15 紺青

 「行ってきます。ノアさん。」


 そう言って私は借家から出ました。この村に滞在する間、私たちは村外れの誰も住んでいない家を貸してもらう予定です。


「行ってらっしゃい。」


 ノアさんの温かい声に見送られて私はアートの家に向かいます。と言っても徒歩30秒ですけどね。ノックを3回した後、ドアを開けるとベッドの上には目を覚ましたアートが座っていました。


「おはようございます。よく眠れましたか?」


「ああ、おはようスカイさん。よく眠れたのかなぁ?最近は眠ってばかりな気がするけど。」


 そう言って無理に笑顔を作ってみせるアート。やつれた顔に骨のように痩せてしまった体を見て、私は………


 いえ、暗い雰囲気にしてはいけませんね。私の仕事はアートと一緒にいて話し相手になることです。私は早速椅子をそばまで持ってくると腰掛けました。


「ねぇ……スカイさんはこんな事していいの?」


「こんな事とは?私は一応旅人?なので時間に余裕はありますよ。そんな事よりアートは何かやってほしい事とかありますか?」


「おっぱい揉みたい。」


「却下です。」

「え?それ以外ないよ。」


 なんという事ですか。いい年こいておっぱいおっぱいって。


「あなたはおっぱい大好き星人なんですか。」


 私がキレのいいツッコミを入れると彼はケラケラと笑った後、ゴホゴホと苦しそうに咳き込みました。慌てて背中をさすり、落ち着いたところでまた椅子に座ります。


「俺のお母さんは隣の街の出身なんだ。」


 やっぱりですか。知ってましたよ。だってあなたおっぱい大好き星人じゃないですか。


「でも街を追い出された。俺と同じ病気だったらしいんだ。そしてこの村で親父と結婚して俺を産んだんだ。」


 お爺さんから聞きました。彼の病は発症した時点で死が決まっているものだと。そんな病を抱えて生きるのはどんな気持ちだったのでしょう。


「辛くないのですか?」


「辛い?ん〜……あまり思ったことがないかな。生まれた時からこの病気とは一緒だったし。余命僅かだってことも知ってた。これが当たり前だと思えば辛くはないよ。」


 そんなことを言ったって、死ぬには早過ぎます。もっと生きていたい。そう思わないのですか。


 でも私はその言葉を口に出せませんでした。


「俺には夢があったんだ。」


 彼は唐突にそんなことを言い出しました。私はアートの話すことを黙って聞きます。


「それはハーレムだ。」


 幻滅です。ガッカリですよ。


「この島を出て、いろんなところを渡り歩いていろんな人と関わって、いろんな人に恋をする。そして恋される。」


 でも馬鹿にできません。誰もが馬鹿にするようなアホみたいな夢だけれど彼にとっては自分が元気だったらやりたい本当の夢なのです。


 その日はそんな馬鹿みたいな話ばかりをしていました。



 それからも私は彼の家に通いました。


「ねぇ、スカイさんはあの神父さんとどんな関係なの?もしかして付き合ってたりするの?」


「え?それは言えませんね。秘密ですよ。」


「え〜何それ。……ゴホッゴホッ!」


「大丈夫ですか?」


 そんな会話をしたり、


「ねぇスカイさんはウエディングドレスって着てみたいと思う?」


「ウエディングドレスですか?そうですね………」


 私はその姿をちょっとだけ想像します。


「あ、赤くなった。スカイさんかわい〜!あの神父さんとのことを考えたね。」


「か、考えてません!」


 こんな会話もしました。話している間はとても楽しそうにしているアート。それでも彼は目に見えて弱っていました。


「おはようございますアート。おや?今日は少し元気そうですね。」


 今日も借家からアートの家に向かうと彼はベッドの上に座っていました。窓の外を見ながら穏やかな青空を見上げています。


「空ってどこまで広がってるのかな?」


 また唐突ですね。空に何かあるのでしょうか。


「さぁ分かりません。きっとどこまでも広がっているのですよ。」


「そうなのかな。それなら俺は鳥になりたいな。この広い大空に大きな翼を広げて羽ばたくんだ。こんな病気なんかに縛られず、何にも縛られない自由な生き物。」


 彼はどこか儚げです。何を思っているのでしょう。何を感じているのでしょう。私には分からない。分かりたいのに。彼にこんな顔をして欲しくないのに。


「ねぇ、僕の人生に意味はあったのかな?」


 アートは私の顔を見て言いました。その目には微かな涙が浮かんでいます。


「分かりません。私はこの数日しかアートのことを知りませんから。」


 だからはっきりしたことは何も分かりません。正確なことは何もわからない。


「でも、生きていただけで意味はあったと思いますよ。だってあなたの名前は墓跡に残ります。それはどんな些細なことでも残ると思うのです。」


 そうです。かつてノアさんが言っていました。


「たとえあなたが死んでもあなたの面影は名前として、そして記憶として残るのです。」


「スカイさんは俺のことを覚えていてくれる?」


 アートは言いました。消え入りそうな声で。私は心の誓いながら言います。


「ええ、もちろん。私が覚えている限りあなたは永遠に生き続けます。実は私人間じゃないんですよ。」


 私は彼に微笑みました。するとまた、彼も微笑みます。骨張った顔をクシャリと歪ませて。


「知ってたよ。だってソックリだもん。俺の親父は君を創って正解だな。」


「え?それって……」


 しかし、アートはそんな私の疑問を遮って言いました。


「最後に一つだけ聞かせて。」


 最後なんて言わないでください。そんな言葉が出ません。彼は力無くベッドに横になりました。さっきまで元気そうだったのに。今はこんなに弱ってしまって。


 まだ生きていてほしい。その言葉を言って仕舞えば苦しむ彼をもっと苦しめてしまいそうで言えない。


「なんですか?」


 私は無力です。話を聞くことしかできないなんて。そしてアートは静かに言いました。


「ありがとう……」


「質問じゃないですよ。」


 しかしその返答は返ってきませんでした。静かに閉じられた瞼は一生開くことはありません。


 紺青の空には白い鳥が羽ばたき、まるでアートを連れて行ってしまったようでした。でも寂しくなんかありません。


 別れには慣れました。慣れたつもりです。私はホムンクルスです。こんなのちっとも悲しくない。




 ノアさんは神父としての務めを果たしました。アートは村人に見送られ、棺に入れられました。


 村人たちは泣いていました。それは何を思って泣いたのでしょうか。この人たちは彼の夢を知っていたのでしょうか。知っていたなら笑ってしまいそうですけど。


「運命はかえられないのかもしれないね。」


 ノアさんが言いました。十字架をキツく握りしめたノアさんは棺のそばでそっと佇んでいます。


「どういうことですか?」


「この子も僕も君すらもあの男に翻弄されているということだよ。まぁこの子に関しては君のおかげで幸せな死を迎えられたようだ。」


 さぁ、果たしてアートはそうだったのでしょうか。そもそも死に幸せなんてあるのでしょうか。私じゃなかったら彼はもっと幸せだったかもしれないのに。


「どうしてそう言い切れるのですか?」


 そう聞く私にノアさんは棺のアートを指差しました。


「だって見てごらんよ。彼はこんなにも清々しい笑顔で眠っているじゃないか。」


 確かにそうでした。彼はどうなったのでしょう。この笑顔から察するにもしかしたら鳥になって空を飛んでいるのかもしれません。


 大空、スカイを。


「スカイ、ほら。」


 ノアさんがハンカチを渡してきました。でも私は受け取りません。だって、


「いりませんよ……だって私……泣いてないですから。」

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