サンゴの夢
早河縁
サンゴの夢
色とりどりの美しいサンゴ礁の広がるエメラルドグリーンの湖に腰まで浸かって、ざぶざぶと水の抵抗に逆らいながら、湖の中心に大きく聳え立つ広葉樹の小島に歩を進めると、どっこからか赤ん坊の泣き声が聴こえてきて、私はどうしてか「急いで赤ん坊のもとに行かなければ」と急かされたような気持ちになる。
先ほどまではこの美しいサンゴ礁を壊してはいけないと、慎重に彼女たちを避けて歩んでいたけれど、どうにかして赤ん坊のもとに早く辿り着きたいと思った私は、まるで我を忘れたかのように必死になって、足元のサンゴを踏みつけにして湖の中央を目指した。
固いサンゴを踏み壊しているために足の裏に嫌な感触が残るけれど、今はそんなことに構っていられなかった。
私は赤ん坊のところに行かなければならない。
私の纏っている白いワンピースは腰まで水に濡れて、小島に足を踏み入れると重たく私の歩を阻んだけれど、その程度でこの歩みを止めるわけにはいかなかった。着実に近づいている赤ん坊の泣き声に私はほっとして、それと同時に、泣き声の主を辺りを見渡して探した。
「ああ、こんなところにいたの」
大きな広葉樹の、地面に顔を出した根の股に寄りかかるようにして、真っ白なおくるみに包まれた赤ん坊が泣いていた。私が急いで抱き上げると、それまで異常なほどに泣いていたはずの赤ん坊は、嘘のようにぴたりと泣き止み、私の顔を見上げるるなり、
「ま、まー」
と、可愛らしい声で一言発した。こんな生まれて間もないような赤ん坊が喋るわけが無い。そうとはわかっていても、私はなんだか、この赤ん坊に「まま」と呼ばれたことに対して大きな喜びと幸福感を覚えた。
赤ん坊の容貌は普通の赤ん坊とは随分異なっていて、産湯に浸かる前のような真っ赤でしわしわの皮膚に、髪の毛は異様に少なく、頭が大きくて、手指がしっかりしておらず、しかし目は開かれていて、その瞳には白目というものが存在しておらず、まるで絵具で塗り潰したかのように真っ黒だった。
それでも私にとってこの赤ん坊は我が子のように思えて、見た目の美醜などどうでもいいことだった。この子は私を求めて大きな声で「ここにいるよ」と泣いていたのだ。そしてこんな私のことを「まま」と呼んでくれた。
私がこの赤ん坊を可愛がる理由なんて、それだけで十分だった。
「そうよ、私があなたのままよ。寂しかったでしょう。我慢して、偉かったわね。これからはずっと一緒だからね」
私がそう声をかけて、まだすわっていない首を支えながら体を左右に揺らしてあげると、赤ん坊は嬉しそうに笑った。
そこで、私は目覚めた。
遮光性のない水色のカーテンが、窓の外の朝日を透かして室内をぼんやりと優しく照らしている。ゆっくりと体を起こして枕元のスマートフォンを確認すると、時刻は午前五時だった。私が起きても、横で眠っている夫が起きることはない。
まだこんな時間ならもう一度眠ってしまった方がいいなとは思ったけれど、横になっても私が再び値付けることはなかった。妙に目が冴えて仕方がなかったのだ。あの不思議な夢の中に、もう一度行きたいのに。赤ん坊が寂しがって、また泣いているかもしれない。そう思うと不安にもなってきて、余計に眠れなかった。
そうこうしているうちに、夫のスマートフォンに設定されたアラームが寝室に鳴り響いて、早くも時刻が六時半になったことを私たちに知らせた。
「おはよう、乙葉。もう起きてたの? 早いね」
いつもはアラームで起きた夫に起こされている私が既に目を開けていることに気が付いた夫は、少し驚いたような顔をした後、私におはようのキスをしてきた。
「おはよう」
「……どうしたの? なんか怖い夢でも見た? 起こしてくれてもよかったのに」
「怖い夢、ではないよ。大丈夫。ありがとうね」
いつまでも夢のことを気にしていても仕方がないし、起きて夫のお弁当と朝食を作らなければならないから、ずっとベッドにいるわけにはいかないと、私は急いで体を起こし居間へ向かったが、突然立ち眩みがして、思わずその場に座り込んでしまった。
「乙葉! 大丈夫? 無理はいけないってお医者さんが……」
すぐに駆け寄ってきてくれた夫は私の背中を大きな手で擦って心配そうな顔で声をかけてくれた。それにしても、夫は何を言っているのだろう?
