると、秋人くんは私の頭を撫でて、

「いいんだよ。ほら、じゃあ寝てな。家のことは俺がやるから。縁のことも……まあ、泣いちゃうけれど、とりあえず任せて」

 と言い、家事をしに寝室から居間の方へと戻ってゆきました。

 同棲を始めてすぐのころは、家事なんてほとんど出来なかったのに、今じゃ頼れる旦那さんになりました。料理も簡単なものなら作れるようになったし、積極的に手伝ってくれるから、色々なことを覚えてくれました。安心して任せられます。

 そうしてベビーベッドに向かう秋人くんの背中を見て、私は心の中で懺悔します。

 ごめんなさい。何度謝っても許されません。

 あなたが今あやしているその子は、あなたの子ではないのです。


     〇


 つかの間の休息で、私は、久しぶりに大好きなチョコレートを食べました。

 秋人くんに、「疲れているときは甘いものだよ」と勧められたためです。

 彼が買ってきてくれたのは、私の好きな「デルレイ」のチョコレートでした。

 きらきらと宝石のようで、かわいらしい。口の中で甘く蕩けるような感覚は、出会ったばかりのころの、私と秋人くんの恋模様のようでした。

 美味しいけれど……なんだろう。

 私の大嫌いな、コーヒーの風味を感じるような気がします。それはまるで、私と秋人くんの恋に割りこんでくる、碓氷の面影のようでした。

 嫌だ。嫌だ。

 どうして。いつまで?

 私の邪魔を、これ以上しないで。


     〇


 ――五週間後、七月十五日。


 体調が回復して、本業である小説家としての仕事も出来るようになったころ。

 出産後に処置した傷も癒えて、医師からも性交渉の許可が下りると、秋人くんとおよそ半年ぶりの性交渉を行うことになりました。

 夜、縁をようやく寝かしつけて家が静まり返ったころ、秋人くんがシャワーを浴び終えて寝室にやってきました。

「なんだかね、久々だと照れちゃうね」

 オレンジ色の常夜灯が、うすぼんやりと私たちふたりを照らしています。

「うん、そうだね。恥ずかしい」

「もう少し、明かりを消そうか」

 そう言って、秋人くんが長い腕で電気紐を引き常夜灯の明かりを消すと、部屋が暗闇に包みこまれます。なにも見えない中手探りで私の体をまさぐり、胸のふたつの丘陵の頂を指の腹で優しく刺激してきます。

 それは徐々に突起し、だんだんと敏感になってゆきます。

「あ、うぅ……」

 思わず厭らしい声が漏れます。秋人くんが私に覆いかぶさると、ギシ、とベッドが軋む音がして、耳元で囁かれます。

「かわいいなあ」

 これは秋人くんの口癖のようなもので、なにかあるとすぐに私のことを〝かわいい〟と言ってくるのです。

 私は、自分の容姿や性格が好きではありませんから、こう言ってくる秋人くんのことが、不思議でならないのですが、彼はいつもいつでも私を〝かわいい〟と称してきます。

 少し暗闇に目が慣れてきて、思ったよりも近くにあった秋人くんの整った顔に、照れの感情が湧いてきます。そして、唇を軽く食み、侵入してくる舌を受け入れて、舌と舌を絡み合わせると、だんだんと己から蜜が溢れてくるのを感じます。

