エッセイ・短編集
辻井紀代彦
1.ノイズ・キャンセリング機能のジレンマ
去年の秋頃、僕は念願のワイヤレスイヤホンを手に入れた。名前はろくに暗記できないような数字とアルファベットの羅列だが、とにかくソニー製のもので当時最新のものを買った。
数年前までは音楽プレーヤーの純正イヤホンでケーブルに合わせるかのようにかすかに指や足先を揺らしながら車窓を眺めていると、ちょっと垢抜けたヤングマンの端くれになったような気分だったのに、今ラッシュの中で見かけるそういう人間は少し貧乏くさいか尖っているかみたいな印象だって抱かれかねない。流石にその程度は生理的嫌悪感をもたらすほどじゃないにしても、シティ・ボーイたちにとってそういう些末なみすぼらしさは深刻なことでもあるのだろう。
東京のビルの間には少しでも遅れた人間に泥を撒き散らす空気の濁流でもあるんじゃないかと疑りたくもなってしまうけど、僕も漏れなくそんな窮屈で冷酷な街に通い詰める若者の一人だ。
とにかく流されるがままに僕は、新宿のヨドバシカメラでベテランらしい店員さんの鼻先に三万円を叩きつけてこのイヤホンを買った。なかなか苦しい出費ではあったものの、イヤホンはその対価に十分見合う性能を発揮して僕のクオリティ・オブ・ライフの向上に貢献してくれている。
ケーブルの煩わしさの解消や音質の良さ、イカした見た目等々その魅力を挙げだせばキリが無いが、なんといっても極めつけはノイズ・キャンセリング機能だ。イヤホンが
にしても、どうして街というのはこんなにも雑音であふれかえっているんだろう。駅のホームに行けば、耳鳴りのするようなアナウンスと車輪がレールを切りつける音、幾何学的で情緒の薄い(一部のマニアはそれを愛しているようだけど)発車メロディとかが素敵なリリックを全てかき消してしまう。それでもまだ歌詞が聞こえないのは我慢の効くところだが、映画など見た日にはセリフを軒並みぶっ飛ばされて鑑賞どころではない。こういう機能が一般的になっている今、そこにストレスを感じていた人は山ほどいたということなんだろう。
実際僕にとってもこの商品との出会いはまさしく
しかし、この機能で音を享受することに対し、わずかに寂しい気持ちになることもある。
なんということもなくイヤホンをつけないまま電車に乗り込んでいたときがあった。車椅子用の手すりに腰掛けながら横目に車窓から滑りこんでくる景色を眺めているうちに、僕はやっぱりいつもながらに音楽を聴きたくなって、バッグのポケットへと手を伸ばした。対抗の電車がすれ違ったのはそのときだった。
空気が爆裂するような音の後に、駆け抜ける二本の電車の線路を擦る音が尾を引いた。なんてことはない、電車に乗り慣れている人間なら当たり前に流すべきノイズだった。でもその瞬間、脳天から突き抜けてきた慄きの感情が、僕の肩をブルッと震わせた。同時に、僕が以前初めて体験したその爆音への驚嘆と、それに慣れるまでこの電車の中で重ねてきた時間や経験が脳裏に走馬灯として立ち現れた。
大げさな話かもしれないけれど、本当にそんなことが起こった。
自分をそういう音から遠ざけてきた、静寂のプレッシャーとでも言うべきものを僕はそのとき初めて認識した。今まで僕の周囲に身を横たえていた、不分明な音の連なりたち──草を薙ぐ風の音だとか、女子高生の少し
それは仕事に忙殺されたサラリーマンが気怠い朝、路傍に
だけど、ノイズ・キャンセリングは僕から何かを奪っていった。それが自分にとってどこまで大切なもので、これからそれが人生の中でどう影響を及ぼすのかも、僕には知り得ない。しかしそれでも確かに、このイヤホンを手にする前と後で僕の世界は変わった。
イヤホンを着けノイズ・キャンセリングを起動した僕の周囲には、かつて友だった音たちが、懐かしい笑みを浮かべて佇んでいる。時折そんなノスタルジーに駆られて、イヤホンを外してしまう。
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