「お医者さんがどうかしたの?」
「え……? ああ、いや、なんでもないよ。とにかく、具合が悪いなら俺が朝食の準備をするから、乙葉はまだ横になってていいんだよ」
一瞬困惑したような表情を浮かべたかと思うと、焦ったように笑顔を浮かべて話を逸らす夫に多少の違和感を覚えながらも、立ち眩みが酷いのは事実なので、ここは夫の申し出に甘えて少し横になることにした。
夫が料理をする音を聴きながら、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
一瞬、あの美しいサンゴ礁を目に映した気がしたけれど、すぐに夫の声で現実に呼び戻された私は、なぜか涙を流していた。
「乙葉、大丈夫?」
「え、あ……うん。なんで泣いてるんだろう。変だね。ご飯ありがとう、少し横になったら眩暈もよくなったよ、ご飯食べよう」
「うん。まあ、大丈夫ならいいんだけど……ごめん、目玉焼き、少し割れちゃったよ」
「あはは、大丈夫大丈夫」
私が笑うと、夫はどこかほっとしたかのような表情を浮かべて、心配してくれているのか、私の背中に手を添えながら居間に私を連れて行った。
夫を会社に送り出して、私も自分の仕事をしようとパソコンを開き椅子に腰かけると、なにやら股からなにかどろりとした液状のものが出てきたような嫌な感覚がした。生理の出血の時のような……急いでトイレに駆け込むと、生理用ナプキンに大量の血液が着いていた。
あれ、私、いつの間にナプキンなんて着けていたんだろう。というより、どうして着けていたんだろう。疑問に思いながらも、下着が汚れずに済んだことにとりあえず胸を撫で下ろして、私は生理になったのだと思いナプキンを新しいものに取り換えて、パソコンを開いたままのデスクに戻った。
私はフリーランスとしてライターの仕事を在宅でしているので、一日中パソコンに向かっていることが多い。夫もデスクワークなので、休日は二人でマッサージし合ったりして、躰を休めて過ごしている。
仕事中、結構な頻度で出血の感覚があったので、今回の生理は量が多いのだなあと憂鬱な気持ちになりつつも、合間に洗濯などの家事をしつつ、十七時ころまで集中して業務に取り掛かり、夕飯の買い出しに出かけた。
貧血気味なのか、歩いている最中は時々眩暈を覚えたけれど、なんとか買い出しを終えて、帰宅後は夕食の支度にとりかかった。夫は好き嫌いなくなんでも美味しいと言って食べてくれるので、献立には迷うけれど毎食作り甲斐があって、本当にいい夫を持ったなとつくづく思う。
「ただいま」
玄関から夫の声がする。もうそんな時間かとスマートフォンの画面を確認すると、十八時半を回っていた。
「おかえり。もう少しでご飯出来るから」
「急がなくていいよ。いつもありがとうね」
夫の優しい言葉に心の中で感謝しつつ、作り終えた夕食をテーブルに並べて、二人で向かい合っていただきますと手を合わせ食事をする。いつも通り美味しそうに食べてくれるので私は嬉しくなった。
「ところで、体調は大丈夫?」
私を気遣う発言に、朝の立ち眩みのことで心配をかけてしまったのかとすぐにわかったので、まだ少し眩暈のする感覚はあったけれど、笑って「大丈夫だよ」と答えると、夫は安堵の表情を浮かべた。
「少しよくなったと言っても、無理はいけないからね」
「うん、わかってるよ、大丈夫。今日は少し早く寝ようと思う」
私の言葉に夫は「それがいいね」と言って笑った。この優しい夫に無用な心配をかけてはいけないと、私はひとまず自分の身を案じることを優先した。
早く寝ようと思う、と言ったのは体調面を思ったためではあるけれど、理由はそれだけではなかった。
まだ、あの赤ん坊の夢が忘れられないのだ。
真っ白な空の元、眼前に広がるのはあの壮観なサンゴ礁が透ける、綺麗なエメラルドグリーンの湖と、その中央に聳える大樹だった。
ああ、私、またあの夢の中に来られたんだわ。