 よかった、私まだ、きちんと秋人くんのことを普通に愛せている。行為に集中して、快楽を感じられている。

 でも、これは――なんだろう。なにか、後ろめたさのようなものが、そんな塊が、胸の中にある気がして……

 ああ、そうか。

 ――これは、〝背徳感〟だ。

「……入れるよ?」

 秋人くんは大きく固くなったそれを私の蜜壺に押し当てて、腰を動かします。ぬるりと滑るように入ってきたそれは、半年ぶりに、私に大きな快感を与えました。

「あっ……ん……」

 ゆっくりと腰を前後に動かして、私の一番気持ちいいところを刺激されます。秋人くんは私の〝いいところ〟をよく知っています。

 碓氷よりは、知らないけれど。

 先ほどから感じていた、背徳感が、私に過度な快感を与えます。

 今までの人生で、この性交渉が一番気持ちいいかもしれません。いいえ、一番、気持ちがいいです。そう、言い切れます。

 私が果てると同時に、秋人くんも果てて、膣からふたりの体液が垂れ流れてきます。

 ぎゅっと秋人くんを抱きしめて大きな背中をさすり、愛しい体温を感じながら、私は懺悔の代わりに呟きます。

「大好き」

 秋人くんはくすりと笑って、

「俺もだよ。大好き」

 と言います。

 私は、本当に最低な人間です。

 大好き――その言葉に偽りはありません。

 けれど、私は心の底で嘘を吐いてしまっています。

 果てるとき、脳裏に浮かんだのは碓氷とのセックスだったのですから。


     〇


 翌朝、縁の泣き声で目覚めた私たち。

 私は縁をおぶりながらお弁当を作り、秋人くんはワイシャツに袖を通して、ばたばたと朝の支度を進めます。忙しく朝ご飯を食べて、秋人くんを見送った後、洗濯機を回して、掃除を始めます。

 その間、縁はずっと泣いていて、私のことを焦らせるばかりでした。

 自分の子供であるはずなのに、縁のことがまるでわかりません。こんな私は、母親失格なのでしょうか。

 そこで、スマートフォンの通知に気が付きました。ラインのメッセージが二件来ています。通知欄を確認すると、そこには〝武田秋人〟と〝碓氷悠一〟の文字がありました。

 秋人くんの方が上にあったので、そちらを確認すると、

『お疲れ様。今日はいつもより早く起きたんだし、無理しない程度にだよ』

 と書かれてありました。肯定的な返事をして、碓氷の方を確認します。そこには一言、

『子供はもう産まれた?』

 と書かれてありました。背筋がぞっと粟立ちます。なんで? どうして? 連絡なんて取っていなかったのに、子供のことをなぜ知っているの? 怖い。どこかで見られでもしているの? 私は震える手で、

『産まれたよ』

 と、一言だけ返しました。嫌になって画面をオフにしましたが、黒くなった画面はすぐに明るくなり、ロック画面には碓氷からと思われるラインの通知が表示されていました。

 家事に集中しようとするも、変に気になって手につかないので、仕方なしに確認すると、それはやはり碓氷からのメッセージで、そこには、

『近々会えない? 子供は預けてきて』

 とありました。なにを思って会えるかどうかの旨を訊ねてきているのでしょうか。子供の顔が見てみたい……というわけではなさそうですし、いったい本当になにを考えているのか……

 付き合っていたときもそうでした。なにを考えているのかわからない。思考が読めない。でも、碓氷は私のことをよく理解している。その構図が気持ち悪くて、仕方がなかったのです。

『わかった。明日の日中なら』

 そう返し、その後は何通かのやり取りで時間と場所を決め、連絡は途絶えました。

 いつもそうでした。自分から送ってきたメッセージのやり取りなのに、自分で既読無視をするのです、碓氷は。なんとも自分勝手な男なのです。

 それとも、まだ、今になっても、それで私の気を引けると思っているのでしょうか。

 五年も一緒にいたというのに、碓氷という男のことが、心底わかりません。


     〇


「ただいま」

 十九時ごろ。玄関からの声に応えます。

「おかえりなさい」

 秋人くんが帰ってきて、彼がお風呂に行っている間に、出来上がった晩ご飯を温め直します。縁をお風呂に入れてくれるので、毎日とても助かっています。

「いつもありがとうね」

 ご飯を食べながら、秋人くんが言います。彼は本当に良いひとなので、いつも感謝の気持ちを忘れず、なにごともやってもらって当然、というような顔はしません。

 それに、律義にそれを言葉にしてくれるので、私の家事や育児へのモチベーションも、なんとか維持出来ています。

「こちらこそ、ありがとうね」

 そんなことを言いながらも、私は最低な人間ですので、秋人くんの前だというのに、明日の碓氷との用事を気にかけてしまいます。なんだか落ち着くことが出来ません。そわそわしてしまいます。

