26 今度は夢ではありません


「綺麗よ、アイシャ」


 晴れ着姿のファテナが、満面の笑みでアイシャを見つめている。彩を纏い、喜びを全身で露わにしたファテナは常にも増して美しい。同性でも見惚れてしまうような美人に容姿を褒められて、アイシャは恐縮してしまう。


「ファテナの方が」

「何言っているの。今日はアイシャが主役なのよ。ほら見て、こんなに可愛らしい花嫁は見たことがないわ」


 半ば強引に手渡された手鏡を持ち上げて、半信半疑で自分の顔を映してみる。楕円の中から、唇に紅を引き瞼に色を乗せた娘が、おずおずとした灰色の瞳でこちらを見返した。


 飾り立てている分、普段よりも幾分かはましである。しかしどうも華がない。それでも、ファテナが賞賛してくれるのならば、ほんの少しだけ自信が湧いてくるのだから不思議である。


 肌を刺す午後の日差しが落ち着き始める頃。集落の中央から、涼やかな風に乗り、伝統楽器が奏でる祝いの旋律が流れてくる。参列者が音楽に合わせて踊る賑わいが目に浮かぶようだ。


「いよいよこの日が来たのね。嬉しくて嬉しくて、今朝は早起きしてしまったわ」


 ファテナはうっとりと目を細め、一人で口を動かし続ける。


「もう少ししたら新郎とご対面ね。アイシャがあまりにも綺麗だから、びっくりして言葉が出ないんじゃないかしら」

「そ、そんなはずないよ」

「あ、そういえば後宮ハレムでもう、おめかしした姿でファイサルと会っていたのよね。砂漠では宮殿の女官ほど着飾れないけれど、大丈夫よ。アイシャはありのままでも魅力的だから」

「あの時は商人の振りをしていたから着飾ってなかったかも」

「じゃあなおさら、びっくりするはずね!」

「うう……、何だかお腹痛くなってきた」


 赤の集落での戦闘から早三か月。いよいよ訪れた婚礼の日。花嫁の天幕内はかしましい声で満たされている。


 最もよく喋るのは無論、姉貴分のファテナだが、集落の子供らも大概である。


 花嫁の天幕内にいるのは年少の女の子らで、彼女らは今、よちよち歩きが楽しい年頃のファテナの息子ザヒルを囲み、競うように世話を焼いている。


 ファイサルと婚礼を挙げることになったと報告した時、少女らの様子はいささか想定外でもあった。どうやら年少の子らは婚姻が何たるものなのか知らなかったらしく、反応が希薄だったのだ。無理もない。赤の集落には夫婦関係の見本となる住民はいなかったし、帝都の孤児院にいた頃も同じようなものだったろう。


 一方、色恋沙汰に興味を持ち始めた年頃の女児達の反応は想像通りであり、根掘り葉掘り質問責めにあった。


 そしてマイムーナやシュルクといった年長組は、驚くでもなく微笑んで祝福の言葉をくれた。シュルク曰く「やっと? 遅かったね」とのことだ。


 シュルクらには以前から、ファイサルとの関係性を見透かされていただなんて、しばらく気まずい思いを隠せなかったアイシャである。


「そろそろ時間じゃないかしら」


 横幕の黒い毛織物越しに聞こえる祝いの音色に耳を傾けつつ、ファテナが言う。アイシャは、内臓を掴まれたかのような痛みを訴え始めた腹を抱え、ぎこちない動作で頷いた。


「うん。時間になったら……ムルシド、が、迎えに、来てくれる……予定」


 本来、新婦を新郎の元へと送り届けるのは、花嫁の伯父である。だが、アイシャには伯父はいない。幼少期から庇護者となってくれた白の族長ラシードと、何かと気遣ってくれる青の族長クトゥーブがその役を名乗り出てくれたのだが、どちらかを選ぶのも筋違いかと思い、結局ムルシドに頼むことにしたのだった。


 沈み始めた太陽が砂丘の稜線へかかる頃、集落の真ん中で婚礼の宴が始まる予定である。


 焚火の側ではそろそろ、巨大な鍋の中で駱駝肉が煮立っている頃合いだ。駱駝の腹の中にたくさんの食材を詰め込み、丸焼きにしてから柔らかく煮込む必要があるため、昨日から丸一日かけて用意された料理である。かなり巨大なので、本日の参列者全員の胃を満たすことが出来るだろう。