柔らかく肌を撫ぜていく春の匂いのする風に、私の心はふわふわと浮足立つ。耳をよく澄ませて、あの赤ん坊がどこかで泣いていないか探すけれど、かすかにも泣き声は聴こえてこなかった。しかしその代わりに、まるで私がこの夢にやってきたことを喜ぶかのように、可愛らしい声で赤ん坊が笑っている声が聴こえてきた。
私は一片の迷いもなく、白いワンピースを着たまま湖の中に足を踏み入れ、中央の大樹の生る小島を目指して歩みを進める。心なしか、昨日よりも水位が上がっているような気がした。骨盤のあたりまでの深さだったように感じるけれど、今日は臍のあたりまでの深さだった。
やっとの思いで小島に辿り着くと、赤ん坊は昨日と同じように、木の根の股に寄りかかるように居て、白いおくるみに包まれて、宙に手を伸ばして笑っていた。
「ごめんね、寂しかったでしょう」
赤ん坊は私の顔を確認すると、指の極端に短い手をこちらに向かって伸ばし、笑いかけてきた。なんて可愛らしい子なのだろう。
「ま、まー」
赤ん坊は昨日と同じように、私を「まま」と呼んだ。私はそれが心から嬉しくて涙を流した。
「はい、ままですよ」
そう答えると、赤ん坊はきゃっきゃと甲高い声を挙げて、手を振って喜ぶような動作を取った。私はこの子に母親として求められているのだ、という使命感に似た感情を抱き、この子に名前を付けてあげることにした。
そう、そうよ。名前がないと可哀想だもの。それに、我が子に親が名前を付けるのは当然のことであって、それは親としての義務でもある。
「春花ちゃん」
この子が女の子であるというのは、なぜか知っていた。
この夢の中は春のようなあたたかな風が吹いていて、見上げれば広葉樹の緑が初春を感じさせるから、きっと季節は春なのだ。夢の外も、今は春。夢は現実を反映しているというから、きっとここも春なのだ。
私の名前は乙葉。植物に葉が付けば、花が咲き、実が生り、実は種を地に落とし、やがて芽が息吹けば、また新たな葉を開かせて、次の花を咲かせていく。生命は、そういう風に繋がって、生き続ける。
この子は私の子。この春に命を繋げていく意味を込めて、私は娘に「春花」と名付けた。
春花は目を細めて真っ黒な瞳を三日月形に歪める。喜んでくれているようだった。
「そう、春花ちゃん、名前を気に入ってくれたのね。ままも嬉しい」
それから私は、春花の寄りかかっていた木の根の股に腰かけて、春花を抱いたまま体を揺らし、出来る限りの優しさを込めて、子守唄を歌った。春花は心地よさそうに目を閉じて、そうしているうちに眠ってしまった。その愛らしい寝顔を見ていると、私も次第に眠くなってきて、あたたかい空気に包まれながら意識を手放した。
目を覚ますと、そこはいつも通りの寝室で、相も変わらずカーテン越しに部屋に挿し込む朝日は、この空間のすべてを淡い水色に染めていた。時刻は午前五時。やはり、起床するにはまだ少し早い。そうは思ったけれど、昨日からの経験則的にどうせ眠ることなど出来ないと思った私は、夫を起こさないようにそっとベッドを抜け出し、スマートフォンを持って居間に行きテーブルの前に座った。
どうしようか迷ったけれど、私はブラウザアプリを開いて、検索ボックスに「赤ちゃん、抱っこ、夢占い」と入力した。検索結果によると、今の私の精神状態としては、悩みを抱えていて不安定になっているそうだ。
悩みなんてあったかしら。夫も優しく家庭は円満で、仕事も上手くいっているから、特に思い当たることはない。不思議に思いながらも、まあ、所詮占いなのだから深く気にする必要もないかと、頭の片隅に留めておく程度にして、あたたかいコーヒーでも飲もうと台所に立った時だった。
突然眩暈がしたので立っていられなくなり、床に膝と手をついて、視界のぐらつきが治まるのをじっと待った。その時、また生理の出血の感覚があって、二日目だから体調が優れないのだと納得した。やがて眩暈も治まり立ち上がることが出来たけれど、生理中にカフェインの入っているコーヒーはよくないと思ったので、代わりにホットミルクを飲むことにした。