 私のことを日ごろからよく見ていてくれている秋人くんは、私の様子が普段とは少し違うとわかったのでしょう。

「どうかしたの?」

「あ……えっと……なんでもないよ」

「そう? なんか、そわついてるように見えたけど」

「そんなことないよ。大丈夫」

「そっか……なんかあったら言うんだよ。俺も力になるからね」

 手を握って真剣な眼差しでそう言う秋人くんのことは裏切れません。……いいえ、もう、事は裏切った後なのですけれど……碓氷との約束について黙っているのは、このひとを騙しているようで、胸が痛いです。

 でも、今更どうして会うんだ、という話になっても今の段階では上手く説明出来る気がしないので、黙っていることにしました。

 晩ご飯を食べ終えて、食器を片しながら気持ちに整理をつけていると、縁の泣き声が聴こえてきたので、慌てて居間に戻ります。秋人くんがあやしてくれているのですが、縁は秋人くん相手ではなぜか泣き止まないので、私が行くしかないのです。

 私が相手でも、特に泣き止むというわけではないのですが、秋人くんに抱かれると、より酷く泣きじゃくるのです。

「本当に、いつもごめんね。俺じゃ全然泣き止んでくれないね……代わりに食器は洗っておくから」

「うん、お願いします」

「お願いされました。任せて」

 台所に立つ秋人くんの背中を見ていると、明日への不安が大きくなってゆきます。

 明日、私はいったいなにを言われるのでしょう。どんな思いをしなくてはならないのでしょう。そもそも、碓氷に会うことは正解なのでしょうか?

 本当に……本当にこれで、いいのでしょうか。


     〇


 朝。秋人くんを送り出して、洗濯などを済ませて、縁を託児所に預けなくてはならないので、約束の時間の少し前に家を出ます。保育士さんに預ける際、泣いて仕方がありませんでしたが、なんとか預け終えて、約束していたカフェに出向きます。