 常であれば食欲を誘う香りが、天幕内にも忍び込んで来る。だが、緊張で圧迫されたアイシャの胃は、しばらく一切の食事を受け付けぬだろうと思えた。


 いっそう腹の調子が悪くなり、低く鳴く消化管を押さえて蹲る。そのままアイシャは呻いた。


「アイシャ、そんなにお腹が痛いの? どうしよう。そろそろ時間なのに……」


 ただならぬ様子のアイシャ。異変に気付いたファテナが戸惑いの声を上げたと同時に、垂れ幕を掻き分けた隙間から、蜂蜜色の髪の少女が現れた。シュルクである。


「え、どうしたのアイシャ」


 肝心な時に問題を起こしてしまう自分が情けない。驚愕に目を丸くしたシュルクの顔が直視できず、膝を抱えたアイシャは上目遣いに少女を見上げた。


 目で訴えかけられたシュルクは事態を察したらしく、大仰おおぎょうに肩を落として溜息を吐く。


「はあ、もしかして腹痛? 本当に情けない。用を足しに行く? それとも広場へ行く? もう皆が待っているけど」


 腹痛と言っても、今はただ鈍く痛むだけである。それに、皆が花嫁の天幕を注視している中、用を足すため砂漠へ飛び出すなど、一生の恥になる。


 アイシャはほとんど涙声になりながら答えた。


「ひ、広場に……」

「あ、そう。じゃあ早く立って行こう」


 当然のように差し出された手を取りかけて、アイシャは怪訝に思い首を傾ける。


「ムルシドは?」

「代わってもらった」

「代わって?」


 驚きのあまり無意味に復唱し、シュルクの顔を見つめる。少女の頬が徐々に紅潮し、やがて視線を逸らされた。


「私が付き人するの。……文句ある?」

「な、ないよ。でも」


 アイシャはなんとか立ち上がり、シュルクの視線の先に身体を移動させる。


「シュルクは、その」


 アイシャのことが嫌いなのではなかったか。疑問はもちろん、言葉にはしない。それでも、困惑は少女に伝わったらしい。


 二人の間に、よそよそしい空気が流れる。やがてシュルクは視線を燭台辺りに向けたまま、たどたどしく言った。


「今さらだけど、この前は、ご、ごめん……なさい。アイシャの言う通りだった。砂漠は、思いつきで簡単に飛び出して良いような場所じゃなかった。迷惑をかけてごめんなさい」

「シュルク」


 アイシャは胸から込み上げた温かなものが喉元から遡上する感覚を覚えた。危うく涙が浮かびかけ、全身に力を入れて感情の爆発を抑え込む。


「ううん、シュルクが無事だったらそれだけでもう良いの。あたしも、無神経な言い方をしちゃったから。だから」

「あのね」


 シュルクはアイシャの言葉を遮るように続けた。


「私、アイシャのことも、本当は好きだよ。だから……その。と、とりあえず、今日はおめでとう」


 不器用なシュルクの精一杯の素直を掻き集めた言葉達が、アイシャの胸を打ちつけた。


 これまでは、アイシャがいくらシュルクを慈しんでも、心を通わせることはできないと思っていた。だがシュルクは今、アイシャを祝福するために自ら付き人かって出て、心の内を少しずつ吐露してくれている。


 その優しい事実が心を強く揺さぶって、これ以上堪えることは叶わない。熱いものが込み上げ、とうとう目の縁から大量の塩水となり零れ落ちた。


「ア、アイシャ!」


 成り行きを見守っていたファテナが慌てて声を上げ、手巾で押さえるようにしてアイシャの涙を拭い取る。白粉おしろいが涙の形に剥がれ落ちた無様な顔面を皆の前に晒すことになってはならぬのだ。そんなことになれば喜劇であるし、やはり一生の恥になる。


 だが、どうしても感涙は止まることを知らない。アイシャは手巾を受け取り目頭を押さえた。


「ううっシュルク。あたしも、シュルクのことが大好きだよ。これからもずっと、仲良くしてね」


 号泣するアイシャへやっと目を向けたシュルクは、先ほどの殊勝さを一転。全身に呆れを滲ませつつ、顔を顰めた。


「うわぁ……やっぱりさっきの言葉はなかったことに」

「そんな!」


 衝撃でむしろ涙が引っ込んだ。すかさずファテナが横から手を伸ばし、アイシャの顔に白粉を叩く。辛うじて涙の跡が薄れたところで、追い立てるようにアイシャとシュルクの腕を引いた。


「ほら二人とも、早く行かないと皆待っているわ。お話は明日からも毎日できるんだから!」


 ファテナの言う通りである。アイシャは洟を啜ってから、未だ渋面のシュルクの腕を取った。


 ファテナが垂れ幕を上げる。


 その途端、夕刻の赤光が照り付ける。陽気な音楽とご馳走の匂い、柔らかく肌を撫でる乾いた風が、五感を優しく刺激する。


 アイシャとシュルクは寄り添って、幾何学模様の絨毯から砂上へと足を踏み出した。


「アイシャ」


 ファテナが背後から呼びかけて、満面の笑みを浮かべながら砂に一筋の水滴を落とした。


「末長い幸福を」


 祈りの言葉は水に乗り、本日最後の陽光に照らされて蒸発し、水神の元へと還っていく。


 水神ならばこの願い、必ず叶えてくれるだろう。そうでなくともアイシャは確信しているのだ。いつかこの身が砂となり、精神が水へ還る日にはきっと、幸せな人生だったと言い遺すはずだろうと。


 アイシャは今や、独りではない。


 遠く離れても確かな絆を感じる異母兄いぼけい。ファテナや砂竜族の同胞。可愛らしい赤き砂竜のアルとエル。シュルクをはじめとする集落の子供らに、まだ見ぬ赤の氏族の仲間達。そして、広場の中央でアイシャを待つ伴侶のファイサル。


 彼らと共に過ごす人生ならば、未来にどんな苦難が待ち受けていたとしても、最後には大きな幸福で塗り替えられていくだろう。


 空は薄暗くなりつつある。前方、焚火に照らされて赤く浮かび上がる新郎は、柄にもなく緊張した面持ちだ。


 普段は鈍感なファイサルも、この日ばかりは感ずるところがあるらしい。アイシャは自然と頬が綻ぶのを感じた。それからゆっくりとした足取りで、彼の元へと歩んで行った。

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