ただ側に居るだけ

茶子

第1話 誰でもないアナタ




燻る、煙が躍る


昇る、白く濁った線



胸を締め付けるような、そんなアナタの背中











【誰でもないアナタ】





「ねえ、ねえねえねえ」

「あー…?」


 背中には痛々しくもどこか凛々しい緑のような赤のような絵が浮かんでいる。線の細かいその絵が、空へと昇る竜だと気付いたのは中学生になってからだった。



「シゲ、それ美味しいの?」



 マイルドセブンの箱が、すこしくしゃくしゃになった状態で小さなテーブルの上に投げられている。硝子の大きく立派な灰皿は、誰も入らせないというようにぎゅうぎゅうに吸い殻を纏っていた。

 上は着ずに裸で、滑らかな肌をしたゴツゴツしてるけど華奢な身体。下は立派なスーツを着たまま、ベルトをだらんと垂れさせている。真っ暗の髪はパーマで遊ばれているけど、丁寧に切り揃えられてもいる。

 ぼーっと、ローベッドの端に座っているその人は、ゆっくりとジッポを机に置いた。ことん、と静かな部屋に響くその音を心地よく…見つめる私を素通りするように、どこか冷たい。



「今日は何時に帰るの?」

「…さぁ」

「ねぇ、ねぇ。そろそろ私も大人だよ」

「そうなのか」

「…うん。オトナ」



 ぼーっとして聞き流されてるな、と気づくまでに時間はかからなかった。なんだろう、それでも何故か心地よい安らぎを感じる。…ドエムなんだろうか、わたしは。



「オトナなら、もうここに来るなよ」

「え、イヤダ」

「……、大人じゃねーな」



 こちらを一瞬見て、薄茶色の目が私を捉える。包み込むように息をふっと吐き出して、その目はどこかへまた流されて行ってしまった。

 私はお気に入りのクマのパジャマをぎゅっと左手で握り、丸くなってそこにある背中に唇を寄せようと、…



「…大人だろ、やめとけ。」



 体の関係だの、片思いで苦しいだの、そういう名前があるだけ世の中の恋愛というのは羨ましいと思う。関係性に名前があるだけ、名前を知ってもらっているというだけで、心を一瞬でも通わせたと錯覚させて貰えるだけ………。



「シゲ?」

「ずっと呼んでるけど、それ、俺の名前?」



 くすくす、と笑われる。髪の毛がわさわさと茂っているように見えるから、勝手に呼び始めた名前。私はこの男の名前も知らない。

 …それでも、毎日夜はここに来てしまう。



「名前教えてよ」

「名前」

「…馬鹿にしないでよ」

「大人扱いしてる」



 両親は私をとても愛してくれている。だから、「信じてるよ」と言い「きちんと連絡は入れなさい」と言い「自分で責任のとれる行動だけをするんだよ」と言った。大好きなお母さんとお父さん。…少し悲しそうな顔で、言わせてしまっている、ちくりと胸を刺す針のような痛み。



「…悪い大人ばっかりだから、もうやめとけよ。俺も悪い大人なんだよ」



 そう言いながらタバコを灰皿の淵で潰した。煙が切れ、灰がふわっと舞う、舞う、舞う…。

 悪い大人と言いながら、頭以外に私に触れることの無い男の人。私に何も求めない男の人。そして、言葉以上に突き放すこともなく、ただ同じようにここに帰る人。



「シゲは、女の人とえっちしたことあるの?」

「えっちって何?」



 クスクスクス、と笑いを漏らしながらそう言った。決死の覚悟で聞くのに、こんな具合でかわされてしまっては…なんと恥ずかしいことか。乙女心が火を吹きそうだ。



「…、知らない」

「俺も知らない。…朝だ」



 カーテンの隙間から青白い光が見えた。午前6時前のこの瞬間は、いつも押しつぶされそうになる。

 毎日、午前6時は……別れを覚悟する張り裂けそうな……時間。



「毎日飽きない奴だな。」



 足元にあったブランケットに絡まったシャツを着て、ベルトを締める。

 …かれこれ一ヶ月『誰でもないアナタ』と、こうして別れと再会を繰り返し続けているのだ。










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