体があたたまってほっとしていると、まだアラームの音は聴こえてきていないけれど、夫の起きてくるような気配がしたので、寝室の方に視線を向けて「おはよう」と声をかけた。
「きゃあっ!」
そこに居たのは夫ではなかった。
およそ扉の半分を超すくらいまでの背丈の、産湯に浸かる前のような真っ赤でしわしわの皮膚に、髪の毛は異様に少なく、夢で見た姿よりもずっと
頭が頭が大きくて、手指がしっかりしておらず、しかし目は開かれていて、まるで絵具で塗り潰したかのように真っ黒な瞳をした、あの、夢の中で会った赤ん坊――春花が扉の縁に掴まって立ってこちらをじっと見つめていた。
突然現れた、夢の中と同じようで違う春花の姿に驚いて、私は思わず声を挙げてしまった。
春花は色のない唇を音もなく動かして、しばらく口をぱくぱくさせたかと思うと、
「ま、まー」
とはっきりと口にした。そして、春花は扉から手を離して、よたよたとこちらに向かって歩き出してきた。
すると、私の小さな悲鳴を聴いて飛び起きてきた夫が寝室から飛び出してきた。
「乙葉! どうしたの!?」
床にへたり込んで寝室の方を見ている私に夫は駆け寄ってきて、私の前で膝をついて目線の高さを合わせてくる。
「い、今、春花が……春花が……」
気が付くとそこに春花のようなものの姿はなかった。
今の今まで、確かに、そこに居たのに。
「春花? ……乙葉、昨日も今日も早起きをしたから、きっと寝不足なんだよ。疲れてるんだよ。寝室に戻って少し横になろう?」
優しい声音でそう語りかけてくる夫の言葉に私は頷き、夫に体を支えられながら寝室に行き、ベッドに横になった。
さっきのはいったいなんだったのだろう。どうして夢の中でもないのに、春花がいたのだろう。いや、そもそもあれは本当に春花だったのだろうか。夢の中の春花は私の腕の中に収まるくらいの小さな赤ん坊だったし、あんなに頭が大きくはなかった。当然、掴まり立ちやよちよち歩きが出来るような歳ではない。
春花のようで、春花ではないなにかの幻覚を見たというの? そうだとしたら私、どこかおかしいんじゃないかしら。……ううん、きっと、夫の言うように寝不足で疲れているんだ。そう思うことにしておこう。
あれ? そういえば……私、夫に春花の夢のことを一度でも話したかしら。
夫はどうして、春花のことを知っていたのだろう――
その夜もまた、夢を見た。
あの美しく透き通るエメラルドグリーンの湖の水位は昨日よりも高くなっていて、足を踏み入れ水に浸かると、白いワンピースはあばらのあたりまで濡れてしまった。春花の声も聴こえないのにどうして湖に入ってしまったのかはわからないけれど、私はとにかく中央に大樹の聳えるあの小島まで行ってみようと思った。
今までよりも水が深いから、前に進むのもやっとだ。重たい水をかき分けて、なんとか小島まで辿り着くも今度は深い水の中から島にあがるのに苦労した。やっとの思いで島にあがると、どっと疲労感が襲ってくる。まだ、春花の声は聴こえない。
木の根の股を見ると、そこにはおくるみに包まれた昨日と同じ姿の春花がいた。
「ああ、春花、春花ちゃん」
抱き上げるも、春花は泣き声も笑い声も挙げず、私をただじっと真っ黒な瞳で見つめていた。朝のことには驚いたけれど、夢の中の春花はきちんと春花として存在している。この子は間違いなく可愛い私の子、春花なのだ。
「独りぼっちにしてごめんね」
春花はなんの反応も示さないけれど、私は春花が無事であることに安心して、とにかくこの事出来る限り一緒にいてあげようと、抱っこしたまま木の根の股に寄りかかり、昨日と同じように子守唄を歌ったり、春花に話しかけたりして、あっという間に過ぎていくh時間を過ごした。
夢の中は幸せだ。
