17 敵と味方

 次の瞬間、ムルシドが放った矢が鋭く風を切り、敵へと向かう。だがそれは、いとも簡単に刃で弾かれてしまう。


 ムルシドが奥歯を噛み締めて、次なる矢をつがえようとする。アイシャは渾身の力で少年を引き寄せた。


「危ないっ!」


 勢い余り引っ繰り返るアイシャに折り重なるようにして、体勢を崩したムルシドが倒れ込む。


 間一髪、先ほどまでムルシドの首があった辺りに、銀色が一閃した。


 恐怖に喉が張り付いて、悲鳴すら上げられない。敵は天幕を切り裂き、内部に詰めるのが女子供だけだと気づくと、あからさまに安堵の息を吐いた。伏兵を恐れていたのだろう。


「何だ、砂竜じゃねえのか」


 屈強な大男である。太い腕を見る限り、アイシャの首など一捻りで締め上げることが出来そうだ。ぞくりと背筋に悪寒が走る。


 ムルシドは直ぐに体勢を立て直して立ち上がり、再度弓を構えた。


 鈍色に煌めくやじりが己の額を狙っていることを理解した大男の頬から、緩んだ色が消え失せる。代わりに浮かんだのは、嗜虐的な笑みである。


「良い気概だ少年。だが、歯向かう相手は選ばないとなあ」


 鞍上から刃が振り下ろされて、ムルシドの弓が真っ二つに折れてしまう。圧倒的な力の差にムルシドは一歩後退った。このままではムルシドが斬られてしまう。


 恐怖で震えが止まらない。できることならば、天幕の隅に隠れて何も知らない振りをして目と耳を塞いでいたい。だがしかし、今やアイシャは守られるべき立場ではない。自分よりも弱き者を守るため、この身を挺してでも動かねばならぬのだ。気づけばアイシャは、護身用に絨毯の上に置いていた短剣を掴み、ムルシドの前に進み出ていた。


 閃く銀の軌道に入り込み、短剣で曲刀きょくとうを受け止める。だが、膂力の差は歴然だ。弾き飛ばされた短剣は弧を描き落下して、絨毯に深々と突き刺さる。


 続けざまに刃が降ってくる。アイシャはムルシドを背に庇い、傍らにあった革水筒で剣を防ごうと試みる。しかし、駱駝の胃で作られたそれは呆気なく切り裂かれる。


 一拍遅れて右腕に激痛が走った。革水筒から飛び散った水と、腕から溢れ出す鮮血が、ぼたぼたと音を立てて足元に滴った。


 目を向ければ、以前アジュルの炎に焼かれた痕の残る右腕に、ぱっくりと割れた赤が見えた。幸いなことに、傷は骨まで達していない。


 致命傷でないとはいえ、あまりの痛みに涙が滲み、握力が出ない。これ以上の抵抗など不可能だ。震えながら、大男を見上げる。星々を背景に、笑みを浮かべた男の瞳が異様に輝いて見えた。


 きたる衝撃を思い絶望し、きつく目を閉じるアイシャ。


 鋭利な物が風を切り分け肉に深く突き刺さる音が、頭上から降り注ぐ。痛々しい音が鼓膜を抉るようである。


 だが、新たな痛みはない。もしや子供らが犠牲になったのか。アイシャは瞼を開け、そして絶句した。


 先ほどまで煌めいていた大男の目が淀み、振り上げた手から曲刀が滑り落ちる。男は数度痙攣した後、口の端から血泡を吐いて、鞍上から横倒れに落下した。


 主人を失い、手綱の束縛から逃れた駱駝は悲鳴を上げ、戦線を離脱して遥か遠くの闇へと溶けて行く。先ほどまで大男がいた場所に現れた救世主の姿を見て、アイシャは安堵に全身の力が抜けるのを感じた。


「ファイサル」

「皆、無事か」


 額に汗を浮かべやってきたファイサルが、駱駝の背から飛び下りて駆け寄って来る。片手には弓を持っていた。大男を背後から射たのは、ファイサルだったようだ。


「アイシャ、怪我を」

「大丈夫。そんなに深くないから、押さえておけば……」


 言いつつも、傷を圧迫する左手の指の隙間から、赤が滴っている。


「ア、アイシャ。これを」


 震えを帯びた声と共に、布が差し出された。マイムーナだ。


 手元がおぼつかないマイムーナから布を受け取り、ファイサルがアイシャの腕を取る。止血のため、腕の付け根と裂傷部をきつく巻いてから、低く言った。


「戦いはもうすぐ終わる。後でちゃんと治療をしてもらおう」


 赤茶色の隻眼が、苦し気に揺れている。真摯な光を見上げたアイシャは、痛みを堪え頷こうとして……次の瞬間目に入った衝撃的な光景に、硬直する。ファイサルの背後に、振り上げられた曲刀の銀色が禍々しく忍び寄っている。


 刃を防ぐどころか、声を上げる間もない。冷酷な死が迫る。瞠目したアイシャは一切何もできぬまま、次に訪れる惨劇を覚悟した。


 だが、運命は彼を見捨てはしない。刀は何かに弾かれ軌道を逸らし、ファイサルの苦悶の呻きの代わりに響いたのは、肉を斬り裂く鈍い音と、敵の叫びであった。


 自身の背後で起こった戦闘に、ファイサルが振り返る。


 そして、アイシャと同様に目を剥いた。


「相変らず詰めが甘いな、ファイサルさん」


 刃を伝う赤い雫を払いながら言ったのは、夜色の髪と瞳を持つ、端正な顔立ちの男である。アイシャもファイサルも、彼のことを知っている。それゆえ、あまりにも想定外の助っ人の姿に、絶句してしまったのだ。


「お久しぶりです、アイシャさん。そしてドゥラ」


 絨毯の上で腰を抜かしていたドゥラの薄紫色の瞳から、涙が一筋溢れ出た。


「ワシム様?」


 ドゥラの呟きが、冷め始めた戦いの熱気に溶けて行く。気づけば敵は、すでに戦意を喪失し、大人しく縄に掛けられていた。

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