第8話 誰が悪いのか、きっと誰にも分からない

「偶然だな」


「偶然じゃないです、聞きたいことあります」



 言われ、お兄ちゃんは私たちの方を見る。



 少し、驚いているみたいだ。



「聞きたいこと?」


「はい。どうして、前に女遊びしてるだなんて嘘をついたんですか?」



 もう、アドレナリンがとんでもないことになっているらしい。こんなに真っ直ぐ切り込まれた事、いくらお兄ちゃんでもないと思う。



 それに、理由は察したようだ。



 ……一瞬だけ、ため息をついたように見えた。



「嘘だって思うの?」


「当たり前じゃないですか。あんな対応する人が、遊んでるだなんてありえません。人の形は、そう簡単には変わらないんです」



 でも、あれだけ真っ直ぐだったら、流石のお兄ちゃんでもテンパって綻びを――。



「まぁ、色々と言いたい事はあるけど」


「なんですか!?」


「俺に、どうしてほしいの?」



 言って、お兄ちゃんは眼鏡を抑え微笑んだ。



 化け物だ。



「……え?」


「どうにも、アマネの感情が読めない。だから、教えてくれないか?」


「ず、ず、ズルいですよ! 私は! どうして、嘘をついたのかって……」



 お兄ちゃんの顔を見て、アマネの語尾が弱まっていく。



「聞いてる、だけなんです……」



 ……そう。



 理由なんて、みんなとっくに分かっている。



 いや。



 嘘だと判明した時点で、分からざるを得なかったというべきだろう。



「聞きたい?」



 そんなワケがない。



 事実を突き付けられる事が、どれだけのダメージになるのか。想像すらしたくない。



「アマネ、もういいよね」



 私、もっとちゃんと止めてあげられたハズなのに。



 ホント、最悪だ。



「わ、私。私は」


「大丈夫だから、行こう」


「……フラレてた、んですよね」



 頑固で一途だからこそ、呟かずにはいられなかったらしい。



 でも、冷静になれば気付かないハズがない。嫌われる為の嘘なんて、体のいい断り文句でしかないのだから。



「ごめんね」



 お兄ちゃんは、真剣だった。きっと、もう一歩でも踏み込めば、理由を教えてくれたと思う。



「あ、謝らないでください。だって、コウさんは気付かないようにして、して、くれてて。……あれ」



 だって、そういう人だもん。



「あんた、早く消えて」



 もう、可哀相で見ていられなくて。



 誤魔化すように低く呟くと、お兄ちゃんは静かに離れていった。



 お兄ちゃんがどこまでも優しいから、こんな事になる。



 全部、お兄ちゃんのせいだよ。



 × × ×



 やっぱり、お兄ちゃんの帰りは遅かった。



 しかし、いつもと違ったのは、今日はお母さんとお父さんも帰ってこない日である、ということ。



 夫婦水入らずの時間を作るきっかけは、お兄ちゃんの提案だった。



 とある高級ホテルのチケットを持ち帰って、二人へプレゼントしていたのだ。



 だから、それぞれが会社の飲み会で遅くなる日に、勿体無いから使っておいでと進言して、二人は今日をゆっくり過ごす事となった。



 ……ただ、私には、それがどうにも互いの前の人を忘れさせようとしているように見えた。



 考え過ぎかもしれないけど。二人の記念日だから、プレゼントしただけなのかもしれないけど。



 でも、どうしてもそういうふうに思ってしまったのだ。



「……遅いよ」



 たくさんの事を、聞きたかった。



 アマネの事を、どう思っているのか。サクラの事を、どう思っているのか。チヅルの事を、どう思っているのか。それに、他の女だって。



 勉強は大変なのか。生徒会は辛くないのか。優しくフる意味とか。恋人を作らない、の理由とか。



 私を、どう思っているのか。とか。



 でも、待てど暮らせどお兄ちゃんは帰ってこなくて。気が付けば、既に22時。せっかく温めた夜ご飯も、すっかり冷めている。



 ご飯を食べながらなら、目を合わせないで話せると思って用意したのに。



 ホント、バカみたい。



「……寂しい」



 罪悪感に駆られて、思わず口を出た言葉。



 グズグズと崩れ藻掻くような、得体のしれない気持ち悪さが、胸の中に渦巻いている。



 それを、収めることが出来なくて。でも、何もない空間の侘しさに我慢が出来なくて。



 だから、そっと目を閉じて耳を塞いだ。



 ○ ○ ○



 お母さんがあの男と離婚したのは、私を守るためだった。



 文字通り、命を守るためだ。



「クソガキが」



 あの男の虐待は、およそ人間の所行ではなかったと思う。



 幼い私の頬を、膨れ上がるまで引っ叩き、服がボロボロになるまで引き回した。失神するような蹴りも入れられたし、おまけに股の中に指を入れられたこともあった。



 何度も、何度も。



 乳歯とはいえ、二本は歯を無くされたし。裸になれば、腿や二の腕は消えない痣だらけ。鼓膜が破けて、耳だって悪くなったし。叩かれすぎて、他の子よりたくさんバカになった。