 ここは、私と碓氷が一度だけデートしたことのあるカフェです。

 アイスコーヒーを頼んで待っていると、約束の時間ちょうどに碓氷はやってきました。

「前に来たときと同じ席だね」

 無感情な表情で、彼は言いました。

 久々に見た碓氷は、もともと痩せていたのに、以前見たときよりも更に痩せていました。

「……そっちの方がわかりやすいかと思って」

 私の言葉に、ひとつの笑みもこぼすことなく、碓氷は席に腰かけます。

「そうだね」

 向かいの席に座った碓氷は、店員さんに置かれたお水を一口飲むと、両肘をついて口元を隠しながら言いました。

「結婚生活は順調そうだね」

 目元は笑っていないけれど、きっと隠された口元には、笑みが浮かんでいるのでしょう。

 碓氷はそういう男です。いつだって、どこかでひとを小馬鹿にしている。

 私は、嫌味に嫌味で返します。

「碓氷が干渉してこなければ、なおさらね」

 どうして、今になって。そんな思いばかりが募ります。

 私の嫌味に、碓氷は「はは」と短く鼻で笑います。

「そっちは、研究の方は順調なの」

「君に教える義理はないよ」

 大学院の博士課程に進学した碓氷は今、なにやら物理学関係の研究をしているようでした。一緒に住んでいるとき、そう聞いた覚えがあります。

 しかしこの返事です。別れたら関係ない、とでも思っているのでしょう。

 ならばなぜ、私を呼んだのでしょうか。

「それで、本題なんだけど」

 碓氷は容赦なく、私の精神を叩きのめそうとしています。そうに違いありません。

 ゆっくりと、かつはっきりと動く少しだけ厚めの唇から、私は目を逸らします。耳も背けてしまいたい。けれど、そうもいかない。

「君が産んだ子供は、僕の子供だよね?」

 しばらくの間、沈黙が流れます。

「……そうみたいだね。と言うより、なんで私が子供を産んだことを知ってるの?」

「知らなかったよ? ただ、もし〝あのとき〟に子供が出来ていたら、そろそろ産まれてるなあと思ったから、言ってみただけ。ブラフだよ」

 絶句、とは、こういう状態のことを言うのでしょう。言葉にならず、私は口元を押さえました。

「どうしたの?」

 平然と訊ねてくるこの男の神経を疑います。

「最低」

「相変わらず感情的で語彙が少ないね。まあ、いいけどさ」

 そこで碓氷はようやく注文を取りました。私と同じ、アイスコーヒーです。

「で、どうするの?」

 いまだ目元には笑みも浮かべずに、ただ、声だけは笑っている碓氷は、そう続けて訊ねてきます。

「どうするって、なにが?」

 嫌な予感がします。

「僕の子供なんでしょう」

「……おそらくね」

 そう答えると、碓氷は衝撃の一言を発します。

「じゃあ、僕のところに子供を連れて戻ってくる?」

 どれだけひとの神経を逆なですれば気が済むのでしょう。信じられません。

「そんなこと、するわけないでしょ!」

 周囲の客たちが、私の大声に驚き視線を向けてきます。それではっと冷静になり、私は俯いて自粛しました。

 この男は、いったいなにを考えているのでしょうか。そんなことを訊くために、今日、わざわざ呼び出したのでしょうか。最低最悪です。水をかけてやりたいと思いましたが、そんなことをしては碓氷の思うつぼですから、絶対に出来ません。

「冗談だよ。今更君に戻ってきて欲しいとは、僕も思わない」

 いちいちひとの神経を逆撫でする男だと、思わずため息が漏れました。

「じゃあなんで訊いたの」

「どういう反応をするかなあと思っただけだよ。でも、もうひとつ訊くことはある」

「なに?」

 注文していたコーヒーが届いて、それに口を一口つけると、碓氷は言いました。


「――」


 自分の耳を疑いました。ざわざわと、一瞬、周りの音だけが聴こえて、碓氷の言葉だけが聴こえてこなかったような、そんな不思議な感覚になりました。

「……本気で言ってるの?」

 碓氷はついに、にこりと笑って答えます。

「君と、君の旦那さんのためを思ってのことだよ。どうする?」

 それは、提案という名の恐喝に等しいものでした。

「……わかった。そうすればいいんでしょう」

 声が震えます。

 喉をきゅっと絞めつけられるような感覚に、少しの息苦しさを覚えました。

「君のためなんだけどなあ……」

 つくづく下衆な男です。頭を押さえて、答えます。

「でも、少し考えたい。一日だけでいいから、考えさせて」

 どう考えても即決出来る問題ではないため、少しの猶予をねだります。

 碓氷はくすりと笑って、極上の笑みで、

「まあ、君はそう言うよね。でも、君は自分がかわいいひとだから、きっとほかに選択肢は無いと思うけどね。まあ、答えが決まったら連絡して」

 と言い放ちました。

 そうして、コーヒーを半分以上残して席を立ち、会計を済ませてそのまま店を出てゆきます。

 私はそのまましばらく、喫茶店でひとりぼうっとして、託児所で縁を引き取り、最寄りのスーパーで買い物を済ませてから家路につきました。

 縁はいつもと相変わらず。私の背におぶられながら、ずっと泣いていました。


     〇


 誰もいない家に帰宅します。

 泣き疲れた縁をベビーベッドに寝かせて、精神的な疲れを癒すために一口だけチョコレートを口に放って、それから晩ご飯の用意に取り掛かります。無心でご飯を作っているときが一番楽です。

 なにも考えなくていい。そんな時間が私にとって、今は唯一の極楽の時なのです。すべて作り終えてしまったとき、また、居間から縁の泣く声が聴こえてきました。

 どうして。どうして、泣くのでしょう。

 私だって泣きたいのに。一生懸命、あなたの母親になろうとしているつもりなのに。

 洗い物をして水で濡れた手をタオルで大雑把に拭くと、足が勝手に居間の方へ進んでゆきます。

 なにとも例えられない負の感情が渦巻いて、頭が真っ白になりました。

「ああ、もう」

 ベビーベッドの上で泣きじゃくる縁を、しばらく見下ろしていたと思います。

 きっと私は、疲れているのでしょう。ベッドに寝転んでいる縁の首に、手をかけます。

 きゅ、と軽く親指に力をこめて、縁の泣き声が少しずつ苦しそうなものに変わっていくのをただ聴きます。小鳥を殺すように、優しく潰します。

 私はいったいなにをしているのでしょうか?

 十月十日を共にして、おなかを痛めて産んだ愛すべき我が子の首に手をかけるだなんて。

 そもそも私はどこで間違えたのでしょう?

