7 髭男

 夏とはいえ、砂漠の夜は冷える。それを抜きにしても、有毒のさそりや蛇が現れる可能性があるので下手な活動は危険である。過去、屋外に布を敷いて昼寝をしたことはあるのだが、夜行性動物の蔓延はびこる時間帯に野宿など、できることならば遠慮したい。夜間に良く分からない虫や小動物が身体の上を這っていたらと考えると……ぞくりと背筋が冷える。


 しかし時は立ち止ってはくれない。アイシャの懇願も虚しく、空は暗くなっていく。


 日が沈む頃。空は茜色あかねいろから紺碧こんぺきに移り変わり、やがて漆黒しっこくに染まった。幸いなことに今宵は月が大きく煌めく。足元の地形が目視できるほど明るいので、無様に転ぶことはない。本当は、人間よりも夜目が利く駱駝らくだに乗れたら良いのだが、膝を折るようにと命じるファイサルには従わず、彼女はつんとそっぽを向いていた。


「へくしゅっ」


 寒暖差に、くしゃみが出る。はなを啜るアイシャに最初こそ呆れたような顔をしていたファイサルだが、周囲の光度が落ちていくにつれ、ふてぶてしい面構えもかげっていく。仕舞いには、いつもの騒がしさが嘘のように黙りこくり、粛々と月の砂漠に足跡を刻んだ。


 どのくらいの時間、当て所なく足を進めただろうか。夜は更け、もはや眼前の砂丘の果てがどこに繋がるのかすらわからない。ともすれば絶望に全てを投げ出してしまいそうになる。幾度も足が止まりかけたのだが、一人砂漠に取り残されるのが恐ろしく、ファイサルの袖を掴んで斜め後ろに続いた。その袖が、不意に揺れた。


「アイシャ、あれ!」


 ファイサルが勢いよく腕を持ち上げるので、アイシャの指が振り払われる形となった。慌てて袖を掴み直して、ファイサルの視線を追う。砂丘の谷間辺りの夜空が、微かに朱色に染まっていた。


 二人は思わず顔を見合わせ、同時に叫ぶ。


焚火たきびだ!」

「集落だ!」


 長時間に渡る放浪の疲労など、一気に吹き飛んだかのようだった。二人は手を取り合い、砂丘を駆ける。急に引っ張られた駱駝が不満そうに鼻を鳴らしたが、気に留めない。


 砂を蹴散らしながら進むのは、集落のならされた地面を走るのとは勝手が異なる。だが、足が砂に埋もれるということはなく、案外砂丘の地盤はしっかりとしているのである。


 ほどなくして淡い光の全容が目に入る。ちょうど谷間で平地になった僅かな隙間に一はりの天幕がぽつんと立ち、その側に駱駝が二頭。焚火を囲むのは二人の男だった。


「人だ! おおい、おおーい!」


 相手が何者かもわからぬうちから、警戒心なく声を張るファイサル。アイシャは得意の臆病風を吹かせて従弟いとこの陰に半身を隠しつつ、男らを観察した。


 根っからの遊牧民だろう。熱射を浴びず、しかし風が通るよう、ゆったりとした長衣ちょういを纏っていた。一方の男が、天に底が見えるくらいの角度で器を傾け何かを飲んでいるのに対し、もう一方は片膝を立てて火を突いている。後者はどうやら、パンを焼いているらしい。


 ファイサルが再度大声を出せば、男らはやっとこちらに気づいて顔を上げる。夜の砂漠を子供が二人だけで駆けてくる様子は、驚愕を誘っただろう。男らは慌てて腰を上げ、歩み寄ってくる。天幕からやや離れた場所で、二組は対面した。


 男らが、駱駝、ファイサル、アイシャと順に舐めるように視線を向ける。最後にもうひと往復、アイシャの目鼻と身体の輪郭を目線でなぞってから、ファイサルに目を戻す。


「おい、ガキがこんな場所でどうした」


 粗暴な印象の問いかけだが、ファイサルは気に留めなかったらしい。


「助けてくれよ。迷子になったんだ」

「迷子? どこから来たんだ」

「南の」

「中央南部です」


 ファイサルを遮り、アイシャは言う。屈強な男の視線がこちらに注がれて、思わず一歩後ずさった。


「中央南部。駱駝の遊牧部族が多い地域だな」

「はい。遊牧中にこの子が逃げ出したので追いかけたら、迷子になってしまったんです」


 駱駝を指差しながらの発言は、消え入りそうな声音である。なにせ、これは嘘なのだから、小心者のアイシャには荷が重いのだ。それならばなぜ、馬鹿正直に「南の赤の氏族集落」と言いかけたファイサルを止めたとかと言えば、これは慎重者の勘とでも言うべきか。この男らには、何か不穏なものを感じたのである。


「駱駝が逃げて……ねえ」


 長い髭の男は顎を撫で、相棒に意味ありげな目配せをする。視線を受けた短い髭の男が、口角を上げて笑みを浮かべた。アイシャにはそれが気味の悪い作り笑いに見えて、人知れず背中を震わせ腕を抱いた。


「しかたねえな。こんな子供を外にほっぽり出しておく訳にはいかねえ。今晩は泊めてやろう。帰り道は明るくなってから探せよ。とりあえず駱駝のミルクでも飲むか」

「わあ、やった! ありがとうおじさん。アイシャ、良かったな」


 無邪気に手を叩くファイサルに、アイシャは曖昧な笑みを返した。

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