 そのせいで、私は小学生になっても、まともな言葉を話す事が出来ないでいた。怒りよりも怯えが勝ってしまって、ただ震えているだけだった。



 もう、何もかもが辛くて。生きている理由も分からなくて。けれど、泣けばまた、酷い目に合わされるから。



「……えへへ」



 だから、私は嘘をつき続けた。あの男が不機嫌にならないように、お母さんが不安にならないように。



 ずっと、上手に嘘をつき続けた。



 ……けれど、そんな生活は突然終わった。



 何かに気がついたお母さんが、離婚したからだ。



 若くして結婚して、働き方もよく知らなかったであろうお母さんが。貯金だって無くて、頼れる人もいないのに。ただ、私を助ける為に離婚してくれたからだ。



「お腹空かせちゃって、本当にごめんね」



 毎晩、私を抱き締めて、泣いて謝っていたけど。私は、お母さんが優しくしてくれるだけで、心から幸せだった。二人でいられるだけで、心が温かかった。



 他には、何もいらないと思っていた。



 ……それから、5年の月日が経って、お母さんは再婚した。



 相手は、東京に住んでる優しそうなおじさん。どこか上品で、清潔で、頭の良さそうな人だった。



 そのおじさんには、中学生の息子がいた。



 それが、お兄ちゃんだ。



「よろしく」



 しかし、最初の一ヶ月は怯える私に優しくしてくれたのに。ある日突然、お兄ちゃんは冷たくなった。



 本当に、なんの前触れも無かったハズだ。



「ミコ、俺に近寄るな」


「なんで? 私、お兄ちゃんと遊びたい」


「ダメだ、俺は忙しい。公園で遊んで来い」


「でも、まだこっちに来たばかりだから、友達いない」


「知るか、人形と話してろ」



 高学年になっても、私の擦り減った心のトラウマは、なかなか消えてくれなくて。



 だから、新しい友達も作れなくて。でも、もうお母さんに心配をかけたくなくて。お父さんは、まだ大きい大人の人が怖くて。



 相談、誰にも出来なくて。ずっと、一人で泣いていた。



 ……数日後、お兄ちゃんは一人暮らしを始めた。



 けど、お兄ちゃんに突き放された日に、自分で何とかしなくちゃいけないんだって意識が芽生えていて。泣いていたって、何も変わらないんだって分かり始めていて。



 だから、前よりもっと、上手に嘘をつけた。



 強がって、前を向いて、優しいフリをしていれば、周りに人が集まってくるって気が付いたから。そうしていれば、誰かが私を見てくれるって気が付いて、ようやく前を向けたのに。



 ……そんな時、お母さんが泣いていたあの夜が来たのだ。



「帰ってこないって、どうして……?」


「傷害の罪だ、少年院へ送致される事になった。相手の男は、未だに意識不明の重体。もう、まともに歩くことは出来ないだろう」


「なんで今日まで教えてくれなかったの!?」


「コウの頼みだったからだ。あいつは、罪を自覚している。罰も、必ず自分で受けると言っている。だから、俺は弁護士として職務を全うした」


「なら、どうしてコウは――」


「『あの男が生きていれば、妹は一生怯えて生きていかなかればならなかった』。それが、コウの最後の言葉だ」



 その時、私はお兄ちゃんに、肩の痣の理由を聞かれた事を思い出していた。



 だから、すぐに分かったのだ。



 一人暮らしだなんて、真っ赤な嘘だったんだって。



 お兄ちゃんは、自分が逮捕されるって分かっていたから、私に辛く当たったんだって。



 たった一ヶ月で、真相を突き止めて。



 もう、あの時には私の過去を知っていて、あの男を殺すつもりでいたんだって。



 ……私は、弱い。



 自分のトラウマを克服出来ず、ずっと怯えて震えて。



 お兄ちゃんが、どれだけ優しいのかなんて、一度も疑わずに。



 どうして、急に冷たくなったのかなんて、一度も考えずに。



 過ちを、止めてあげる事も出来ずに。



 嘘をついて、お兄ちゃんを悪だと決めつけて、全ての恨みをぶつけて責任転嫁する事しか出来なかったのだから。



 お兄ちゃんは、自分の罪を償い社会に復帰する為にどれだけの苦労を求められるのか、分かっていたに違いない。



 ……それに、方法は正しくなかった。



 自己犠牲と呼ぶのもおこがましい、ありえちゃいけない事だ。私はバカだけど、お兄ちゃんが絶対に超えちゃいけないラインを超えたのは分かった。



 どれだけ憎い相手でも、ここが日本である以上、そんなことはダメなんだって。頭では、正しく理解してるつもりだ。



 事件だって、肯定するつもりもない。ましてや、感謝するだなんてもっての外だ。



 ……でも、心が納得を許してくれない。



 好きでいることを、辞めさせてくれないのだ。



 私を、助けてくれたんだって。この世界で、お母さんと同じくらい、私のことを本気で思ってくれたんだって。



 お兄ちゃんが、あの男をやっつけられる強いお兄ちゃんが、ずっと側にいてくれるんだって。



 だから、安心して今を生きていられる。



 それが、私の片想いの正体だ。



 ……でも、兄妹という関係に、私は酷く葛藤してしまって。



 どうしても、その気持ちを正直に伝える事が出来なくて。



「つーか、近寄らないで。キモいから」



 再会したあの日、何も知らないフリをして、もう一回だけ嘘をつく事にしたのだ。

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