 〝あのとき〟、碓氷に犯されたときから?

 死ぬ間際でもなんでもないのに、走馬灯のようなものが頭をよぎりました。


     〇


 いくら「やめて」と言ってもやめてくれませんでした。

 碓氷という男は、秋人くんと比べても比べなくても、小柄で華奢な男でしたが、間違っても男なので、女の私の力では到底勝つことが出来ませんでした。

 抵抗のすべなく、私はまんまと碓氷に犯されました。

 それは、秋人くんと私が付き合うと決めた――

 碓氷と私が、別れた日の、深夜の出来事でした。

 付き合っていた五年の間も、関係が辛うじて成り立っていた最初の一年を除いては、私は碓氷に抱かれることを拒み続けていたのですが、碓氷がその私の意思に応えてくれることは、最後までありませんでした。

「死ね」

 と、今まで生きてきて一度も口にしたことのないきわめて暴力的な言葉を、私は碓氷に放ちました。

 暴力と言えば、碓氷はDV男でもありました。

 言葉の面ではもちろん、身体面での暴力もありました。一見して冷静に見えて、とにかく、機嫌に左右されやすい性格だったのです。一度、言われたことがあります。「家の外で繕って生きてるのに、家の中でも素を出すなって言うの?」と。

 それは……そうかもしれない、と、何度も自分に言い聞かせて、碓氷の意見を正当化しようと努めていました。

 ですが、日に日に、年を追うごとに、暴力は酷くなり、別れたいといくら伝えても別れてくれず、同棲生活は続いていったので、ついには「寝ている間に殺してしまえば解放される」とすら思い、何度か枕元で包丁を構えたこともありました。

 わずかに残る理性が手を止めてくれなければ、今頃、私は人殺しです。

 別れたというのに、愛するひとが出来たというのに無理矢理犯されたという、悔しさと、悲しさと、怒りで、頭がいっぱいになりました。私はすぐに台所にゆき、包丁を手にして、それを碓氷に向けました。

 いつもはことが終わるとさっさと寝てしまうくせに、その日はなぜか起きていた碓氷に、私は言い放ちました。

「死ね」

 包丁を振りかざしましたが、すぐに腕を掴まれたかと思うと、そのまま手首をひねられて、包丁は虚しくフローリングの上に転がり落ちました。

 すると、碓氷は甚だ疑問だとでもいうような顔をして言います。

「なにに怒ってるの? 中に出したこと? それなら大丈夫だよ。どうせ君は、不妊症なんだから」

 とぼけているのか。

「なに言ってるの? 最低。信じられない。もう顔も見たくない」

「じゃあ僕は向こうの部屋で寝るね。まあ、朝はいつも通り早い時間に出て行くから、君はそれ以降に起きるといいよ。おやすみ」

 そう言うと、碓氷は寝室に戻ってゆきました。

 私は秋人くんのことを想い、必死になって膣内をシャワーで洗い流しましたが、結局、それも無駄に終わりました。

 だって、現に産まれてきたのは、碓氷にそっくりなあの子なのですから。


     〇


 ついに、泣き声が止んだとき。

「久美! なにしてる!」

 手首を大きな手で掴まれて、はっとしました。手にこめられた力はすっと引いていて、けほけほとむせたあと、縁はぎゃあと泣き出しました。

 いつの間に帰ってきたのでしょう。と、言うよりも、私はどれほどの時間、我が子の首を絞めあげていたのでしょうか。

 秋人くんは必死の形相で、冷や汗を流しています。

 ああ、よかった。生きてた。自分で手にかけておいて、「生きてた」なんてほっとするのもおかしな話ですが、心の底から安堵したのです。

「ごめ……ごめんなさい……」

 我が子の泣き声に包まれながら、私はその場に膝から崩れ落ちました。

 秋人くんは私と目線の高さを合わせて、背中を摩りながら言います。

「いわゆる、育児ノイローゼなのかもしれないね。任せきりにしてごめんね。俺も育児休暇取るからさ、溜めこまないで。一緒に縁の面倒を見よう」

「うん……うん。ごめんなさい。ちゃんとします。ごめんなさい」

「ふたりでやっていこう。ね」

 私をぎゅっと抱きしめて、秋人くんは縁を抱っこして、あやし始めます。泣き声が止むことはありませんが、これからはひとりではないのだ、という安心感が、徐々に私の心に平穏をもたらします。