春花がいてくれるこの夢は、私にとっての楽園なのだ。天にも昇るような幸福感に包まれながら、私は目を閉じた。
一回の瞬きのうちに、世界は現実に変わった。
また、水色に染まった世界での一日が始まる。
あれから私は何度も何度も夢の世界で春花と逢った。もう何日続けてあの夢を見たのか、途中から数えるのをやめてしまった。夢の外の世界でも、何度も春花に会ったけれど、現実で会う春花の姿は、以前見た時と同じように、いつも決まって夢の中とは少し違い少々不気味にも思える異様な姿だった。
けれど私を「まま」と呼んで歩み寄って来てくれる姿を見ていると、この子も春花には違いないのだと次第に思えるようになり、私は呼びかけに応えるようになって、夢の外でも春花に話しかけるようになった。
夫がいる時に春花が現れることはない。朝方、夢から覚めた私が一人で居間にいる時に姿を見せてくれるので、夫が眠っている間だけ、私は夢の外でも春花と触れ合うことが出来る。そして、夫のスマートフォンのアラームが鳴ると、煙のように消えてしまうのだ。
幻覚でもなんでもいい。少しでも長い時間、「春花」と一緒にいたい。そう思った。
夫が起きてきたら、私は「おはよう」と声をかけて、朝ご飯とお弁当の支度をして、夫と一緒に食事をし、夫を送り出して自分の仕事をする。仕事の合間に家事をして、夕方は買い出しに出かける。晩ご飯を作ったら夫が帰って来るので、食卓を囲んで、お風呂に入って少し談笑したら寝室に行く。
そうして、またあの夢の世界に行くのだ。
そんな毎日を過ごしていた。私は幸せだった。
性器からの出血は日によって量が違うと言えど、二週間程度続いたので、なにかおかしいとは思ったけれど、もともと生理不順で少し異常がある体なので、生理の期間が極端に短かったり長かったりしても病気などではないだろうと思った。
「今日も一日お疲れ様」
労ってくれる夫の優しい言葉に「ありがとう」とお礼を言って、私は今日もいつものように、夢の中の春花に逢いに行く。
色とりどりのサンゴ礁は、一度壊してしまったものは次の夢でも元には戻らないらしく、毎日私が踏みつけているから、何日目かもわからない夢では、もうぼろぼろになっていて、その光景はお世辞にも美しいとは言えなくなっていた。
水位は日に日に高くなっていて、いつからか水底に足がつくこともなくなって、ついには大樹の生る小島に渡るためには、泳いで行かなければいけなくなっていた。髪まで濡らして小島に辿り着いたら、水を吸ってずっしりと重たくなった白いワンピースの裾を絞って少し身軽にする。
春花は今日も、大樹の根の股におくるみに包まれて寄りかかっていた。
笑いかけてくれた二日目の夢以来、夢の中の春花は泣きも笑いもせず、私を「まま」とは呼んでくれなかったけれど、今日は私の顔を見るなりきゃっきゃと甲高く笑い声を挙げて、指の短い手をこちらに伸ばしてばたばたと振り、
「まま」
とはっきりとした口調で言った。
私は嬉しくなって、すぐに春花を抱きしめて頬ずりした。
「春花ちゃん、私の可愛い赤ちゃん。私がままよ。ああ、どうしてなのかな。ずっと、ずうっと、春花と一緒にいられたらいいのにね。そうしたら、春花もままも寂しくないのに。まま、ずっとここにいようかしら。ねえ春花。まま、ずっとここにいてもいいかな?」
私がそう語りかけると、春花は笑った。
「そう。そうだよね。春花もままと一緒がいいよね。わかった、約束だよ。まま、ずっとここにいるから。春花とずーっと一緒にいるからね」
私の言葉に春花は喜んでいる様子だった。しかし、その時だった。目の前に聳える大樹の幹からしなやかな枝が何本も伸びてきて、私の腕の中にいる春花に絡みついてきたのだ。
この木は、私から春花を奪おうとしている。
そう確信した私は必死になって、依然笑っている春花を奪われまいと枝を手でかき分けて、木の幹に飲み込まれていく春花をなんとかして助けようと藻掻いた。
「待って! 春花!」
