或るアパートにて①
猫の額ほど狭いアパートのベランダが、俺にとって唯一の憩いの場であった。しかし今、その憩いの場を奪われかねん事態が差し迫ってきている。
嫌煙気質にある同居人を慮って俺は自らベランダに出ることを決めた。初めのうちは、換気扇で煙を逃していたが、次第に背中を通じて睥睨を感じ始める。そうなると話は早い。煙の行方を紛糾するより、早々に退散して憩いの場を形成するのが建設的なのである。誰にも文句を飛ばされず、しずしずと煙を燻らせる場所があるだけで俺は幸せを享受できる。なのにも関わらず、隣の部屋の室外機が吐き出す異臭で、ひどく気を揉んでいた。今から一週間前の水曜日、午後八時頃。一日の苦労を水に流すための慣例にベランダへ出た。百円ライターの火を煙草にあてがい、愛煙家の手本として口が膨らむほど大きく息を吸い込むと、溺れるようにして紫煙を吐き捨てしまった。胸の辺りから熱いものが迫り上がってきて、俺は慌ただしく柵の向こう頭を伸ばす。
喉の奥に感じる熱気を舌が誘導し、吐き出させた。吐瀉である。鳥の糞が降ってくるより醜悪な飛来物が地面にて音を立てた。数刻前に食したお好み焼きのソースの味が仄かに口内に残っている。久方ぶりの嘔吐はなかなかに味わい深く、薄い衝立の向こうを穴があく程凝視した。
もはや扱いは公害そのものである。町の一角に透明な箱を用意し、喫煙を可視化することによって、時代錯誤な喫煙家の姿なりを衆目に晒す目的がある。嗜好品としての煙草はもはや廃れて然るべき時代がきた。しかし、俺は一向に迎合するつもりはない。親しみ慣れた行動を白眼視を受けて改めるなど、些か可笑しな話だ。
ぶーんと腹の底に響く低い音を奏でる室外機の音が、そんな俺の矜恃をいとも容易く折った。同居人の反応は頗る悪く、キッチンの換気扇で煙を逃す姿が他に類しない罪深さにあたるらしい。歌舞伎役者に例えて流し目の外連味を伝えたところ、「茶化すな」と一喝された。どちらが悪いこともない。共生に伴う支配欲は往々にして立ち現れるものだし、それで袂を分かつことになっても、仕方のない話だ。
「隣に住んでた外国人、引越したんだな」
「え?」
同居人が留守の合間に友人を招くのが習慣だった。話題はいつも他愛もない世間話に終始し、無為な時間の過ごし方をしていた。
「おまえ、隣人がどんな奴かも知らなかったの?」
「そりゃあ顔なんて合わせないし」
アパートで隣人付き合いをするなど、あり得ないだろう。出来るなら、挨拶を交わすだけの関係に留めておきたい。俺は件の臭いの愚痴を落とすように、大袈裟な思案のフリをする。
「今は誰が入ってるんだろうなぁ」
すると友人は、勃然と怒りだすかのように語気を強めて言った。
「はぁ?! 空室だよ。隣は空室」
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