「縁、ごめんね」

 秋人くんの腕に抱かれて泣いている縁の頬を撫でます。

 この子が秋人くんの子供だったなら、どれほど幸福だったでしょう。

 

     〇


 いっそ、堕ろせばよかったのです。

 どちらの子かわからない心配があったのならば。

 憎い男の子供であるという可能性があったのならば。

 縁という名前は、私がつけました。

 それは、小説家である私に碓氷が初めてつけてくれた筆名でした。実際今使っている筆名は、違うものなのですが。この子が碓氷にあまりにも似ていたから、その名前しか、使ってはいけないような気がしたのです。

 そんな、強迫観念に駆られたのです。

 ひととの良縁をたくさん結べるように……などという、もっともらしい理由をつけると、秋人くんは「いい名前だね」とほほ笑んで同意してくれました。

 違うんです。それは、私たちの憎んでいる、碓氷悠一の作った名前なのです。あの男が私に歪な愛情をこめて贈った名前なのです。どうか、気づいて。お願いします。

 けれど、そんなこと知る由もない秋人くんが、私の提案に文句を言ってくるはずなんてありませんでした。

 縁。その名前は、私と碓氷の、切れない縁をも表しています。

 私は今後の人生、縁が生きている限り、碓氷との縁を大切に育ててゆくしかないのです。

 ああ、死にたいなあ。今すぐ死んでしまいたい。

 この子を殺して、私も。


     〇


 もう、チョコレートを食べる気にはなれませんでした。


     〇


 秋人くんは、あれからすぐに育児休暇を取ってくれました。男性社員の育児休暇はなかなか事例がないそうで、少々大変だったらしいですが、私がもともと体調を崩しやすいことを会社の方も知っていましたから、なんとか半年間の休暇を許されました。

 そうして、一月二十日。秋人くんの育児休暇が明けるころ。

 私のおなかに、また、ひとつの命が宿っていることがわかりました。

「名前はどうしようね。性別はどっちだろう。楽しみなことがたくさんあるね」

 秋人くんの幸せそうな笑顔を見て、胸が痛みます。

「そうだね」

「次も、久美に似ている女の子がいいなあ」

 おなかを撫でて、耳を当てながら、秋人くんは目を閉じました。

 違ううんです。縁は、私に似ているんじゃない。あなたに似ていないというだけなのです。本当は、あの子は――

「そうだね」

 言えるわけがありませんでした。言える、わけがない。

 秋人くんのことを本当に愛しているのなら、言った方がいいのかもしれません。けれど、私はもう戻れないところまで来てしまっています。今更、言えるわけがないのです。言ってはいけないのです。

 本来なら、私は、「あなたに似ている子供が欲しい」と言うべきですし、言えるものなら、そう言いたい。秋人くんに似ている子供が欲しい。

 絶対に叶うことはない、願いです。

「久美」

 秋人くんが、いつものように優しい声音で私の名前を呼びます。

 ……ああ、嫌だ。あの言葉を言わないで。

「俺さ、久美みたいな〝かわいい〟お嫁さんを貰えて、本当に幸せだよ。ありがとう」

 ひとの……愛するひとの笑顔で、これほどまでに傷つくことがあるでしょうか。

 あなたの笑顔を、もう、純粋な気持ちで受け止められない。心から嬉しいとは思えない。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 もっとあなたと素敵な恋をして生きてみたかった。ずっと一緒に笑っていたかった。

