ひだまり荘
haruka/杏
第1話
「先輩、こんなことってあるんですかね」
秋山が涙声になりながら小さく呟いた。堺は畳の上で横になったまま動かない秋山をチラリと見る。
シャツがめくれあがり、腹部が露わになっていた。肉体系のバイトばかりしているだけあって少し前に見たときより引き締まったいい身体をしている。
「今、お前の身に起きてるじゃないか」
「そうですけど」
「今更、後悔しても遅いだろ」
堺はそう言うと、手に持っていた缶ビールをひと息に飲み干した。
「そうですね。でも、信じられません。こんな……こんなことって」
秋山は勢いよく飛び起き、
「ナンパも合コンもしてないのに夏休みが終わるなんて!」
「残念だったな」
向かいに座る滝川がビジネス書から顔を上げることなく言った。こんなに心のこもっていない労いの言葉もあまりないだろう。堺は思わず苦笑する。
「もっと心をこめて言え」と秋山は滝川を恨めしげに睨んだ。
「なんでこめなきゃいけないんだ」
キッパリと言い切る滝川に秋山は飛びかかった。
恒例のプロレスごっこの始まりだ。
夏休みの間、各々バイトや飲み会で忙しなくアパートを出入りしていたため、これまでのようにみんなで集まって酒を酌み交わすことができないでいた。久しぶりのバカ騒ぎに堺は満足げに息をついた。
開け放たれた窓に視線を向けると、その先に白銀の満月がぽっかりと浮かんでいた。古びた木製の額縁の中にすっぽりとおさまった満月は静かにこちらを覗いている。
惹きこまれそうになるほど美しいと思った。黒く塗りつぶされた背景が効果的なまでに白銀に輝く月の妖しい美しさを際立たせている。
――そういえば、彼は月の名を持つところに住んでいた。
普通とは違うものをもって生まれてきたというのに、手の届かないものばかり望んでしまうのはどうしてだろう。
「俺は馬鹿だ。なんであんなにバイトを入れちまったんだ!」
滝川に馬乗りになった秋山が、よっぽど悔しかったのか頭を抱えながら雄叫びを上げた。その悲痛――秋山にとっては――な叫びが可笑しくて、堺は現実の世界に引き戻された。
「重いっつーの。自分が悪いんだろ」
なおも二人のやりとりは続いている。滝川は秋山の身体を押しのけようとするが、「お前ばっかりいい思いしやがって」と休み中、合コン三昧だった滝川の脇腹を秋山がくすぐり始めた。
反撃方法が可愛すぎる。堺は微笑ましくなり、くっくと肩を揺らして笑った。
ここまで賑やかな住人はこれまでにいなかった。年下の一年ばかりで、しかも個性派揃い。最初はどうなるかと心配していたが、慣れてしまうとコレがないまま一日が終わると物足りなさを感じるようになっていた。
「ちょっ、やめっ」
笑いながら手足をばたつかせる滝川に、「やめてよ。
「掃除しろよ」
珍しくバカ騒ぎに参加しない陣内に堺は声をかけた。いつもなら
「先輩。俺にだって、できることとできないことがあります」
開き直られた。もしかしたらフリかもしれないので一応
「お前は何ができるんだ?」
「俺が知りたいです」
今度は真顔で返された。斬新。
「なるほど。まぁ、学生中に見つけることだな」
「見つかるといいんですけど」
「お前次第だろ」
「ですねぇ」
他人事のように答えると、陣内はまた漫画に視線を戻した。
休み前に数人の友達から借りたという大量の漫画本。陣内は休みの間、家からほとんど出ずに毎日漫画を読み
「面白いか?」
ひと昔前に流行った漫画に熱中する陣内に堺は尋ねた。陣内は何も答えず、ただ小さく1回頷いた。集中したいのだろう。それ以上、堺は陣内に話しかけるのをやめると秋山たちへ向き直り、滝川を羽交締めする秋山に、「アッキ、どっか連れてってやろうか?」と声をかけた。
その途端、秋山はピタリと動きを止めた。そして滝川の上から急いで下りると、「丁重にお断りさせていただきます」と深々と頭を下げた。
「受け付けません」
「急に体調が」
「よくなったか? よかったな。夏休み最後にいい思い出作ってあげようじゃないか。いい先輩だなぁ、俺って」
にっこりと秋山に笑いかけると、「じゃあ、俺に運転させて下さい」と秋山が頬を膨らませながら言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます