第19話 かわいいね
黒髪黒目の少女の名前を胸中で唱えた、フォルトは右手から窓に視線を戻す。
すると、そこに今しがた思い浮かべていた相手が映って驚いた。
動揺はつとめて顔に出さないようにしつつ、穏やかに声をかける。
「チョーコ、どうしたんだ?」
振り返ってよくよく見れば、この家の主である少女は箒を手に立っていた。
「……掃除……任せてばかりだと悪いから、私もやろうと思って……」
「あ、いや、自由時間だから好きにしていいんだぞ? これは、俺の趣味みたいなものだから」
「窓を磨くのが?」
「ああ。無心に磨くと、心が落ち着くんだ」
「……邪魔?」
少しだけ、蝶子の眉尻が下がる。
「え!? まさか――違う。ただ、俺が勝手にやってることに、君を付き合わせるのもどうかと思って……でも、嫌じゃないなら一緒に大掃除でもするか!」
「うん。……なにをすればいい?」
「箒持ってるなら、床を掃いてくれるか? あぁ、魔法は使うなよ? どんなに便利でも、頼りすぎは禁物だからな」
蝶子は、大抵のことは魔法で解決できる。
これは、フォルトが共に暮らすようになり知ったことだ。
荒れ放題だった庭先も、なんならこの家だって、魔法を使えばあっという間に整えられただろう。
ただ、必要性を感じなかったからそのまま――それは、蝶子の内面を映し出しているような気がして……フォルトは、だからこそムキになって家を整えていたのかもしれない。
彼女が歩み寄ってくれてからは、掃除は大変だからと魔法できれいにすると言ってくれた。それを拒否したのは、フォルトだ。
神殿暮らしで染みついた癖とでも言えばいいのか、頼りすぎるのは、駄目だと断ったのだ。
人の力で出来る事は、自力でやる。楽ばかりしては、怠け癖がつく。
延々と神殿の教えを語ったフォルトは、押しつけがましい上に面倒くさいのではないかと言ってから慌てた。
だが、蝶子は嫌な顔をしなかった。それならば、自分もやるとフォルトの主張を受け入れてくれた。
心が広く、柔軟性がある。
自分だったら、素直に耳を傾けられたかと考えれば、蝶子の思考は尊敬できた。
(俺の勝手でやってるんだから、放っておいてもいいのに。こんなに一生懸命掃除してくれて……それに……)
こうしてわざわざ来てくれたのは、一緒にいたいと思ってくれたから……なんて考えて、フォルトは自分の都合のいい考えを否定する。
けれど、声をかけてきた蝶子の態度を思えば、やっぱりそうなんじゃないかと思えて……。
黙々と掃除をしている蝶子の姿を、窓ガラス越しに見つめてしまう。
――その時、自分の口元が隠しようもなく緩んでいることにも気付いてしまった。
(待て俺。今かなり気持ち悪いぞ)
自分で自分を咎めるが、緩む表情はどうにも出来ないまま――。
(……あ)
ふと、ガラス越しに蝶子と目が合った。
すると蝶子の表情が変化する。
目尻がほんの少しだけ下がり、口角が持ち上がった。
(――笑った……!)
それは淡い、ともすれば見落としてしまいそうなほど微かな笑みだったのだが、目の当たりにしたフォルトの胸の内に、ある願望が芽生えた。
――彼女が、心の底から笑う顔を見てみたい。
「……きっと、可愛いだろうな」
無意識にこぼれた言葉に、蝶子が「え?」と不思議そうな声を上げた。
「かわいい?」
「へっ!?」
我に返ったフォルトは、自分が口に出した言葉に気付き、一瞬で頬を赤くした。
「いや、ちがう、変な意味じゃ……!」
「フォルトさん、リスが好きなの?」
足音立てず静かに近付いてきた蝶子は、フォルトの横に並ぶと、窓から身を乗り出してそんなことを言い出した。
「は? リス?」
「だって、そこの木にいるのを、じっと見てたから」
「……じっと見てたのはき……――ごほん!」
「フォルトさん?」
「……いや……(目が合ったと思ったのは気のせいか……)」
フォルトは自分の勘違いに気付き、ちょっとだけしょげた。
それに自分が見ていたのは、窓ガラスに映る蝶子だったが……それをさらっと言えるほど、フォルトは面の皮が厚くない――蝶子に対してだけは。
なので、上手い具合に勘違いしてくれたらしい彼女の言に乗ることにした。
「そ、そう、だな。そう、リス! リスって可愛いよな!」
「うん」
頷く蝶子は、素直だ。
動揺していることが丸わかりなフォルトの言葉を、信じている。
「……待ってくれ、すげーかわいい……!」
「うん。木の実持ってるね、かわいい」
「ちっ……~~んぐっ!」
違う、そうじゃない……と余計なことを口走りそうだったフォルトは、慌てて自分の口を押さえたのだった。
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