徐々に木に飲み込まれていく春花は自身が危機にさらされているというのに、どうしてか笑顔を絶やさない。枝はどんどん春花に絡みつき、包んでいくようにして、幹に春花を飲み込んでいく。
「やめて、どうして……!」
私の抵抗も虚しく、あっという間に春花の体は大樹の一部と化してしまった。
悲しくて悔しくて、我が子を守れなかった無力な自分が情けなくて、涙が止まらずその場に座り込むと、大樹の幹――ちょうど、春花が呑み込まれた場所が淡く緑色に発光して、その光は、木のてっぺんまでゆっくりと昇って行ったかと思うと、木を抜け出して、宙へ浮かび、白い空へと上昇してやがて見えなくなってしまった。
「春花……」
呆然と空を見上げていると急に眩暈がして、私はぐらぐらと揺れる視界に意識が保てなくなり、横に倒れこむようにして寝転んだ。
はっとして目を覚ました。
時刻は午前五時。まだ眠っている夫を起こさないようにしてベッドを抜け出し、居間に向かう。夢の中で春花が消えてしまったことが信じられなくて、夫が眠っている今の時間なら、いつものように夢の外でも春花に会えるのでは、と考えたのだ。
「春花?」
居間に静かに響く私の呼びかけに応えはない。
しんと静まり返った居間に立ち尽くし、いつまで経っても春花が現れないことから、本当に春花が消えてしまったことを実感した。足の力が抜けてその場に座り込むと、年甲斐もなく、わあと声を挙げて泣いた。私の突然の泣き声に驚いて飛び起きてきた夫は、私の背中を擦りながら、
「乙葉、どうしたの? 大丈夫?」
と焦ったように問いかけてきた。
私は今までの夢の内容を夫に打ち明けた。そして、夫が眠っている間も春花が毎日現れて触れ合っていたことも。夫は少し悲しそうな顔をして、私の話に耳を傾けてうんうんと相槌を打っていた。
話し終えて私がしゃくりあげていると、夫は深呼吸をしてから言った。
「乙葉、今から言う話をよく聞いてね。春花はもう、いないんだよ。気味のおなかにいた、君が名付けた、君がだれより会うことを楽しみにしていた春花は、四十九日前、気味のおなかの中で死んでしまったんだよ。体も健康じゃなかった。それでも産むと乙葉は言っていたけれど、だめだったんだ。乙葉は、それが辛くて悲しくて、覚えていなかったみたいだけれど……本当のことなんだよ。黙っていてごめんね」
夫の言葉の一つ一つが信じられなかった。
つまり、どういうこと?
私は、おなかの子を亡くして、おかしくなっていたの? だからあんな夢を? だから幻覚を見ていたの?
その瞬間、私の脳内に、鮮明な記憶が流れ込んできた。緑色の処置室で産声を挙げない春花を産んだこと。先生や助産師さんの申し訳なさそうな表情。小さな棺。火葬場の匂い。少なすぎる骨を、私と夫の二人で、箸で拾って壺に仕舞ったのだ。
居間の片隅に、小さな観音開きの仏壇があることに、今気が付いた。
涙が止まらない私の手を握りながら夫は、
「きっと春花は、天国に行く前に、大好きなままに会いに来てくれていたんだよ」
と言って、悲しそうに笑った。
夫にもずっと気を遣わせていたのだと思うと、申し訳なさで心がいっぱいになった。
「春花、ちゃんと天国に行けたかな」
私の言葉に、夫は即座に答えた。
「行けたに決まってるよ。次も、俺たちのところに来る準備をしに行ったんだよ。だから、春花の準備が出来るその時まで、一緒に待とう」
春花。私の可愛い赤ちゃん。私の子。
ちゃんと産んであげられなくてごめんね。
次に会う時は、ままに元気な産声を聴かせてね。
「ま、まー」
その呼びかけに、私は後ろを振り返る。そこには、なにもない。
「乙葉?」
夫の不思議そうな顔に、私は涙を拭って笑いかける。
「なんでもないよ」
私の言葉に安堵の表情を浮かべる夫には、言えない。
サンゴの夢 早河縁 @amami_ch
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