序章

1 アイシャの回顧


 あの日、彼女に出会わなければ。アイシャは生涯で一歩たりとも、水が溢れるあの街から足を踏み出すことはなかったのだろう。


 砂嵐が肌を打つ痛みや、搾りたての駱駝らくだの乳のさっぱりとした味、砂竜さりゅうの鱗の肌に吸い付くような滑らかさも、何一つ知ることはなかった。


 広大で絢爛で、しかし窮屈で陰険な女の園。あの場所で順当に成長をしたのなら、淑やかで気品に溢れた貴婦人になっていたのだろうか。想像するだけでも笑いが込み上げてくるほど、今のアイシャとはかけ離れている。


 煌びやかな衣を纏い袖をたなびかせ、毎晩香油で髪を梳かし、売り物のように飾り立てられて、誰かへ褒美として差し出される運命。


 生来臆病な気質のアイシャのことである。何も知らずに育ったならば、窮屈な生涯を喜んで受け入れただろう。しかし、世界の厳しさと美しさを知った今となれば、手足を縛られたかのように不自由な人生を歩むくらいなら、砂漠の真ん中で渇きに命を落とす方がまだましだと思えるのである。


 あの日、彼女と出会わなければ。


 もしもの世界に思いを馳せる度、アイシャは心から思うのだ。まだ何もわからぬ幼子であった頃、意図せず迷い込んだ深き泉の側で。西方蛮族せいほうばんぞく平定の英雄、女傑ナージファの隻眼に見初められたあの瞬間、アイシャの運命は動き出したのだと。


 そして、その出会いが、の運命を狂わせたのだと。


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