3 泉の中での邂逅
全てが淡い金色に染まった。
見渡す限りの丘陵。見慣れぬ素朴な砂丘の景色に、嗅ぎなれぬざらついて乾いた匂い。
足首をさらさらと撫でる微細な砂粒を感じながら、大きく首を
星は竜の身体。月は竜の瞳。しかしそのどちらも、美しさでは本物の竜には敵わない。アイシャの黒い頭頂を擦りかねない近距離を、金の神々しき蛇のような巨体が滑空する。幾度もタペストリーやモザイク画で目にしたことがある。あの姿は、竜。それも、水神マージの使徒たる神聖なる天竜である。
鱗は、昇りかけの月のごとく淡い黄金色に光る。月光の反射ではない。ましてや、周囲に焚かれた
頭頂を撫でる風圧に思わず、感嘆の声を上げる。彼女の灰色の瞳は天竜に釘付けになる。
この世全ての竜の母である天竜が、砂漠の夜空を疾走する。太陽よりも明るく、それでいて柔らかな光。全ての丘陵が金色に染まる。まるで、おとぎ話に聞く熱砂の浜辺のように。
天竜が、その優美に長い尾を翻し、戻って来きた。アイシャは畏れ多くもそれに手を伸ばす。縦長の瞳孔が特徴的な虹色の瞳が、アイシャを捉えた。竜は、アイシャを呑み込もうとするかのように、その顎を大きく開く。不思議と恐怖はない。アイシャは、神聖なる天竜に、その身をゆだねた。
『――――!』
天竜の口内。暗闇に包まれる刹那、アイシャは悲痛な声を聞いたような気がしたのだが、誰の声だったのか、何と言っていたのか、判然としない。そして世界が暗転する。
――次に見えたのは、水泡だった。肌を包むのは、ねっとりとした密度のある水である。そのことに気づき、空気を奪われたことを知り、身体中から血の気が引いた。小さな手で口元を押さえ、次第に迫る死の恐怖に身体を震わせた。
『――――』
誰かの声がした。無意識にきつく閉じていた目を開き、眼前に竜の鼻先を見て、思わず悲鳴を上げる。情けなくももう一度目を閉じて、両手で顔を覆い、荒い息を吐く。そこで気づいた。呼吸に不自由はない。
『――――』
何事か呼び掛けられて微かに瞼を上げれば、細い視界の中、先ほどと寸分違わぬ距離に淡い金色の鱗がある。アイシャと天竜は束の間見つめ合う。
よくよく見れば、竜の身体には小さな傷が無数についていた。中には剥がれかけた鱗もあり、痛々しい様子である。先ほど、夜空を優雅に滑空していたのと、果たして同じ個体なのだろうかと疑問すら覚えたが、天竜はその子孫である砂竜とは異なり、唯一無二の存在。であればこの竜は紛れもなく、あの天竜である。
アイシャは手を伸ばし、竜の鼻先に触れた。硬質な感触だった。
「怪我をしたの?」
神聖なる水神の使いに対し、畏れ多い所作であるが、それを咎める他者はここにはいない。アイシャは、滑らかな鱗に覆われた大きな鼻を撫でる。
『――――』
「何? 何て言っているの?」
アイシャが声を発しようと肺を膨らませる度、腹に水が入り、言葉を吐くと共に流れ出ていく。苦痛は感じないのだが、浴場で水を飲んでしまった時の不快感が思い出され、良い気分とはいかない。それでもアイシャは話し続けた。
「痛いの?」
『――テ――』
中性的な声がした。アイシャは驚きで大きく水を吸い込んだ。
『ケテ――』
小さく首を傾け、天竜の傷だらけの鱗に指を這わせ続ける。奇妙なことに、呼吸を重ねる毎に、竜の声はより明瞭に鼓膜を震わせるようだった。やがて神聖なる声は、鮮明に形を結ぶ。
『タスケテ――』
助けて。そう言ったのか。水神マージの使いであり、砂漠の地に雨を恵むことのできる、偉大な力をその身に宿す天竜が。人間の幼子などに、助けを……。
「皇女!」
不意に、たゆたう世界が大きく振動した。続いて、力強い腕が水中をかき分けて、アイシャの腰に巻き付く。そのまま、水面へと浮上させられる。
「あ……」
水底の淡い金色に手を伸ばしたが、竜を掴むことはない。瞬く間に、アイシャは陽光の下、本物の空気の中に引き上げられていた。
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