 私があなたを、裏切ったのです。


     〇


 ――三か月前。


 私は今日も、とある安アパートの呼び鈴を鳴らします。

 ここは三〇二号室。

 鍵は開いています。私が来ることが、あらかじめわかっていたからです。

 部屋の扉を開けて、内側から鍵を閉めます。あがったらすぐのところに居間があるので、内扉を開けて、中にいる人物と目を合わせます。

「今日も時間ぴったりだね」

 ここは、碓氷悠一の借りている部屋です。

 部屋の端に手荷物と上着を置いて、碓氷の座っているベッドに腰をかけます。

 碓氷は私の頭をひと撫ですると、言いました。

「じゃあ、脱いで」

 言われるがまま、私は服を上から脱いでいきます。

 いつも、ここで、私たちは当然のようにセックスをしています。

 なにも碓氷に脅されているわけではありません。私は望んで、ここに来ています。

「ほら、こっち向いて」

 強引なキスに逆らうこともせず、私はそれを受け入れます。すると、舌を捻じこむのと同時に、口の中に、甘い甘いチョコレートが流しこまれてきました。

 この男はこうして、いつも私にチョコレートを食べさせてきます。なにを意味しているのかは知りません。ただ、おそらくこれは、碓氷と一緒にいたときの、碓氷の中の私を、秋人くんと一緒になった今の私に押し付けているのだと……そう、思います。

 私の口の中を堪能するように舌で蹂躙すると、碓氷は唇を離して言いました。

「君は好きだよね。チョコレート」

 気持ち悪い。本当に、嫌な男だと思いました。

 でも、今、私の口内に広がるこの味だけは、嫌いになれそうにありません。

 だってこれは、私と秋人くんの恋そのものなのですから。


     〇


 狭く薄暗い部屋の中に、私たちの吐息だけが響きます。

 私は碓氷に、されるがままに足を持ち上げられ、無感情に抱かれます。

 そして、いつものように伝えます。

「ちゃんと、中に出してよ? 二人目、三人目が、あなたに似ていないと……秋人くんに似ていない子供じゃないと、縁が他の人の子だってバレちゃう。縁に……縁に、似た子供じゃないと……」

 それを聞いた碓氷は、そのまま動きを速めて、私の膣奥深くで果てました。びくびくと陰茎が脈打っているのを感じます。碓氷の表情は、真顔です。なにを考えているのか、わかりません。わからなくて、いいのですけれど。

 私のことで、碓氷の表情筋が動くことは、もうありません。

 膣から陰茎が引き抜かれると、碓氷の精液がどろりと溢れ出てくるのがわかります。


 もしも、既に、おなかの中に赤ちゃんが宿っていたら。

 きっと今頃、どちらの子かわからない胎児は、子宮の中に注ぎこまれた碓氷の精液に、溺れていることでしょう。


     〇


 蕩けるような恋をしました。

 それは甘くて、時にはほろ苦い、思っていた通りの極上のスイーツでした。

 けれど私は、美味しいところだけ味わうことは、出来ませんでした。大好きなチョコレートのお供に、望んでもいない、大嫌いなコーヒーを差し出されたのです。

 でも、このコーヒーの酸味と苦みのおかげで、チョコレートはより甘く感じるというのですから、皮肉なものです。

 秋人くん、ごめんなさい。きっと次の子も、碓氷によく似た子供です。

 心の中でいくら謝っても、私の行いと、それに伴う結果は正されません。生まれた命を取り消すことは、出来ません。

 ひととして終わってしまった私を、どうかだれも許さないで。


     〇


 ――七か月後、八月三十日。


「ただいま。久美、退院おめでとう」

 無事に第二子を出産した私は、子供と共に帰宅していました。晩になって家に帰ってきた秋人くんは、手に大きな箱を持っていました。

「わあ、どうしたの、それ」

 にこにこと笑顔を浮かべて、秋人くんは箱を開けて見せてくれます。

「退院祝いと、出産祝いだよ。久美に喜んでほしくて、買ってきちゃった。はい、チョコレートケーキだよ。好きでしょ?」

 食卓テーブルの上に置かれたチョコレートケーキは、それはそれは甘く美味しそうで、生々しく饐えた唾液の匂いが、ない交ぜになって鼻腔を刺激してきました。

「……うん、好き。ありがとう」

 秋人くんは、「よかった」と言って、私の頭を撫でてきます。

「久美のその〝かわいい〟笑顔が見たかったんだ」

 秋人くんの期待に応えられない女になってはいけません。精一杯取り繕います。


 私は今、上手く笑えているでしょうか。


     〇


 私は今日も、あの三〇二号室の呼び鈴を鳴らします。

 ああ、また、過ちを繰り返してゆく。   


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縁(よすが) 早河縁 @amami_ch

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